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23歳、創業時。
求められるスキルは圧倒的な業務スキルだった。
それもそのはず。
グループとして初の小売業。
お店も商品やサービスもゼロから提供するのは23歳の私と自身で面接したアルバイトさん。
看板を掲げて地域に店を出すものの、信用もないし、コネもない。
信用を集めるために必要なスキルは圧倒的な業務スキルだった。
立ち上がるものが立ち上がり、軌道に乗り始め、正社員の部下が増えた頃、求められるものが変わった。自身の葛藤との対峙、そして未知な体験の連続。圧倒的な業務スキルからマネジメントスキル、そして仕組みづくりへと変化していった話。

求められた「マネジメントスキル」


23歳当時、ゼロから始まったものの、必死だった。
必死で動いていたから、圧倒的な業務スキルをドンドン身につけられた。
小さな頃から要領が良いなど、言われるタイプの人間じゃない。
そう、知らないことは調べる。調べて身につける。
この繰り返しに過ぎなかった。

良い意味での妥協を

身体はひとつ。
身に着けた業務スキルや知識はアルバイトスタッフさん達に横展開しなければならない。
自分と同じレベルを求めたり、完璧を目指した時もあったが、妥協せざるを得なかった。
当時は無休で働くしかなかった。見かねたグループ会社の先輩が応援に来てくれたが、結局、引継ぎもままならず、出社していた。
そんな日が続き、後輩社員2名が入社してきてくれた。
正直、洋服にも興味が薄いメンバー2人だった。
買取査定という仕事は品物を見てトレンドや再販価格を決定して、買取価格を算出する。
トレンドが伝わらない。イメージも伝わらない。
査定表なるものを帰宅後に作成するしかなかった。不慣れなパソコンを片手に気付けば夜中の2時、3時は当たり前だった。

100点満点じゃなくても、80点、70点で良い。

70点×2名なら140点、自分1人よりも格段に良いことになる。
マニュアルを用意して、運用して出てきた結果を見て、そう思えるようになった。結局、アルバイトスタッフさんも入社直ぐの社員も査定ができるようになったし、アルバイトスタッフさんだけで店舗運営もできるように変わっていった。

その後、現在のNo2が入社してくれて、気が付けば26歳になっていた。
社内ベンチャーから始まった弊社。
気付けば、私はリユース課の課長、部下4名、スタッフ10名程度の組織を牽引していた。
自身のスキルや考えを言語化することで同様のスキルを横展開していく事の難しさを感じながらも経営者としての道に入っていった。

株式会社スタンディングポイント設立

アルバイトスタッフ1名、グループ会社から1名を社員に迎え入れ、本社を神奈川県横浜市に構え、社員5名(店長4名+バックオフィス1名)に増えた。
グループ会社との縁やタイミングもあったが、No2の関東進出への想いに影響を受けたのは間違いない。
ここから創業時依頼の試練は始まる。

立ち上げ3ヶ月は横浜市に単身赴任したが4ヶ月目からは浜松市に戻っていた。

段々と現場が見えなくなっていく。
拠点が離れることで、大きくは変わらないものの、細かなディテールから文化や価値観が変わるもの。

そんな中で良い意味で変化しなければならない事に気付き始めた。

プレイヤー卒業の時

見えないものは任せるしかない。

でも会社は社員は守らなければならない。

私の実務が変わるタイミングだと諸先輩たちからも指導をいただいた。

財務から会計、経営戦略、、、様々な本を読み漁り、学びを深めた。

関東進出後、毎月100万以上の赤字が積み上がる。
痺れる経営からのスタート。
しかしながら、支える浜松エリア。
浜松エリアに必要以上の危機感はネガティブに働く。
関東の危機感、浜松の達成感、このバランス、対局的な中で経営者としての器を拡げることが出来たのは間違いない。
そう、一喜一憂しないこと。
危機感のみに身を置きにいかないこと。

