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自分が「嫌った」もの〜回顧する1ページ〜

私は常に「攻撃」というものから逃げてきた。思えば中学生を境にだと思う。攻撃がどれほど人に恐ろしい残酷な影響を与えるか自らの体験をもとに知っていたから。殺人やいじめといった類のテーマの作品を避けてきた。直視できなかったし、今もそうである。

ただ、その割にSNSなどで心ない自分の考えとは相反するアカウントを見ると、それに対して攻撃性が自分の中で芽生えてくるのがわかった。そして自分にそういった恐ろしさ(それを人間の恐ろしさといっていいのだろうか)を、そして愚かさを思い知るのを繰り返していた。

また私は「しめきり」という言葉を嫌がった。これも中学生の頃からだ。なぜ、誰が誰のために期限を設けるのだろう、と純粋に疑問に思っていた。確証ないそれぞれ違う人生(デッドライン)の時間軸にいるのに、都度、常々、訪れる「しめきり」。

幼い頃はそれが宿題であったり、試験だったり。大学に入れば「レポート提出」などがそれを指した。そういった仕組みについては理解した上で、やはり「妙なものだ」という感覚は拭えなかった。締め切り。英語では「デッドライン」と云うそうじゃないか。「死の線」??あまりに直訳すぎるが、どうしても「絶たれる」と云うイメージが取り憑く。この言葉がどうしても馴染めなかった。

そしてこういった一連の考えを巡らして「陳腐」な言葉の羅列に思えてバカらしくなる。それほどまでに自分に自信がなくなっているのだ。自尊心というものがズタズタに傷つけられている証拠でもあった。

何しろいちいち人の顔色を伺う人間に仕上がってしまったのだから。幼い頃から周りの大人や友人に叱られたり呆れられることも多かった私に取り、例えば自分が「笑っている」ことにさえ自信が持てない瞬間が昔から、今でも訪れるのであった。お笑いを見ていても、そのタイミングで笑ってよかったのか、ビクビクして彼や家族、友人の反応を確認しなければならなかった。そして「人の顔色を伺う人間が嫌いだ」と公言する人が多いことも知っていたので自尊心は削られていくばかりであった。



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