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夕陽が太平洋に沈む時 【第12話】

夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】

「そうだな、そんなことを君に訊ねたこともあるな」

 コニーの次の言葉は難解なものであった。

「Going for wool and coming home shorn.(羊毛を刈りに行ったが逆に毛を剃られて帰って来た)、という表現を知っているかい?」

 麻衣は即座に首を振ったが、ふと、ある表現に思い当たる。

「日本語の言い回しだと、ミイラ取りがミイラになる、という感じかしら?」

 コニーは哄笑する。

「ミイラ取りか、それは良いな。まさにそのミイラが俺だ。死者の身元判別、死因究明、君の言うその崇高な任務を遂行するためには強靭な精神力が試された、ということだな。結局のところ、俺には無理だった」

 絞り出されたコニーのしわがれた声は、悲痛な色を帯びている。

「かりに、自分に子供が出来たとしても、いつか自分も、その子供を虐待してしまうのでは、自分の手で殺めてしまうのではないか、という類の強迫感に悩まされていた時期も長かった。11年前、君に出逢ったあの頃は幻聴が始まった頃だ」

 子供を欲しいか、と11年間にコニーが発した問い。麻衣にはその問いの背景が漠然と見えていた。11年間の空白に拘わらず、彼を理解することが出来る、と麻衣は確信した。

 いずれにせよ、その憂慮は消失したはずね。彼にはもう子供は作れない。

 麻衣は、それ以上コニーにその話題に触れて欲しくはなかった。

「ところで君は何故、それほど細かいことを記憶しているんだ?」

 コニーが微妙に話題を替えたことを、麻衣は察した。

「11年前、貴方と私が一緒に過ごせたのはたったの数時間よ。私の追憶の中の貴方、その数少ない仕草、言葉、私の大嫌いな煙草の匂いでさえ、その一つ一つが私にとってはとても貴重な記憶なの」

 コニーは噴き出す。

「まるで、日本の少女漫画の世界だな。それは君が11年掛けて創造した偶像だ。君の前に居る男、俺はそれ以上でもそれ以下でもない」

「少女漫画、上等じゃない。それなら私の空白の11年間をこれから本当の貴方で埋めてよ。コニー、貴方が本当に弱い男であると言うのなら、私が貴方を強くしてあげるわ」

 麻衣は、コニーの太い腕に頬を擦り付ける。

「ずっと貴方の傍にいたいの」

 コニーは苦笑しながら、麻衣の両腕を握りしめる。

「君はもう新しい人生を始めたんだ、11年の月日を経て。今の君は11年前の君ではないし、今の俺も11年前の俺とは違う。俺の場合は、心も身体も蜂の巣のように空洞化してしまっただけだが。君がいきなり消えたら、君の夫はどんなに悲しむだろう」

「でも剛史は、彼は」

 強い人だから不自由なく新しい人生を始められる、と言おうとしたが、すんでのところで言葉を飲み込んだ。コニーと一緒に居たいのは同情のためだと誤解をして欲しくはない。

「ふたたび逢えて嬉しかったよ、麻衣。約束も果たせず消えた屑野郎と、一生思われ続けるのも寂しいものだからな」

 コニーはカーテンの引かれた窓に顔を向けると、前言を撤回した。

「いや、それは違うな。却ってそう思われていたままの方が良かったな、君のためにも、君のだんなのためにも、そして俺のためにも」

「どうして貴方のためにも良かったの?」

 コニーは深い嘆息のあと、続ける。

「ハワイのステージで踊っていたあの晩の俺を覚えているかい?」

「ハワイの一夜の思い出は、あまりに強烈過ぎて、忘れようとしても忘れられるわけがないわ」

 あの引き締まった彼の体躯、挑戦するようなヘーゼル色の瞳。喉から手が出るほど彼が欲しかった。あれほど欲しかった彼は、今、私の目の前に座っている、逃げ隠れも出来ず、自由に動くことも出来ず、うな垂れて。

「もう離れたくはないわ。ようやく貴方に逢えたのに」

「あの晩の俺の姿を覚えていて欲しい。俺の中ではとっくの昔に死んでしまった俺を、せめて君の中では生き続けさせてくれ。それがたとえ少女漫画の中の偶像だったとしても、屑男としての記憶だったとしても」

 麻衣は、彼の厚い胸を、その細い身体全体で包みこみ、頭を彼の肩の上に乗せる。ドラッカーがそれとなく香った。

「貴方は、何故さっきからそんな寂しいことを言っているの?貴方は私の目の前できちんと生きてる」

 コニーは、彼の上体を包む麻衣の腕をそっと外す。

「ありがとう麻衣。でも君はもう行かなくちゃならないよ。君の新しい夫が呼んでいる」

「えっ?」

 海岸の方から剛史の声が聞こえて来る。大声で麻衣の名前を呼んでいる。

「どうしよう」

「君は部屋に戻るんだ。愛する人間が消えてしまうことの苦悩と恐怖は君が一番理解しているはずだ。彼は君を救ってくれたんじゃないのかい?」

 愛する人間が消えた時の恐怖、その通りだわ。剛史は今、動揺しながら必死で私を探しているに違いない。今はとりあえず彼のところへ行って安心させなければならない。

「剛史と会って来るわ」

 コニーは頷く。

「その前に軽くシャワーを浴びておいで、まだ俺の匂いが君の体の隅々に残っているはずだ。拭き取ってやる」

 そう言いながら、コニーは麻衣の裸身をその舌で愛撫し始める。

 麻衣の身体は途端に反応し始める。

「貴方は残酷な人だわ、行けと勧めておいて、こんなことを」

「そうだ、行くんだ麻衣。俺を振り切って彼のところに」

 麻衣は、後ろ髪を引かれる思いで彼の太い腕を振り払い、バスルームに駆け込んだ。

 それは、決して振り解きたくはない抱擁であった。


「いいかい、この廊下を真っ直ぐに西ウィングまで歩いて行って、2番目の階段を上ったところに、君の部屋があるはずだ。気を紛らわすために朝市まで足を伸ばしていたとでも言えばいいだろう」