関東は店頭販売から通信販売にシフト、人海戦術でNo2が支えてくれた。
また、ブログによる集客や新たな買取専門店としての道も開けることに繋がっていった。

離れた場所で着実にビジネスが立ち上がり、成長した実感を初めて経験できた。

マネジメントの意味を自分なりに理解した

評価制度を作り込み、歯を食い縛ってビジネスを成長させた人材に対価や機会の投資をするシンプルな設計図。

見よう見真似で作って予算と照らし合わせた。

実務、所謂、査定したり、お客様対応をすることが経営者の仕事ではないと本当に実感した。と共に、現場との温度感や現場から離れて一見、楽そうに見えたりする事も了解していたから、孤独感は高まっていく。

この孤独感を味合わない限り、プレイヤーやプレイングマネージャーのままで終わり。経営者にも役員にもなれないと思う。

最悪なマネージャーは俺を見習え、俺がやって結果を出した、部下の手柄も奪うようなマネージャーだからだ。

未知との遭遇へのタフさ

組織の成長と共に、これまでに起きたことのない問題も多数発生してきた。

後から知った事だが、入社前から知り合いだった中途入社の社員が弊社の店長となり、結託、社内にある在庫を不正に持ち出していた。人間不信となり、嫌がるかなと思った社内に監視カメラを増設したりしたが、信頼できる社員達から嫌がる人がおかしいと言われてハッとした記憶が残る。最終的には信用を集めることができる経営者に自身がなることだと感じた。

社員の交通事故死も起きた。年間MVP賞を受賞したばかりだった。27歳の彼の死は私の死生観(人生)にも大きく影響を与えた。当時から残る会社のメンバーも少なくなったが、それでも引き継がれる。明日は我が身かもしれない。今この瞬間の連続が未来を創っていく。

他にも、業績不振店舗の早期撤退決断、横浜本社の移転時、下請け工事業者の施工品質まで管理できておらず、原状復帰工事でトラブル、若さもあり、訴訟を起こしたが、結果、負けて、外壁工事のやり直しに2千万円以上の費用を支払い、赤字決算に陥った過去もある。

直近では世の中の皆さん同様、新型コロナによる業績への影響も経験した。このタイミングで関西への出店も決まっており、関東・関西の店舗へのお客様の来店は停まった。

もちろん、この全てが精神的なダメージは大きかったし、正直、不安だったし、苦しかった。経営はキャッシュ(お金)が尽きたら終わりだから。

虚勢を張るとまではいかずとも、暗くならないように社内の良い点にフォーカスして、中期ではなく、短期ビジョン(オンライン化への舵を切る)を再定義してきた。

朝令暮改も多数あったし、社内のメンバーにどう映っていたかはわからないし、すべて過去のこと。

でも、これまでに無かった未知との遭遇は自身の成長に欠かせなかった宝になるものだと振り返る。

仕組みづくり

創業して21周年。
ビジネスを取り巻く環境は大きく変わった。
創業時はアプリもiPhoneも無かった。
環境の変化に伴い、リユース業界の売り買いというビジネスモデルは変わっていないかもしれないけれど、社内のフローもビジネスも大きく変わった。そして、これからも変わるだろうと思う。

そんな過去から現在。
変わらないもの。
それは理念だった。
「R&Eビジネスの創造を通じて社会と社員の生活向上に貢献します」という理念は変わることがなかった。

ビジョンが変われば仕組みも変わる


ビジョンが変われば仕組みも変わる。

ビジョン達成の為、「経営戦略・マーケティング」「組織開発・人材開発」も変わる。細かな業務フローもバリューチェーンもルールも評価制度も変わっていく。

この変わるものに対する資源配分や納期・ゴール設定やサポート環境などを適宜、適切なものを決断してゴールに向けて進める推進力、スキル、決断が経営陣には求められ続ける。

しかも許容できないレベルの失敗は許されない。

仕組みづくりをする上で大事なことは「理念を体現するものかどうか」、「ビジョン達成につながっていくかどうか」だと理解してこれからの経営判断も続けていきたいですね。

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