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#8 平成と令和のあいだに、私は「区切り」に感謝した

急に「時代が変わる
ということを意識している。

それまで意識したことなど
ほとんどなかったのに、である。

平成が終わって、令和が始まる夜。

今日で平成が終わるのか、と
ぼんやりと思いをめぐらせながら
#ありがとう平成
#平成最後
というハッシュタグが溢れるSNSを見ていた。

平成天皇のお言葉を聴いて、
何に対してか分からない
感謝のようなものを感じている私。

それは、不思議な感覚だった。


私は、何に感謝をしているのだろう。
ちょっとした違和感と、
それを超えるあったかい気持ち。

日経新聞に掲載されていた
Twitterの30段広告に、
心を動かされていたのもある。

馴染みあるTwitterという窓から見た
「平成」という時間がそこに表現されていて、
急に自分が時代の一部だったような
感じがしたのだ。

時代は、私であり、みんなである。

私も、平成という時代の一部だったこと。
ちいさくても、
確かにそこに関わっていたこと。

そして、きっと同じようなことを感じながら
平成という時代に感謝している人たちが
いるのだろうなということ。

熱狂とは言いきれない、
でも確かにある一体感のようなものは、
「”みんな”で同じ枠組みの中を振り返る」
というプロセスが生んでいるのかもしれない
、と思った。

「生前退位」という
”喪に服さなければならない”という
強制感がなかったことによって
生まれただろう、あれこれ。

自分で次の時代へ行くことを
選べているような感覚で、
平成という時代の自分を
認めたり褒めあったりして、
みんなと一緒に、
自分自身を振り返る時間を過ごしていた。

人間の本能に近い欲求である、
・自分で決めたい
・有能でありたい
・関係性を築きたい
自己決定理論に基づく構図に
なっていたとも感じる。


平成生まれの私にとって
平成を振り返る数日間は、
人生(より少し長い時間)を
振り返ることだった。

自分自身の記憶には残っていなくても
確かにあったその出来事を
メディアやSNSから知ることで、
気づいたことや思い出したこともあった。

それらに魅了されながら
新しいものに反応しながら生きてきたことを、
「平成が終わるよ」という区切りによって
初めて振り返ることができた。

そうやって生きてきた自分のことも、
自分たちのことも褒めてあげたいなと
思ったのではないだろうか。
#平成最後に自分の代表作を貼る  とか。

私が感じていたのは、
「区切りをもらったこと」への感謝だった。

同時に生まれた「区切り」は、
誰かと一緒に振り返ることの豊かさを
感じさせてくれたから。

ありがとう平成。

ハロー令和!


photo by 写ルンです│
2019年春。山科駅のロータリーの中心の枝垂れ桜と青空。私の「令和」のイメージは、こんな感じのやさしさとつよさ。

サポートいただき、ありがとうございます! 有料noteを読んで、学びにして、また書きたいと思っています。