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幻の明治神宮の飯能誘致計画 ~ゆるく本を紹介する 3~

山口輝臣さんの『明治神宮の出現』(吉川弘文館 2005)という本があります。

昔の本ではありますが、

①明治神宮が、記念を目的としてなぜ銅像ではなく神社として造営されたのか?

②どうしてあの場所なのか?

③どうして内苑と外苑があるのか?

という、当たり前の疑問に答える面白い本だと思います。もちろん、歴史書を多く出版している吉川弘文館なので、ある程度の学術的な体裁は整っているものの、興味のある向きにとっては平易な書き方になっています。

その中で「②どうしてあの場所なのか?」という疑問について、答えている部分がとても面白かったです。

代々木-青山案以外にも、戸山、上野公園、駿河台案、目白台案、御嶽山案などが東京で提案されたり、千葉では国府台案、神奈川だと箱根案、静岡県だと富士山案、茨城県だと筑波山や、常陸太田の国見山案など、いろいろあったみたいです。

その中で、最も実現に向けて、具体的案が出されたのが、埼玉県の飯能町の「朝日山案」です。この本の面白ポイントとして、今回は、この飯能市の明治神宮の誘致運動の「朝日山案」を紹介してみたいと思います。

明治神宮を朝日山へ

私はムーミンバレーパークによく行くのと、デイキャンプをするときによく旧名栗村を使うので、飯能市には親しみがあります。

そして、飯能市においては、幕末に飯能戦争なる戊辰戦争の一環なる戦いがあったりしたので、近代史のとばくちにちょこっと登場します。

また、西武が開発をすすめた鉄道の基幹となる駅を構成していることもあって、近代史の要所要所に飯能は姿を現します。

そんな飯能なのですが、天皇が崩御し、天皇陵を東京へという運動が京都の桃山陵に決定したことでとん挫したあと、記念事業案が勃発し、神社造営案が具体化したときに、その地として立候補することになりました。

その「神聖地予定地」として案出されたのが、飯能駅から西へと参道を伸ばしていったときに鎮座する「朝日山」でした。この朝日山は今は崩され、ニュータウンとなっています。そのニュータウンこそ美杉台です。

しかし、東京ではなく飯能につくる、理由が必要となりました。東京ならば、遷都によって天皇が鎮座した土地であり、その「由緒」は説得的です。

それに対して飯能は、昔は武蔵国で一体だったわけで、天皇が武蔵国に遷都されたのだから、武蔵国として記念することは論理として一貫していると主張しました。飯能市は、旧地名にさかのぼることで、行政区分を飛び越えたのです。東京も埼玉も以前は武蔵国であった、という上総、下総、相模、安房、常陸にはできない芸当を繰り出したのです(笑)

当人たちは真剣でありつつも、どうでもいいことの正統性を主張する議論というのは、時代をまたぐと滑稽です。滑稽ゆえに、深い悲しみと、寂しさが生まれます。そして、そのその寂しさこそ、日本的なるものと思われます。

そうした飯能の朝日山を、武蔵国にあると主張することで、いわば埼玉であることを放棄する。次いで東京遷都に際し、明治天皇が武蔵国一宮・氷川神社へ参拝したこと(明治元年十月二十八日)を想起させる。遷都した先が武蔵国であるとすれば、明治神宮を飯能につくることは、神宮を「帝都と同国」へ祀るということになる。まさしく「明治神宮を武蔵国へ!」である。
p.119

しかし、結局、他県、他地域の誘致者からすると、武蔵国といいつつも、お前のところだろ、という疑念を抑えられません。それは箱根案や国府台案でも同じで、東京との地縁の結びつきを強調すれば、逆に地域の支援を受けられなくなりますし、地域の支援を期待した運動を起こせば、東京ではないところに誘致することの恣意性を免れ得なくなります。

そこで飯能の朝日山案は、「風致」という概念に訴えます。「風致」とは「その土地が明治天皇を祀るに相応しい雰囲気─「荘厳」であったり、「雄大」であったり─を備えていること」(p.123)です。

由緒ある風致的な空間であることが、神宮を誘致するときのポイントでした。

飯能の由緒は、「明治十六年(一八八三)四月十七日から十九日にかけて、軍事演習のため明治天皇が滞在したこと」であった。しかし、由緒以上に飯能の朝日山は風致を主張しました。

「朝日山を神路山、入間川を五十鈴川に見立て」て、伊勢神宮をモデルとして、都市的環境に汚されていない「清浄無垢」で「原始的状態」であることこそ強みだと主張しました。

伊勢神宮の内宮と外宮構成

その思想的支柱となったのは、東京帝大の林学教授である本多静六です。本多は「神社建設地を選定するに当りて、第一に講究せざるべからざるは、天然の地勢、殊に、天然の山水樹木の関係にありて、縁故便利の如きは、唯従的要件に過ぎずと謂ふべし」と言い、「市街に接し、針葉樹の完美なる森林を構成できない青山を、もっとも劣る候補地と酷評した」とされます(p.125)。

風致という点では、朝日山の評価は高かったとされます。築地本願寺や平安神宮などを建築した伊東忠太は、「「風致」を主とするならば、飯能の朝日山がすぐれていた」と述べているようです(p.126)。

実は本多静六は、飯能の観光開発に際して、顧問のような立場にいました。本多は、菖蒲町の出身で、そういう点で同じ埼玉県に属する飯能にシンパシーがあったのかもしれません。

この本多静六こそ、例の飯能戦争のときに渋沢成一郎が陣を引いた天覧山を「中心とした遊覧区域を定め、四季折々の花を賞玩するハイキング・コースを整備」を計画した人であり、「もちろんすでにあった行幸記念碑や駒止めの松といった「聖蹟」を組み込んで」いたのだといいます(pp.130-131)

ただ、これが、逆に、明治神宮を誘致することで、飯能の観光に寄与しようとする功利的な意図を疑われます。実は、明治四十五年=大正元年に、「懸案でもあった武蔵野鉄道の開設が本決まりとなった」からです(p.129)。実際に誘致の請願書には「「帝都」との交通を触れたあと、「都人士は、半日又は一日の閑を以て優に神宮を参拝し、併せて当地遊園の絶景を弄するを得べし」と付け加えている」ので、仕方ないでしょう(p.131)。

そして、朝日山を内苑にして、天覧山を外苑にして、という最初神宮建設が発案されたときにつくられた「覚書」案の換骨奪胎まで行われているということは周到です。

明治神宮は東京に

当然のことながら、その後、結局神宮は青山練兵場と代々木練兵場を外苑-内苑とした構成によって、連絡通路を千駄ヶ谷と青山通りから表参道までを含む形で、青山案にて決着していきます。「飯能の朝日山案」は却下されてしまったわけですが仕方ないですね。

大正2年2月の飯能の請願書から(p.114)


現在の地図

伊勢神宮に比べると、内苑と外苑の距離が近そうですね。私は伊勢神宮にいったことがないのですが、川の規模はどうなんでしょう。飯能のここは、緩やかな流れで、デイキャンプなどに興じている人も多く、見様によってはかなり風光明媚だと思うのですが。

私たちは、やっぱり見立ての文化の中で生きているのですね、と思わせます。

いずれにしても、山口氏の『明治神宮の出現』は面白い本ですし、飯能にもただの田舎町とは思わずに、ありえたかもしれない現在を読み込みながら楽しむと、近郊旅行がもっと面白くなること請け合いです。





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