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お弁当に詰まっていたモノ。

学校は、お昼の時間に皆が同時に昼食を食べる。

「自分の家は、まだ恵まれてるなって思うわ。」

友人は、ふと、そんな一言を呟いた。友人の見る先は、僕の方には向いてはいない。友人の見る目は、僕の斜め後ろの方。少し席の離れた方を眺めていた。

たぶん、いつもスーパーで購入したであろうお弁当。それを学校に持ってきて食べていたあの子をみて。そうやって感じていたから漏らした一言。あの子の使い捨ての容器と比べ、プラスチックに強度がある容器の友人のお弁当には"食べ物"。それ以外にも何かが詰まっていた。

二人のものを比べても、食べ物自体には、さほどの豪華さの違いは無かったと思うが。あの子の食べるものも、友人の食べるものも食材では有る。友人のお弁当に詰め込まれていた食材にしても、スーパーで購入した食材でも有ると思うのだが。

友人が言いたいのは、それを誰が作ったのかが肝心な所なんだと。そこには親が作った、という、そんな過程が必要であるんだと友人の言葉の裏に有る意味を僕は感じていた。

「あの子自身が悪いわけでは無いだろう」と僕は答えてしまっていた。僕のこの答えすらも、あの子のお弁当について評価してしまっていたのかもしれない。食べれてしまえば、それでいいはずなのに。そこに有る価値について、僕達は比べていたのかもしれない。

もしかすると、実際それほど友人のお弁当にかかる値段は高くなく、あの子の買ったお弁当の方が値段が高いかもしれない。値段で比べているわけではなく、各々の家庭にある"愛情"のようなものが、お弁当には詰まっているのかを比べているのだと思う。

僕のお弁当には、愛情なんてあったのだろうか。考えてみれば、殆どが冷凍食品で詰め込まれている、僕のお弁当には、凝った料理など入っていない。ただ、親の忙しさを考えれば、僕は別に簡単なモノを詰めてさえ、してくれてれば満足である。

あの子の家庭には何か事情があって、ただ購入するだけで済む。そんなお弁当を持ってきているのかもしれない。実際、手料理なんて面倒なものだと思う、時間がかかるし。それなら買った方が早く効率が良い。そして、あの子が、それでいいと思っているのだと思うと。あの子からしてみれば、何も気にしていることでも無いとも思う。

そうやって比べてしまっている事自体も無意味なことである。比べる必要性すら感じないし。

でもいちいち、そんな細かな説明を友人にした所で。彼はそんな答えを僕には求めていなかったと思う。ただ一言、友人が漏らしただけの事で。僕が過激に反応しては、ただ笑われるだけだろうと思うから。この不信感を友人には何も伝えなかった。

この感情の違和感とは何なのか。考えてみたら、無意識に他人と比べて、自分の幸福感を僕達は自覚している事。それに違和感を感じていたのかもしれない。自分と異なる者を見つけては自己の勝手な評価で価値を見定め、自分のモノと比べる。それが優位なモノで有るか、不利なモノで有るか。それで自分の置かれた、環境には価値が有るのかを感じる。

世間の基準という物差しは、時に人を見下す価値観を植え付けている。いつの間にか刷り込まれている。普通とは何なのか、大衆と異なっていれば異質なものであるのか。

それでいて普通だと思われる事に、人は嫌悪感を感じている。さらに他人よりも劣るような事では悔しがる。少し他人とずれた場面に羞恥心が働き。他者とズレた歩幅を、他者との歩幅に合わせようと同調し、僕達は結局、普通になりたいのか。普通から外れたいのか分からない。

ただ、分かるのは平均的な基準よりも、下に見られる事と下に居る実感を嫌い。平均的な基準よりも、上に見られる事と上にいる実感を好む。

微妙で、絶妙な、価値観の中でずっと生きていて、他人と比べなければ自分の価値にすら実感できない。

その価値観のままで。あの子の立場に立って、僕は考えてみたけど。

あの子は。もしも僕達のお弁当を見た時に羨ましいと思うのか。もしも、羨ましいと思い、感じて「自分は全く恵まれていない」と感じてしまうなら。一体誰のお弁当をみて「自分は恵まれている」などと思えるのか。

つまらない価値観の中で、たった日常の大した事でも無い、お弁当一つでも比較していた僕達は。もっと、深く、何かを感じ、何かを考え無ければ。永遠に、同じことを繰り返しているんだろうな。

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