書店に『緋文字』が置かれていない 〜Recycle articles〜

19世紀に書かれた外国文学で、しかも名作の誉れ高い、という評価を聞くだけで、なんとなく手が出しづらい気持ちになるのは私だけだろうか。

ずっと『緋文字』は、そんな対象だった。

90年代には、ホーソーンよりもメルヴィルの方が現代文学として評価しやすいといった価値観が、先端的な小説を愛好する集団の中で醸成されていたように感じたため、私とホーソーンとの距離は広がっていったような気がする。

これは、鷗外よりも漱石、芥川よりも百閒といったような、ある種の文学的カノンの書き直し作業を学界が進めている最中に、私が読書経験を積み重ねてしまった、ということにも起因しているのではないか。

たぶんに、小説そのものと向き合うのと同時に、小説の解釈や評価に関するテクストとも付き合ってきたことが、ある作家・作品に対して複雑な態度が形成されたことの大きな要因であっただろう。

特に、メルヴィルの「バートルビー」などは、不服従文学の1つとしてロスジェネ的な世相の中で再評価される前には、カフカの「断食芸人」などのような先駆的な不条理文学としての結構を備えている中編として、我々のいた空間内では大層な評価を与えられていたものだ。

もちろん、自分の記憶の中でであって、正確なところはわからないが、いわゆる小説談義の中で、「ホーソーンは古いよ」と放言する人が何人かいたような気がする。

もちろん、その後には、ホーソーンの「ウェイクフィールド」などを読んで、数篇の小説のみで作家の全体像を代表させるのには無理があるな、ということを理解した。ある程度読むと、大作家には色々な面があることがわかる。性急な評価を下そうとする人は、大抵一面しか見ていないものだ。

もちろん私も岩波文庫赤版や新潮文庫の翻訳だけが作家の全体と思い込んで過ごしていたのだから、致し方ないともいえる。


なので、ホーソーンの『緋文字』を読んだのは、ずっと後になった。

読む気になったのも、あまりに暇だったから、何かやろうと思って、今まで読んだことのない名作を読もうという自作自演の読書月間の中で読んだものである。

そのような選び方だったことは、大変失礼極まりないと今では後悔しているが、いまや小説のみならず19世紀外国文学に関心を持つ人は少なくなっているだろうから、ホーソーンという作家は、読む優先順位として後回しになる傾向があるのではなかろうか。

そんな時勢に逆らって、『緋文字』なかなか面白いよ、と伝えてみたい。

『緋色の研究』なんて本もあるので、推理小説と勘違いして読んだら、「なんか違う!」と放り投げた人もいるのではなかろうか。何をかくそう私がその一人である。

ただ、おどろおどろしい雰囲気が、この「緋色」という色彩から連想せられたというのは、決して間違ってはいない。

ゴシックロマンスとホーソーンの関連については、私は何も知らないが、『緋文字』の中で住居や土地を描写しようとしてホーソーンが選ぶ言葉は、極めて何かおそるべきものを暗示するような形で展開されている。


職業柄、一応カラーコーディネーターなる資格を持ってはいても、ペーパードライバーのような持ち腐れ状態なのだが、その「緋」の原語とされているスカーレットをカラーカードで確認したら、拍子抜けした。

想像していたのは、もっと濃いくすんだ紅のようなものだったので、「こんな小面積で眺めると曖昧なピンクに近い色なのか?」と、思ったものである。

どっちかっていうと、イメージしてた緋色は「ボルドー」のような感じだった。バーミリオン、カーマイン、クリムゾン、スカーレット…赤系の単語は昔からちょっとかっこいいと思っていた。

ホーソーンの暗示法は、いざ読み出すと超まだるっこしく感じられるところもあるのだけれど、物語の輪郭を曖昧にしておくような語りが良い、と私が思うこともあって、「緋」という色あいの曖昧さは、それはそれで彼の語りにうってつけなのか知らんと思わないこともない。

いずれにしても、聖書のことは、よくわからない。

『緋文字』は、姦通の罪を「緋文字」によって《見える化》させられたまま、生をまっとうしなければならなくなった女性の物語である。しかも、その姦通の証である幼児すら抱いて登場する!

