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#020身近な史跡、文化財の楽しみ方(5)

 今回も東京を舞台にご紹介します。今回は皇居周辺からスタートです。

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 以前から一度見てみたかった、高村光雲作の楠木正成像。早朝だったもので、だいぶ写真が暗いですね。高村光雲も若いころに前回寛永寺境内にあった記念碑を紹介した上野戦争の様子を見知っていた人物の一人です。確か『戊辰物語』(岩波文庫)に高村光雲の上野戦争の体験談が掲載されていたかと思います。

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 坂下門の案内板。今は修正されていますが、以前GoogleMapでこの場所に「坂下門外の変記念碑」と記載があって、楽しみにしてこの場所を訪ねたらこれがあったのでがっかりした記憶があります。

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 こちらは場所が変わりまして、護国寺境内です。明治10年(1877)の西南戦争の際に東京警視庁から出征した警視隊の記念碑です。明治13年(1880)に設置されています。『征西従軍日誌 一巡査の西南戦争』(講談社学術文庫)の著者である喜多平四郎もこの部隊に属しています。

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 こちらは「三条実美墓」。幕末維新期に活躍した長州派の公家ですね。身分も高かったので、立派な墓です。そばには三条実美の顕彰碑と「感旧之碑」という七卿落ちの記念碑があります。これまではマイナスイメージが強かった三条実美ですが、近年研究が進んで、これまでのイメージの見直しが図られていますね。

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 こちらは「田中光顕墓」。土佐藩士で、後に明治政府で宮内大臣などを歴任した人物。昭和14年(1939)まで長生きした人物で、『維新風雲回顧録』などを著したりしています。

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こちらはお雇い外国人の「ジョサイア・コンドル墓」。現在の日本の近代建築の嚆矢として知られる辰野金吾や武田五一の指導教官です。日本で亡くなってたんですね。知りませんでした。

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「山県有朋墓」。非常に大きいです。さすがに首相を歴任した人の墓は破格です。山県は庭作りの趣味があり、生涯にわたって本宅や別荘など10カ所ほどの庭のデザインをしたということですが、幼少のころから椿が好きだったということが『公爵山県有朋公伝』に記されています。かなり渋い趣味を持った子供だったんですね。その椿好きをあらわすのが下の写真。これは山県の墓所の周りを囲んでいる塀の柱部分です。意匠として椿のデザインが使われています。これがなぜ椿のデザインと言えるかというと、五弁の花びらに真ん中のおしべ部分が凸状にデザインされており、おしべが密集して盛り上がっている様子がよく表されているからです。あまり人気のない山県ですが、こういうところに趣味をあらわすというところにある種の親近感というのを感じるのは私だけでしょうか。

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 いかがでしたしょうか。墓地からもそれぞれの人物のことが見えてきますので、個人的には墓地、墓石も資料として見ることが出来、文化財としての楽しみを見いだせるので、墓廻りで不謹慎だと思われる方もおられるかもしれませんが、ご近所にある墓地で何が書いてあって、どんなものがあるか、一度見てみてはいかがでしょうか?

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