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地べたから見上げるダイバーシティ

マルクス主義フェミニズムでは、資本主義というシステムは外部化された労働によって下支えされていると捉える。それは女性や子供によって担われる不払い労働である。育児、介護、ハウスキープ、炊事、洗濯など、人間の社会的生存にまつわるエッセンシャルワークは資本の外部に置かれ、それらが女性や子供といった非労働者による不払い労働で担われることで、ほんちゃんの経済が回っているというわけだ。

近代国家における家族は、再生産を行うための最も効率的な単位として組成されている。再生産とはもちろん、労働力の再生産であり、子を為すことだ。だから、企業は子供を作ることを手厚く援助する。それは、労働者が労働力の再生産を行うことが、資本主義の永続性を保つための倫理的な規範だからだ。 忘れてはならない。近代国家における国民の義務とは生産と再生産つまり働きながら増えることだ。

僕たちの暮らす社会は、隅々までが、家族の存在を前提とした網の目になっている。親が丁寧に育てた子供は、やがて健全な労働者になって市場に参入する。それがまた子を為して、家族を作る。家族は資本主義の内部と外部をつなぐ媒介である。親の不払い労働の剰余価値を食らって立派に育った労働力が、今日も元気に家庭から社会に巣立っていく。

親から生まれない子はいない。子は必ず親から生まれるものだ。だが、それが現代的な制度としての「家族」を当然視して良い理由にはならない。この社会において、制度的に認められた「家族」を持たないということが個人に与える影響力は大きすぎる。資本主義の歯車から外れる孤独や寂寞は形容にあまりあるものがある。

杉田水脈という自民党の議員が、かつて非異性愛者のことを「生産性がない」と形容した。この発言は多くの批判を呼び起こしたが、僕は、一切の共感も同意も与えないものの、資本主義社会における労働者の在り様を形容した発言としては的を射ていると考えざるを得なかった。

リプロダクティブな生産性、すなわち労働人口の再生産への貢献がないという事実は、それだけで当人の労働人口としての生産性を相対的に小さいものにしてしまう。労働者に求められているのは働くことと産むことの2つであり、どちらか一方が欠けることは、労働者としての生産性に大きな疑義を与えることになる。持続する社会を作り出すには、働くだけでは貢献が足りない。増やさねばならないのだ。

僕がダイバーシティという言葉に皮相なものを見出してしまうのは、根底にある再生産の問題に触れないところに原因がある。ある人が家族を為さないという選択を、或いは為せないという事実を、如何にして資本主義社会の中で肯定するのか。社会の基礎単位としての家族から逸脱した個体を、どのように国家や企業が包摂していくべきなのか。子を為さない人々が、二級市民としてではなくなんらかのオルタナティブとして存在できる社会を、作り上げることはできるのか。

極端に言えば、こうだ。家族を為さずとも、増やさずとも、人間は生きていても良いのか。そういう問いを発するとき、ダイバーシティという単語が決して届かない深い闇の中へ降りていくことができるのではないか。

テッサモーリス=スズキというオーストラリアの歴史学者は、コスメティック多文化主義という単語を使い、ファッションや文化など皮相なレベルでの多文化包摂を称揚することで、根底にある生活や経済の問題を覆い隠そうとする態度を批判する。これは、リチャード=ローティが「文化左翼」と呼んだものと同じで、高学歴エリートが自分探しのために文化的イシューに繰り出し、革新的な物言いをすることを揶揄する意図がある。事件は会議室で起こっているのではない。現実の生身の人間の中で起こっているわけだ。

ダイバーシティの問題も同じで、言葉遣いや振る舞いといった表層を取り繕ったところで、根底にある再生産至上主義を問い直さねば、そこにラディカルな意味を見出すことはできない。別にラディカルじゃないからダメだということはないし、そもそもラディカルなものは既製の価値を転覆するために存在するのだから、本来秩序を強いものにし安定させるためのダイバーシティという概念が、ラディカルであるはずがない。だから、自分はノレない。

僕は多様性とかダイバーシティを常に支持する態度を表明してきたが、それは「ないよりマシ」だと思うから、消極的支持を表明しているだけに過ぎない。女性活躍推進、LGBTQ+の理解増進、非日本語話者のインクルージョン、同性婚の合法化、そんなものはあったほうがいいに決まっている。あったほうがいいが、それだけで何かを解決した気になっていいのか、常に逡巡している。

どんなに多様性を称揚する社会の中にも、自分の居場所が見出せない人がいる。分類されず、掬われず、問題化されない孤独がある。それらをじっと見据える知性が欲しい。「誰も傷つけない笑い」という言葉が流行するような社会を、未来に残さないためには何ができるのだろうか。


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