『金沢・酒宴』 〜Recycle articles〜

吉田健一の『金沢・酒宴』は大して面白くもない、と20代の頃は思ったが、

40を過ぎて健康診断が怖くなったり、
手帳を使わないと自分の一日することを忘れてしまったり、
本を読んでいて目がかすんで目薬を指したり、
歩いていて隣を若い男に追い抜かれたり、
信号が黄信号になるので走り出そうとした瞬間に足首に痛みが走ってそのまま倒れ込んだり、
徹夜すると翌日本当に我慢ができなくなったり、
ここに続けて書こうと思っていたことを打ち込んでいるうちに忘れてしまったりするようになって、

やっと面白さの一端を味わえるようになった。

それでも「金沢」はまだ、金沢について書いている(ように見える)ので、多少の啓蒙的期待をかけつつ、読み進めることができるのだが、「酒宴」となると、ただ酒の席でのよしなしごとをダラダラと書いているだけなので、何が面白いんだこの野郎!と、思ってしまいがちである。

そして、その感覚は間違ってはいない。

当時は940円だったのだが、それだけ払って、ダラダラした「酒宴」の状況を語られても、と、思うことは致し方のないことではないか。

もっと、俺を刺激しろ!などと息巻くはずである。


「酒宴」を面白く感じ始めたのは、この一節だ。

何か日本酒というものは、畳だとか、縁側だとか、月の光だとか虫の音とかと結び付くものを含んでいるのではないだろうか。カス・ストウブをつけた部屋で皮張りの椅子に腰を降し、花売りに、いらない、いらない、などと言っている時に日本酒を飲むと、急に胸が悪くなって来ることがある。大体、日本酒というのは洋酒と比べて決して飲みいいものではなくて、それが畳の上に坐って虫の音が聞えて来たりすると体質に変化が起り、却ってウイスキイ辺りのものが口の中に火を入れたように感じられるらしいのである。

日本酒を褒めているのか貶しているのかわからないが、この、状況によって日本酒の旨味が変化する、という気持ちは理解できた。

科学的には無根拠ではあるが、国立科学博物館の360度シアターが、自分が移動しているわけではないのに、移動しているように感じることが事実であるように、何か状況が日本酒への感じ方を変化させるということはあるかもしれない。

いや、きっとあるのだろう。

日本酒を飲むときは、やはり、何かを見立てておくと、よい気持ちで酔える気がする。

ただの錯覚かもしれない。

ところで私は、ワイン党か日本酒党かと言われると困ってしまう。

醸造酒派か、蒸留酒派か、と言われれば、アルコールには弱いので前者にあたるのだが、醸造酒内での党派については、正直なところ、状況で決定する、と言っちゃう。

時期的なものもあって、ワインの味わいに飽きると日本酒になり、日本酒に疲れて来るとワインへと、移って行く。

吉田の酒の評を見てみよう。

これに比べると、酒田の初孫という酒はもっと軟かに出来ていて、味も淡々として君子の交わりに似たものがあり、それでいて飲んでいるうちに何だかお風呂にでも入っているような気持ちになって来る。自分の廻りにあるものはお膳でも、火鉢でも、手を突き出せば向うまで通りそうに思われて、その自分までが空気と同じく四方に拡る感じになり、それが酔い潰れたのではなしに、春風が吹いて来るのと一つになった酔い心地なのである。

初孫は、私も、何度か飲んでいる銘柄だ。

吉田健一の時代よりも、今は、酒米や麹や酵母の種類なり、醸造のプロセスなりで様々な種類の酒が出来上がるので、一概に初孫だからどう、とは言えないものの、何となく使われている水の感覚で、ある種の共通性が見いだせるように思われる。

「軟か」というのは、酒に使われている「水」からくる感覚に近い。

私は、酒蔵を訪れた時に、水を飲ませてくれる蔵を贔屓にしている。日本酒における「水」は、ワインと違って、あまたある日本酒の根幹をなしている。

米は、備前の雄町も、越州の五百万石も、取引によって様々な場所を旅するが、水は違う。水こそ、あまたある銘柄を貫通して、一つの性格を与える鍵になるものではないか。

土地から産出される米をもって、日本酒のテロワールとする考え方もわからないではないが、水もまた、日本酒におけるテロワールの一つだと言えないか。



「酒宴」は、灘の技師と、酒盛り、はしご酒のシーンから始まり、その技師に連れられて酒づくりを見学し、さらに宴会を重ねるまま、酔いがまわり、どんどん世界はシュルレアリスティックに変貌する、という趣向になっている。本当にそれだけだ。

> 「お強いのね、」と言っても、胸が悪くなったりなどしなくて、七石さんを空にすればまだ七石飲めるのにと思う余裕さえ出来ていた。併しそれにしても、どんなに大きな料理屋の座敷だろうと、何十尺もの高さがあるものが方々に横倒しになっては、いる所がなくなる筈だということに気が付いて、我々がいつの間にか場所を変えて山の上の草原に出ていることが解った。大きなタンクが立ったり、倒れ掛かって岩に支えられたりしていて、自分はそれを取り巻いて神戸からその後の連山まで伸びている途方もなく大きな蛇になっていた。その尾は神戸の港に浸り、頭は御影から又戻って来て顎をタンクの群の傍に置いて、眼は半ば開けていた。

もう何が何だかわからぬまま、語り手がピシャッと締めてしまう。

しかし、理性が鈍磨し、感覚だけが広がっていき、世界の認識を変容させるというスタイルに関しては、特に酒の力を借りなくてもできる人は多数いるので、それほど新しいものとは思わないのだが、やはりなんというか文の力だけで読み進められる吉田健一の文業は独特だと思った次第である。

それにしても、酔うことで目覚めるということもあるのかもしれない。

さて、今日は何を飲もうか。

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