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#055武士と百姓の友情はあり得るか?-食と歴史にまつわる、あれこれ

 今回は余談として、ちょっとまだまだ活字に出来ない史料についてのお話を書いてみたいと思います。

 著者がまだ二〇代のころ、ある地方文書の史料調査の際に、庄屋文書の中から大量の書状の束と出くわすことがありました。当時はまだまだ文字を読むことに自信がなく、書状の束にうんざりしていましたが、書状を読み進めていくと、どうも一人の差出人とのやり取りのものが一括としてまとめられていたもののようでした。その差出人の人物は、のちに幕末の浜松藩で家老となる岡村義理(通称黙之助)という人物でした。著者は不勉強で当時この人物を全く知らなかったため、とにかく書状を読み進めることに注力して、読めないながらも史料と格闘するという日々を送っていました。
 この岡村は浜松藩士で、彼の属する井上家は不祥事を起こしたことによて、浜松から棚倉、館林と転封され、再び浜松に戻ってくるという大名家でした。岡村は井上家で、備中の飛び地の管理や大阪の蔵屋敷での勤務を経て、浜松に戻って家老になるというキャリアを積んでいた人物です。どうも飛び地の領地の管理や大阪の蔵屋敷に勤務することは、藩の出世コースだったようです。著者が見た書状は、大阪の蔵屋敷に勤務していた時のものが中心になっていました。

 岡村黙之助義理は、大阪の蔵屋敷に勤めている間に、藩財政の立て直しのために大名貸しとして、大阪の各地の百姓たちから資金を融通してもらう交渉をどうやらしていたようです。その資金調達の際の書状がこの一連の書状という事です。岡村黙之助は、大阪の所領以外の村々でも資金調達を頼みに回っていたようで、著者の見た史料も、井上家の領地には一度もなったことが無い地域でしたが、金策のため岡村黙之助が訪ねて回っていたようです。近世後期の大名は、貨幣経済の発展によって経済的にひっ迫している所が多く、所領内の百姓に献金をしてもらったりすることで、何とか乗り切っている所が多々ありました。そのため、献金に応じた百姓には名字帯刀を許すという、献金と引き換えに特権を与えることもよくありました。

 岡村黙之介がどのようにしてその庄屋と結びついたのかは不明ですが、金策のために奔走していたのですが、お金を借りる側ですので、かなり気を使っていたようです。書状によると、事前に近江国八幡(現在の近江八幡市)へ行くことがあった際には、手土産として「赤こんにゃく」を届けている様子が描かれていました。赤こんにゃくは現在も近江八幡市の名産として続いている食べ物で、色が真っ赤なこんにゃくです。あるいは京都へ出張に行った際には「川端道喜」を購入して、手土産にしています。川端道喜は中世から続く和菓子屋で、貧窮する御所に粽を納品していたお店で、現在も続いています。

 また、次に挙げるのは、書状の中に出て来たものの、文字は読めるのに食品の名前としてはさっぱり判らなくて苦労した食品です。書状の発信元は和泉国のいずれかの村で、そこから送られてきた土産の名前が「鹿尾菜 壱樽」と書かれていました。これが何だか判らない。樽に入れて運搬するということと、和泉国の海べりの地域からの土産だということで、海藻ではないかと想像して、広辞苑や日本国語大辞典を片っ端から思いつく海藻の名前で引いていくということをしました。「鹿尾菜」って、何か想像つきますか?最終的に行き着いたところとしては、鹿の尾のような形の海藻ということで想像して、「ひじき」と類推して辞書を引くとひじきの項目に「鹿尾菜」の文字があり、何とか正解にたどり着きました。モノの名前は知っているか否かのみにかかっているので、このように史料を読むうえでは、どんな知識も無駄にならないなと思わされた出来事でした。

 このようなお金の貸借関係でのつながりで、気を使って様々な地域へ行った際に、その土地土地の名産品などを送ってくる岡村黙之助でしたが、ある時、その庄屋と書籍の話で盛り上がったようで、以降のやり取りの中に読んだ書籍の話をお互いに書き合うようになっていき、さらにお互いに書籍の貸し借りをする仲に進んでいきます。貸し借りした書籍として覚えているのは、「徒然草」などがあったことを記憶しています。
 このようなやり取りがあることに、当時は非常な衝撃を受けました。武士と地域の知識人、文化人とが交流を持ち、非常に親密な中を形成していた、と。ここに武士と庄屋の、読書という趣味を通じた、ある種の友情のようなものを、これらの書状から感じました。なぜ友情のようなものを感じたかというと、岡村黙之助がその後、どのようになっていくかに関わってきます。
 岡村黙之助は、大阪の蔵屋敷勤めの後、浜松藩本体に人事異動で戻ります。そして、家老職として、沿岸防備のため大砲を設置したりと、藩内の開明派として力量を発揮し活躍することなります。しかし、後には反対派に追い落とされ、閉門蟄居に追い込まれてしまいました。その閉門蟄居している期間に、既に貸借関係や仕事上の付き合いはない大阪の庄屋から岡村黙之助に対する様子うかがいの書状が浜松に頻繁に出されており、それに対する岡村黙之助の息子・岡村義昌から送られている返信が残されていました。ここから、金銭貸借だけではない、それ以上の付き合いがあったことを想像させられました。これは岡村黙之助が亡くなった後も息子の義昌とも法要のたびごとにやり取りをしている所からも感じさせられます。

 岡村黙之助義理については、書かれている書籍もあまり多くはありませんが、岡村竜彦『岡村父祖事蹟』(一九四三年)という書籍があります。国立国会図書館に収蔵されていますので、現地に訪ねると閲覧できます。下記のURLから書誌情報を確認出来ますので、ご興味のある方はご覧ください。
 こちらの書籍は、著者が岡村竜彦という、岡村黙之助義理の孫、義昌の息子の著したものです。こちらは父祖の活躍が記されたものですが、幕末の著名な志士たちとの交流などについても触れられています。志士たちとの交流は当時としては、時代の名士たちとの交流ということで重要視されることとは思います。しかし、岡村黙之助が名もなき市井の知識人、文化人とも深く交流を結んで友情をはぐくんだという点で、その人物の人柄なども見えてくるように思えますので、改めて注目、評価されてもいいのではないかと考えています。そのため、この書状はただいま非公開なのですが、いつか公開されたときには再度閲覧して論稿として書いてみたいと思っております。
 なお、このような人物ですので、他の地域でも市井の知識人との交流を温めていたのではないかと想像されますので、関連する史料をご存知の方がおられましたら、ぜひ情報提供いただけますと幸いに存じます。


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