 短いシャワーを浴びて出てきた麻衣に、コニーはそう知恵付けした。

「貴方は、いつもここに居るの?」

 コニーは軽く肩を竦めた。

「こんな脚では、何処にもいけやしないよ」

「貴方が少女漫画の中の偶像だったとしても、屑男だったとしても、貴方を愛してるわ」

 麻衣の告白に対して、コニーは「Take it easy (さようなら)」、という言葉で返答した。二人が初めて会った時と同様、親指と小指を突き立てたハワイ風の挨拶であった。


 麻衣はドアをそっと開けて廊下を確認する。人影は無い。そのまま急ぎ足で西ウィングまで歩いてゆく。防犯カメラの下を通るときは緊張したが、2番目の階段も足早に昇る。

 自分の部屋の前に着いた。

 部屋が開け放しになっていたので、剛史はまだ海岸から戻って来ていないものと思い込み、部屋に走りこむ。
 
 果たして剛史は部屋の中に居た。
 
 心の準備の出来ていなかった麻衣は、麻衣の携帯電話を凝視しながら佇んでいた剛史を見て思わず声を上げる。

 剛史は非常に憔悴しているようであった、昨晩は一睡もしていないと想像される。

 麻衣は剛史の表情に安堵を確認した。

「麻衣、一体何処に行っていたんだ?携帯電話には一晩中応答しない。朝食の時間はとっくに終わっているし、レストランの受付係りは、君のような客は今朝は来ていない、と言っていた」

 電話が通じない、用事はとっくに終わっているはずなのに現れない、これは11年前の私の、暗中模索と同じだわ。私が味わった苦悩を剛史にまで味わせてしまった。

「ごめんなさい。私は、あの、朝市が面白いと薦められて。それより、弟さんの容態は?」

「ああ、幸い僕からの輸血が間に合ったから、今は失血による危険はない。しかし、一部、人工頭蓋骨に代替する必要があるかもしれない。母が今日の午後バンコク入りする予定だ。僕も数日間バンコクに滞在して容態を看る」

「何てこと。でも一命は取り留めたということね。安心したわ」

 剛史は、麻衣の両手を包んだ。冷たい手であった。

「麻衣、新婚旅行の予定が狂ってしまって非常に申し訳ないのだが、これから一緒にバンコクまで来てくれないだろうか。あとで、何らかの形で埋め合わせはさせてもらう」

「もちろんよ」、と本来なら答えるべきなのであろうが、麻衣は躊躇した。

「ところで、その朝市って一体何処にあるんだい?」

 麻衣は唐突な問いを受け、思考停止に陥った。朝市の名前も場所も訊ねてはいなかった。そもそもこの辺りの地理には明るくない。適当なことを言っても嘘だとすぐにわかってしまう。

 信頼関係、本物、嘘は付くな、そのような語彙が麻衣の脳裏を交差した。

「どうしたんだい、麻衣?顔が真っ青だぞ、気分が悪いのか」

 剛史は麻衣を抱きかかえた。

 バンコクへの往復、病院にての輸血と走り回り、弟さんの容態の心配、連絡の付かない妻、剛史の疲労困憊は、麻衣には、そのくたびれたシャツの感触からも理解出来た。

 麻衣が一人残された新婚旅行の一晩目は、剛史にとっては、怒涛の一晩であったはずである。少なくとも麻衣は、ふかふかのベッドの上で、抱擁の中でぐっすりと眠ることが出来た。

 私はコニーと寝たんだ。紛れもなく剛史を裏切った。彼の弟が生死の間をさまよっているという状況で、私はあの男の胸の中にいた。

 剛史は怪訝な表情にて麻衣の顔色を窺っていた。

 徹夜で義務を全てこなし、次の朝に約束通り戻ってきてくれた剛史。肉親を残してまでこんな女のためにタクシーを飛ばして戻って来てくれた人。私を窮地から救ってくれた人、そして迷いもなく求婚してくれた夫。

 今は、コニーのことを剛史に打ち明けるわけにはいかない。

 プーケットに朝市が出るということは、麻衣は何かの旅行ガイドで読んだことがある。しかし、詳しいことを訊ねられたら答えようがない。これ以上を嘘を重ねることは出来ないことを麻衣は悟った。

「ごめんなさい、嘘を付いたの。この部屋に一人で貴方を待っているのが遣り切れなくて一晩中海岸を歩き廻っていたの」
 
 全てが嘘ではない。

「そして酒を飲んでいたのかい?」

「え?」

 酒、そうだわ、シャンペンを飲んでから数時間しか経っていない。あれから歯も磨いていない。そうだわ、ドラッカーの香り。

 麻衣は剛史から数歩離れた。

「アルコール臭かったのね、ごめんなさい。最初のうちは、シャンパンでも飲んで眠ろうと努力をしていたの。新婚旅行の初日ですもの。シャンパンくらい飲んでもいいわよね、と思ったの」

 二つ目の嘘である。しかし、全てが嘘ではない。

 剛史の沈黙は麻衣を不安に陥らせる。

 コニーのドラッカーの香りに気がついたのではないか、と麻衣は不安になった。ドラッカーの香りに言及された時が、全てを告白する時である。

 そして、その時は剛史との短い結婚生活がフィナーレを迎える時である。

 剛史は、麻衣の後ろで部屋のドアを閉めた。

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