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夕陽が太平洋に沈む時 【第11話】

夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】

 麻衣はその後の言葉が続かなかった。怒りで身体中の血が逆流し始めているかのようにも感じられる。
 
 麻衣は思わずコニーを引っ叩こうとするが、腿の中途からばっさりと切れている脚が視界に入ってしまった途端、上に振り上げた腕から思わず力が抜ける。

「殴りたいなら殴れば良い。健康体でないからといって同情は無用だ。同情なんて却って迷惑だ」

 そう言い放ちコニーは、ベッドに立て掛けてある松葉杖を取ろうとする。
 
 麻衣は同情をするな、と言われたので手助けをするつもりはなかった。

 コニーは松葉杖を右手で掴むと、不安定な体勢で上体を起こそうとした。立てかけてあった松葉杖は、不自然な重力を受け床を滑る。それと同時にコニーの上体も床の上にドサッと倒れ落ちる。

 麻衣は走り寄ったが間に合わなかった。

 コニーは、観念したように床に仰向けに横たわっている。

「大丈夫?どこか打ったの?」
 
 コニーは答えずに目を閉じている。
 
 麻衣は、彼の胸板の上に半ば屈みこむ様な姿勢で腰を下ろした。彼の目尻に刻まれた年輪は明瞭に視認出来る。胸板は相変わらず厚く、白いシャツの袖から伸びている腕の筋肉も衰えておらず、残っている一本の脚も、二本の時よりも負荷が掛かるためか萎えてはいない。

 麻衣は、これほど近距離にて、彼の姿を凝視する機会はかつてなかった。

「麻衣、もう出て行ってくれないか」

 コニーが麻衣の名前を口にした。

 麻衣は、コニーが彼女の名前を記憶さえしていたことを意外に感じた。

「あら、more than welcomeとご親切に招き入れて下さったのは貴方のほうよ。でも入ってきても何もサービスして頂いてないわ」

 コニーは目を開き、麻衣の好きだったそのヘーゼル色の瞳を細めて苦笑すると、冷蔵庫のある方向を指差した。

「シャンパン、ワイン、ビール、大抵のものは入っていると思う、勝手に持って行ってくれ」

「まあ、私はものが欲しくてここに来たのじゃないのよ。どこまで失礼な人なの」

 コニーは麻衣の憤慨した様子を見て微笑む。

 この人とはまともに会話というものが出来ない、暖簾に腕押しだわ。

 麻衣は立ち上がり、冷蔵庫に向かう。

 冷蔵庫を開けると、そこには、ほどよく冷えたアルコール飲料の小瓶がところ狭しと並べられていた。麻衣はその中から小瓶のシャンパンを2本取り出した。

「お言葉に甘えてシャンパンを頂いたわ。でもそんなところに寝てられたら一緒に乾杯も出来ないわ、早く起きて頂戴」

 コニーは、観念した表情にてベッドに手を掛けて起き上がろうとする。麻衣は、彼の脇の下に腕を入れて助け起こそうとする。

「余計なお世話だという表情をしているわね。でも、本来なら私の夫になるはずだった人を抱き起こしても不思議はないと思うわ」

 彼は敢えて抵抗はせず、麻衣の助けを借りてベッドサイドに腰掛けた。彼の胸元からはドラッカーの香りがする。懐かしい香りであった。

 麻衣は、彼の手にグラスを持たせシャンパンを勢いよく注いだ。続いて、自分のグラスにも注ぐ。

「乾杯しましょう」

「何に乾杯するんだい?」

 麻衣は一瞬考える羽目になった。

 あれから11年たった今、こうして彼と再会をすることが出来た。

 しかし、彼は片脚を失い、現地の水商売の人を買い、性格も随分を歪曲してしまっているようであった。

 それにも拘わらず、麻衣は、彼にようやく出会うことが出来て、至上の喜びに浸っている。

 沈黙の背後から、夜の海のさざ波の音が響いて来る。その音が静まる瞬間には、シャンパングラスから気泡が徐々に消えてゆく音が弾ける。

「何に乾杯するべきか。そうね、こういうのはどうかしら?馬鹿な女と、悪い男の再会。馬鹿な女は自分の馬鹿さを再認識して、悪い男はこれから罪悪感に苛まれて生き続けるの」

 麻衣はコニーの反応を窺ってみる。

 コニーは軽く肩を竦めた。

「全く、祝福するに値する内容じゃないな、しかしこのシャンパンもドン・ペリニヨンじゃない。いいよ、乾杯。さらにつけ加えると俺の妻になるはずだった麻衣の相変わらずの艶やかさに乾杯」

 そう音頭を取ると、コニーはシャンパングラスを麻衣のグラスに軽くぶつけて一気に飲み干した。

 俺の妻になる筈だった麻衣の相変わらずの艶やかさ、何を言っているの、この人は。また私を騙すつもりなの、まだ懲りないの?

