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泉谷しげるearly daysの巻その6。

・泉谷しげる「わが奔走」(ロッキング・オン)

 1978年、泉谷しげるさんは役者として、テレビ、映画などに出演します。
その時期、フォーライフを辞めたこともあって、「フォークの裏切り者」と一部のファンから呼ばれる事態に。。
移籍先としてワーナーパイオニアの洋楽セクションのアサイラム・レーベルの所属となります。
ちなみにアサイラム・レーベル日本制作の第一弾作品は1977年発売の伊藤銀次さん『デッドリィ・ドライブ』でした。

 アサイラムからの最初のアルバムはプロデューサーに加藤和彦さんを迎えての『80のバラッド』になりますが、レコーディングに参加したのはギターに柴山和彦さん、柴山好正さん、ベースは吉田建さん、キーボードに中西康晴さん、サックスに小林勇司さん、ドラムスに島村英二さんという顔ぶれでした。
その後、ドラムスが正木五郎さんに変わって、泉谷さんのライヴのサポートも担当するBANANAへとなっていきます。
柴山和彦さんと吉田建さんは1980年代の沢田研二さんをサポートするバンド、オールウェイズ~エキゾティックスの主要メンバーも兼ねて活動することになるのですが、それはまた別の話ですね。

 『80のバラッド』は泉谷さんの代表曲である「翼なき野郎ども」、「デトロイト・ポーカー」に「裸の街」が収録されていますが、それらの歌詞を書く際、詳細な部分まで設定して完成までにノートを数冊使ったり、まとめる際には原稿用紙で十枚以上使ったりしたそうです。
このアルバムでは演奏もテンションが上がってしまい、泉谷さんのヴォーカルもそれに負けないように歌ったため、これまでとはオクターブ上がってしまったのでした。
この時期から叫ぶというか、吠える現在のヴォーカル・スタイルがより確立したといえるかもしれませんね。

 プロデューサーである加藤和彦さんもこのレコーディングを経て、フォーク・クルセイダースのメジャー・デビューからずっと所属していた東芝EMIを離れて、ワーナーパイオニアに移籍することになりました。
この移籍がきっかけで、加藤さんのキャリアの中でも人気の所謂ヨーロッパ三部作(『パパ・ヘミングウェイ』、『うたかたのオペラ』、『ベル・エキセントリック』、ちなみにこの3枚から選ばれた『アメリカン・バー』も発売されています)が制作されるのでした。

・「ROCKIN' ON JAPAN FILE」(ロッキング・オン)

 一方、RCサクセションは春日博文さんや新井田耕造さんに仲井戸麗市さんが参加することになったわけです。
ただ、仲井戸さんは古井戸との両立に悩んだ時期でもありました。
1978年には古井戸の久々のアルバム『SIDE BY SIDE』(なぜか未CD化)がキティ・レコードから発売されたり、加奈崎芳太郎さんのソロ・アルバムが制作されることになりました。
このアルバムがヒットすれば、仲井戸さんがRCに参加しやすくなるという目論見もあって、清志郎さんは全面協力します。
勿論、表立っては言えないにしても、加奈崎さんへの友情も含まれた上での行動だったと思ってしまうのですが。

・「ロック画報 10」(ブルース・インターアクションズ)

 

 古井戸のアルバム『SIDE BY SIDE』も加奈崎さんのソロ・アルバム『愛がもしすべてなら・・・』もヒットはしなかったのですが、加奈崎さんのソロ・アルバムではその後のRCにとって重要な出会いがありました。

 RCがキティに所属した際のディレクター、森川欣信さんと正式な形で対面したのです。
ちなみに森川さんはキティでRCやあがた森魚さんのバンドヴァージンVSなどを担当した後、独立し、オフィス・オーガスタを設立しました。

 春日博文さんがカルメン・マキさんの仕事などでRCに参加できないことが増えた結果、その代わりにクロス・ウィンドなどで活躍していた小川銀次さんやゲストのキーボードという形で柴田義也さん(後のGee 2wo)を迎えることになりました。
まだまだ渋谷屋根裏などの局地的な状態でしたが、徐々に人気が出てきたというわけです。

・石原信一「吉田拓郎挽歌を撃て」(八曜社)

 

 吉田拓郎さんは久々のアルバムを作るための準備として、1977年6月サイパンに松本隆さんを連れて旅立っています。
松本さんの歌詞、拓郎さんの曲という形で出来上がった作品はアルバム・タイトルになった『ローリング30』やシングル・カットはされなかったものの、この時期の代表曲となった「外は白い雪の夜」などでした。

 その翌年、1979年には拓郎さんがツアー活動を再開しました。
7月には篠島でのライヴが行われて、ブレイク前の長渕剛さんがフロント・アクトとして出演し、帰れコールを浴びたことは長渕さんファンの間では知られたエピソードですね。

 1979年のツアーは『TAKURO TOUR 1979』と『TAKURO TOUR 1979 vol.2 落陽』という形でレコード化されましたが、「ペニーレーンでバーボンを」に差別用語が含まれているということで、現在は完全な形ではCD化されていません。
ツアーに参加したのはキーボードに松任谷正隆さん、ギターに鈴木茂さんと元愛奴の青山徹さん、ドラムスには島村英二さん、ピアノにエルトン山田さん、ベースには元猫の石山恵三さん、アコースティック・ギターとパーカッションに元猫の常富喜雄さんという顔ぶれで、篠島でのライヴにはコンダクター&アレンジャーで瀬尾一三さんが参加し、松任谷さんと山田さんがキーボード、ギターには笛吹利明さんと青山さん、ベースには武部英明さん、ドラムスには渡嘉敷祐一さんにホーンとストリングス・セクションが参加しました。

・「別冊カドカワ総力特集井上陽水」(KADOKAWA)

 

 とある事情で1年以上のブランクの後発表したアルバム『white』と『スニーカーダンサー』はこれまでの井上陽水さんとは一味違った歌詞の世界に突入した印象があります。「なぜか上海」や「娘がねじれる時」に「ジェニーMy Love」は陽水さんにしか書けない世界ですね。
『スニーカーダンサー』後には高中正義さんと武道館でジョイント・コンサートを開催し、ライヴ盤を発表する予定もあったのですが、色々な事情で中止になってしまいました。が、テレビのステレオ放送が始まった時期ということもあって、陽水さん出演部分中心にステレオ放送されています。残念ながらソフト化はされませんでしたが。。

 ようやく1980年近くまで書くことができました。長かった。。
多分、明日で一区切りになると思います。明日で終わったら、明後日は資料についての解説をして終了ですね。

 その後、またちょっとした記事を書いてから、隠れ名曲、名演コレクションに戻ろうかと考えてます。

 ではまたー。


 



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