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夜の銀座散策③ 〜MIKIMOTO〜

こんばんは🌃
こちらの続きになります。↓

MIKIMOTOの本店のそばに立つ真珠王の記念碑を見つけ、創業者の御木本さんのことをもっと知りたくなりました。
銀座散策から少し寄り道します。

明治時代に入る少し前に現在の三重県で生まれた御木本幸吉さんは、家業のうどん屋を継いでいましたが、大きな利益を求めて当時高値で取り引きされていた天然真珠に目をつけました。
志摩の名産でありながらも、業者による乱獲で絶滅が危惧されるようになっていたアコヤ貝(真珠貝)。
そこでアコヤ貝の養殖に挑戦することにしました。
赤潮に見舞われながらも、半円真珠が貝の中から見つかります。
その後良質な真珠を大量に採取できるようになり、真珠の養殖は発展していきます。
しかし約10年後、再び大規模な赤潮が養殖場を襲います。
養殖貝の5分の4にあたる85万個が死んでしまいましたが、死んだ貝を開いていくと、大粒の真円真珠が5個見つかりました。
85万個の貝を開けるなんて、それだけで気が遠くなる作業ですね。
二宮金次郎を尊敬していた御木本さんが勤勉で努力家だったことが伝わってきます。
これをきっかけに研究が進み、核に真珠質を確実に巻かせることができるようになり、真円真珠の生産にも成功します。
真珠の生産が軌道に乗り、販売の体制を固めて銀座に御木本真珠店を開きました。
値引きによって真珠の価値を下げてはならないという信念から決して値引きせず、信用を高める商法が厳守されていました。

昭和に入る頃、御木本さんは欧米視察の旅に出ました。
そして海外進出へ。
渋沢栄一の紹介で、発明王のトーマス・エジソンとの会見も果たします。
すごいですね!
ニューヨークにあるエジソンの自宅を訪ねて、美しい真珠のネックレスをプレゼントしました。
エジソンは「私の研究室で出来なかったものは2つある。ダイヤモンドと真珠である。あなたの発明は世界の驚異です。」と業績を讃えると、「あなたが発明界の巨星なら、私は数多い星の一つにすぎません。」と答えたそうです。
とても謙虚ですね。

欧州に養殖真珠を輸出しはじめた頃、欧州の宝石商たちから「養殖真珠はニセモノだ」として排斥運動を起こされ、パリで裁判になりました。
しかし勝訴をして、欧州進出はますます加速しました。

時は流れて戦争に突入していくと、真珠は贅沢品とされ、商売は危機的状況になります。
そこで小粒の真珠からカルシウム剤を生産し、戦時下の深刻な経営危機を乗り切りました。

戦争が終わると、昭和天皇が養殖場を見学に訪れ、御木本さんは感激します。
その後も皇室の方の訪問が相次ぎ、皇室との繋がりは強くなりました。

波瀾万丈の人生を送った御木本幸吉さんは、96歳と長生きしました。

そもそも真珠は、アコヤ貝の体内に入った砂粒や寄生虫などが刺激となって真珠質が分泌され、それらを核として形成されます。
100〜1000個の貝から真珠が1粒出てくるかどうか。
その1粒さえ宝石的価値を有するとは限らず、開けた時点で貝は息絶えてしまいます。
「貝に真珠を作ってもらう」という、不可能と言われた雲をつかむような挑戦をしたこと。
勤勉で、泥くさく努力をし続けたこと。
発想力の豊かさや頭の回転の速さで、危機をチャンスに変えていったこと。

御木本幸吉さんの人生に触れて、便利で楽できる今の時代に生きている自分が忘れてしまったものを思い出させ、奮い立たせてくれたような気がします。

MIKIMOTOのパールが似合う女性になりたいものですね。
今はお値段的に手が出ないですが、いつか何かの節目で自分の力で身につけられるようになりたいです。

次回、夜の銀座散策に戻ります。
読んでいただき、ありがとうございました♪

参考はこちら(神奈川県立の図書館)↓
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/uploads/2020/12/004mikimoto.pdf

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