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しその香りと成長過程における後悔

赤い鍛高譚を買った。
もともと鍛高譚のしその仄かな香りが好きで、居酒屋にあればよく飲んでいた。それのしその香りが強いバージョンらしい。
分類は焼酎ではなくリキュールとなっている。
先日買ったやちむんカップで飲んでいるが、渋めのカップの内側が、ルビー色に染まっていて何とも美しい。

鍛高譚で使用している赤しそを5倍以上も使用しているそう。
そんな赤しその香りがすっと鼻腔をかすめ、ルビー色の液体が口内に入るまでは、梅干しの味を連想してしまう。けれど飲んでみると、リキュールの名の通り、さらりとした味わいとなっていた。
スーパーで買えるのだから、なんともお手ごろだ。

しその香りを嗅いでいると、母方の祖母が作ってくれた梅干しを思い出す。

小学生中学年までは、祖母が作ってくれた梅干しが大好きで、晩ご飯のたびに、白米のお供にしていた。なんならおやつ代わりに1,2個食べたりもしていたので、塩分過多であった。

どうやって作っていたのかは記憶していないが、大きな瓶か何かに梅干しとしそを入れていたのは覚えている。
そしてそれを台所の床下で寝かせ、梅としそが赤く染まった頃に取り出して、小分けにして冷蔵庫に入れてくれていた。
この頃は、梅干しと言えば、祖母が作ってくれる梅干しの味しか知らなかったので、初めて市販の梅干しを食べた際は、味があまりにも異なっていて、思わず面食らって一度口に含んだものを戻した覚えがある。

高学年になった頃、気が付いたら祖母はアルツハイマーに侵されていた。

普段通り、「ちょっとお買い物に行ってくるね」と外出をすると、帰宅することはなかった。
父が台湾へ単身赴任して手いっぱいだった母は、余裕がなく、大丈夫だろうと送り出しては、帰宅することのない母に困惑し、慌てふためいていた。
そうこうするうちに祖母はアルツハイマーと診断され、母はうつ病と医師から告げられた。

そんなある日、母が久々に自身の同窓会へ出席した日の夜、わたしは祖母と弟と外食をした。レストランは家から徒歩5分。食事をし終わり会計をする段になり祖母が、「先に家に帰ってても良いよ」と言った。その時には祖母がアルツハイマーで、それがどういった病気なのかを理解していたが、家はここから歩いて5分の距離。流石に帰宅できるだろうと思い、弟と先に帰宅した結果、祖母は5分の道のりを帰宅することはなかった。
その晩、泣きながら父に電話をした。
母には電話は出来なかった。怒られるのが怖かったというのもあるし、何より、久々に羽を伸ばしている母を無理やり帰宅させたくなかったのだ。
良くも悪くも健脚な祖母は翌日、隣町の警察官に保護された。

最近になるまで、わたしは自分自身のことで手いっぱいで、正直、面倒な問題を抱えている人間(家族含む)とは向き合う余裕がなかった。
だから施設に入った祖母とも1,2度しか会うことなく、葬式を迎えていた。

祖母から梅干しの作り方を習えばよかった。
ここ最近そう思うようになっていた。
昨年、母から聞いた話によると、祖母はボケ酒も作れるらしい。

とりあえず、一所懸命に走り続けていた時期を終え、今は緩やかに走る余裕ができた。
そうすると、それまで情報としてしか蓄積されていなかったことに興味がわいたりした。祖母の梅干しの作り方もそうだし、小学生や中学生時代に習った義務教育の内容の一部を深堀して考察してみたいと思うようになった。

どうして今なのだろうと思う。

どうして勉強している当時、祖母がまだ生きている当時に、その興味がわかなかったのだろうと思ってしまう。

義務教育とは、白紙の紙にとりあえず書き込んでいく作業だ。
そしてその書き込まれたレポート達が意味を成してくるのはずっと先の話の場合が往々にして多い。
悔いは後にしか生じない。
教育方法云々の話ではなく、成長過程上、仕方ないのではないかとは思う。
線を描くには点が1つだけでは描けないのだから。

それをたまに考える時、過去に戻れたらと思ってしまう事がある。

過去に戻って祖母に梅干しとボケ酒の作り方を学び、ちゃんと帰宅させられたらと。

おしまい

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