勧善懲悪的なニュアンスに親しみ、しかもモテないことに悩んでいた自分にとって、姦通?何それ?食べられるの?といったくらい、理解不可能なものであった。

それであるから、「要するに浮気者でしょ」と決めつけていた主人公のへスター・プリンが「自然に備わっている威厳と強い気力」なんてものを示すのだから、見物人と一緒になって、「何様!」と思いたくなるのも当然だったといえる。この『緋文字』の空気感は、現代のネット社会の空気感を彷彿とさせるものがある。これが巨匠の力なのだろうか。

だから冒頭の場面、ネットでさらされ、アレやコレやとディスられる芸能人を思い起こさせる。リゴリズムに満ちたボストンという街が、現代日本のように見えてくる。

姦通者である主人公のへスター・プリンが、さらし者になっていく場面。現代人にとって、読みにくいなあと思うのは、翻訳だからではなく、どちらかというと、物語の語り手が途中で前に出てきてへスター・プリンに同情したり、解釈したり、神に祈ったりする文章形式に馴染み薄いからだろう。

この場合、語り手は、神の視点と人々の視点との間に立って、アレやコレやと仲介したりすることが読みにくさへと繋がっていると思われた。少なくとも、当時の私には。

また、姦通文学と聞いて、姦通がばれるのかばれないのか、という点のサスペンスを期待したこともあったかもしれない。

ところが、すでに冒頭の場面で、姦通は済んでおり、その結果としての子どももいて、その子どもは誰の父親なのか、と詰問されるに応じて、言わない、言わないなら姦通の印であるところのその緋の「A」のマークはとれないぞ、と脅されるところなど、もうすでにそれらの姦通行為が事後のことになってしまっていることが、自分の思い込みとあわなくて、一度は放りなげてしまったのだ。

だから、この話は、ポリスの法に逆らって兄を埋葬したアンティゴネと同じ主題として理解しなくてはならないと思った。

ボストンの私法に逆らって自らの信念を貫いたへスタープリンの物語と取れば、素直に入っていける。

姦通の結果、子どもが出来て、皆にその行為を指弾されて、罪の証としての緋い「A」の文字を付けられて、監視、差別、侮辱…もろもろの行為を一身に受けて…しかしそれでも約束というか信念を守るへスターの姿勢は、黎明期の聖者の受苦の物語になる。

魔女裁判的な人間関係の煉獄の物語を、なんだかはっきりしないイメージに包みつつ展開した物語というか…ここまでくると、社会的イジメに耐える物語の1つとして、現代的に読み解くということもできないわけではない…というと牽強付会の謗りを免れないかもしれないな。

ホーソーンは、並び称されるポーやメルヴィルが、もっと社会と馴染んでなさそうな人物なので、それよりは常識人であるように思われがちだが、結構仕事が続かない。就職してはしばらくで辞め、ということが何回かあった人らしい。

生きた長さは、メルヴィルの方がそれでも長い。大酒でトラブルばかりのポーだが、キレ味はホーソーンよりも上ではないか。

いずれにしてもホーソーンは、エマーソンやホイットマンと比べるとウジウジしているように感じられるし、ポーやメルヴィルのような執念は薄いし、ソローのような変人のふりをした生活人と比べるといささか常識人にすぎるきらいがあって、アメリカン・ルネッサンスの代表というには、日本のプロ野球球団の選手会長に推される選手のように、成績が振るわなくても人格面で一日の長がある風情の印象が強い。

ホーソーンを腐してばかりいるようだが、それは違う。『緋文字』は、やはり名作である。

先祖の犯した過ちに関する子孫であるホーソーンの悔恨が濃厚に反映している作品として読んでもいいし、

ゴシックロマンス的な陰鬱な恐怖感をイメジャリーや文体面で朦朧と表現した作品として読んでもいいし、

姦通といわれつつも真実の愛を貫いた女性の意志の力を賞賛する物語と読んでもいいし、

社会の中に蟠る差別と排除のメカニズムが描かれた作品として眺めてもいいし、

ヨーロッパという伝統から離脱したアメリカにおいて小説を始めるためにいかなる装置を必要としたのかという回答としての小説として読んでもいい。

それだけ様々な読み方がなされた『緋文字』は、端的に読むべき記号の曖昧さと多彩さに優れている作品だと思う。

今回『緋文字』を読もうと思って、完訳版がどこかに行ってしまったことに気がつき、本屋で買おうと思った。東京のベッドタウンの比較的大きな駅の本屋で、完訳版岩波赤の緋文字があるかと探したらなく、新潮の緋文字もなかった。光文社は言わずもがなである。

ホーソーンも、そろそろ日本の書籍市場から引退してしまう時が来てしまったというのか。

できたら一度騙されたと思って読んでいただけないだろうか。

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