 麻衣は、シャンパンには口を付けずにグラスを膝の上に置いた。

「どうしたんだ?この年代のシャンパンは君の高級な嗜好に合わないのかい?」

「もういいでしょう?もう十分愉しんだでしょう、いくら私が馬鹿だからって二回も騙そうとしなくったっていいでしょう。せっかく貴方の事を克服出来そうだったのに、新しい恋も見つけたのに」

 麻衣は、剛史と過ごした去年のクリスマスの出来事を回想しようとする。回想シーンの一つ一つがロマンチックであった。剛史が行ったことは全て正しかった。剛史は何においても大人でひねくれているところなど無い。模範的な夫だ。

 それと比較して、大道具を用意して大掛かりな芝居をして、女を騙して愉しんでいるこの男。

 剛史の幻影は、麻衣の目前にいる男の存在感に代替され、次第にその影を薄めて行く。

 茶色い髭が覆い始めたいかつい顎、次第に麻衣の柔らかい頬はその髭を感じ始めていた。彼の大きい手は麻衣の細い首を引き寄せていた。今や、煙草の匂いが感じ取れるくらい彼の口元は近くにある。

 最初に相手をむさぼり始めたのは、どちらであったのか。

 二人はベッドの上で激しく重なり合い、コニーは麻衣が時々呼吸困難に陥るほどに強く抱擁した。二つの舌の絡まりは離れず、彼は麻衣のサンドレスのリボンを乱暴に引っ張ってほどいた。

 これは11年前の今日、ハワイのホテルで起こるはずだったことじゃない、ああ、なんて皮肉なの。今でもこんなにもこの人が好き、この人のことがずっと欲しかった。ずっとこの人のことを愛していたんだわ、11年もの間。

 コニーの強剛な手は麻衣の胸を鷲づかみにして、パン生地でも捏ねているかの如くギュウギュウと麻衣の胸板に押し付けた。

 そうやって乱暴に押付けることによってストレスでも発散しているのか、麻衣の実体を確かめているのかは判別できなかった。これほど彼が麻衣に触れたことはかつてない。

 この瞬間、剛史に対して罪悪感は湧きあがらない。コニーとは決して遊びではないのだ。彼は麻衣にとっての唯一の真実であったのだ。11年間愛し続けていた男だったのである。

 今日一日、成田空港を発ってからいろいろなことが起きたが、麻衣はようやく眠りにつけそうであった。コニーの逞しい腕の中で朝まで、本来、夫となる男だったと。

 明朝、部屋に戻った時に剛史が部屋に戻っていたら、私は何と言うべきなの?

 激しく襲う眠気は思考を緩慢にした。

 私は果たして剛史の胸に飛び込んでいけるの?こんなにもコニーを愛しているのに、こんなにも彼の腕の上で安心して眠れるのに。

 コニーの男性器官が機能していないことは、麻衣にも何となく理解出来た。事故に遭った時、生殖器の機能まで損傷してしまったのであろう。

 しかし、麻衣はコニーの傍に居られればそれだけで幸せであった。

「麻衣、本来なら俺の妻になる筈だった女、可愛い女」

 半分眠りに入っていた麻衣には、その言葉が心地の良い子守唄のように聴こえて来た。


 薄いシーツに覆われた身体が微かに汗ばんで来た時、麻衣は朝の到来を感じた。重い目蓋を閉じたまま呟いてみる。

「まだ貴方はここにいるの、それとも前回のように消えてしまったの?」

 コニーの逞しい腕は彼女の下にあった。

「俺はまだ居るよ、君の傍に。でも君は今の本来の居場所に戻らなくてはいけない」

 落ち着いた口調でコニーが説いた。

 麻衣は驚いて目を開けた。コニーは彼女の髪を指ですくいながら温かい眼差しで彼女を見下ろしている。

「君の新しい旦那を拝見させて頂いたよ。彼なら君を幸せに出来るだろう」

「彼をどこで?」

「ここのホテルには数日滞在しているんだ、一日中呆然としている、唯一の活動といったら泊り客をチェックしたり、女を買ったり、そんなことだ」

 麻衣は、その表現に多少嫌悪感を感じたが、彼の説明は昨晩裏付けされている。その後でも彼を愛していると確信できた。

「貴方は何故タイで暮らしているの?」

「足を失ってからいろいろと放浪してきたが、ここには、法医学医として、津波犠牲者たちの個人識別を志願してDNA鑑定センターに来た」

 2004年、すなわち二年前、クリスマスの次の日にタイを襲ったスマトラ沖地震。

 麻衣は驚嘆した。

 スマトラ沖地震におけるコニーの貢献は、「女を買ったり」、というイメージからはかけ離れていた。

 二年前の津波被害の様子は、麻衣もテレビ等で何度も視聴していた。さらに、タイにおける津波を題材にした映画も鑑賞していた。

「それでは貴方は、あの凄惨な場に居合わせたのね。そして亡くなった多くの方々の身元を判別してあげた。崇高なお仕事だわ」

「崇高どころか、すっかり精神が破壊されてしまって、今はこうして精神リハビリだよ。俺は君が買いかぶっているほど強い人間じゃないんだ、麻衣」

 コニーの視線は天井に向けられていた。

「貴方のことだから、亡くなった人、一人一人に話しかけていたのでしょうね。幸せな人生だったのか、って」

 コニーは麻衣を振り向く。

「そんなことを覚えているのか。11年も前の会話だ」

 コニーは眉間に皺を寄せたが、そのまま続ける。

「そうだよ、概ねその通りだ。最初のうちは亡くなった人に話しかけてはいたが、そのうちそれも儘ならなくなった。それほど死体の数は夥しかった」

「その精神リハビリは、いつまで続けなければいけないの?」

 麻衣はコニーの厚い手を握る。

「このリハビリには終わりというものは無いよ。どちらにせよ俺には、この仕事はもう続けられるとは思わない。俺は、多くの子供達の亡骸に話しかけていた。何年もそんなことを続けていたらどんな現象が現れると思うかい?」

 麻衣は数秒間、思索を巡らす。解答に辿り着いたとは思ったが、それを口に出すことは憚れた。

「おそらく君は察したと思う。俺は彼らに責められているような錯覚を起こすようになり、幻聴に悩まされる時もあった」

「貴方は私に、子供は欲しいか、と訊いたわよね」


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