「針目城」 〜Recycle articles〜

1993年、大学に入り損ねてウジウジしている私に、経済学部に入学したのち文学部へ転学科した友人Xが勧めてくれた作家が、後藤明生だった。

とはいっても紹介は抽象的で、「現代で最も才能にあふれた作家だ」とXらしからぬ存外断定的な言い方が気になり著作を探した。当時Xは蓮實氏に影響を受けていた。そのXは、1997年にみずほ銀行の就職が決まっていたが、蹴ってやがて弁護士になった。

1995年当時、どの古本屋を探しても『しんとく問答』以外に、後藤明生作品は見当たらず、早稲田通りにあった平野書店という日本近代文学に強い古本屋に、バカ高い初版の後藤明生のハードカバーが並んでいたのが唯一の発見だった。

世間は、オウム真理教の逮捕で騒いでいたけれども、私は後藤明生の著作を探していた。

帰省先の岩手では、盛岡市内の古本屋をめぐり、聞いてはみたものの「ない」という返事ばかり。唯一、岩手大学の近くに美本の『吉野太夫』を発見したものの、そこの古本屋は価格をつけておらず、値段を聞いたら足元を見られたのか、滅法高い。

そのためムカついて購入を見送るということもあった。北は岩手、南は沖縄まで、旅のついでに後藤明生を求めていたが、残念ながら成果は芳しくなかった。

そんな折、どこで見つけたのだろう、福武書店版の文庫『行方不明』を手に入れた。たいそう嬉しかったことを思い出す。

本一冊に、これほどの喜びを感じるなんて滑稽だが、幸せとは往々にして他人から見れば滑稽なものである。

他人に羨まれもしない「幸せ」を追求することの喜びは、人生にとって重要なことではあるまいか、と、軽く自慢してみた次第である。

さて、そんな『行方不明』だが、引っ越しを重ねた今もなぜか手元にある。これは5つの中・短編が寄せ集められた作品集なのだ。

「関係」という有名な初期作品。表題作の「行方不明」。

これは「ふるさと」や「アイデンティティ」を、「喪失」したり「哀惜」したりするのではなく「行方不明」になっただけだといなして見せる後藤明生の姿勢を現した中編として読める。

しかしながら、三番目に登場する「針目城」という短編は難解だ。

後藤明生の作品には、時折、名も知れぬ城跡について探求するモチーフが出てくる。例えば、『首塚の上のアドバルーン』など。そういうことなのかな、と思って、「針目城」を読むと、肩透かしを食らう。



後藤は、あるときに貝原益軒の『筑前国続風土記』を読み始める。そこに「針目城」なる城のエピソードが書かれた一編を見出す。それを後藤が友人たちに話してみると、例外なく面白いという。自分も『筑前国続風土記』を読んでみたいとさえ言いだす。ならば、それを自分が、現代語訳かつ再説してみようではないか、と思い立ち、書こうとする。そして、実際に、書くのだ。

その上で、後藤は、次のように述べる。

> わたしが、この針目城を面白がった理由は、もはやここに書く必要もないと思う。これを、謀反劇のパロディと読むのも結構だと思うが、もちろん、それだけではない。敢えていえば、ここにはすべてがある。およそ小説家が書きあらわしたいと夢みる、すべてである。それが小説家をおどろかせ、溜息をつかせるのだろうと思う。

貝原益軒の『筑前国続風土記』の「針目古城」の項と関連項目としての「原鶴」の項に、「ここにはすべてがある」と言わしめるものは何か、ということを初見の時には思いつきもしなかったし、その後も、風変りな短編としてしか見ていなかった。

しかし、改めて読んで、後藤が「行方不明」になったものを探す、探して無ければ自ら埋める、といった「読み‐書く」の原理に相当するものだとわかった。

この古戦場をめぐる大友氏と秋月氏の戦の発端は、城主の家来の彦次郎の妻が、城主と密通したことにある。

それを知った城主の妻が彦次郎の妻をそれとなく責め、彦次郎の妻が自殺してしまう。恨んだ彦次郎は、秋月氏を裏切り、大友氏に対して、城への内通を約束する。彦次郎によって導かれた大友氏は、針目城を奪い、城主を殺すが、タイミングよく秋月氏は、大友征伐の軍勢を動かしており、針目城をめぐって、大きな戦へと発展して・・・という中で彦次郎は、いつしか話からいなくなり、スケールの大きい話へと、それとなくスライドしてしまうわけである。

> なにしろ、肝心の彦次郎の姿など途中から消えてしまって、影も形もない。そして、それで充分なのである。たぶん小説家たちは、この失われた彦次郎を探し出すことから、自分の小説を書きはじめるのである。ふつう歴史小説とか時代小説といわれているものも、そうやって主人公を作り上げて来た。もちろん、それも小説の一つの方法だった。ただ、いまのわたしは、このまるで夢のような短さの発見に、溜息をついているのである。もちろん、そういうわたしのこの文章が、すでに原稿用紙三十枚を超えているという。まことに滑稽な恥辱も含めて、溜息をつくのである。この溜息がすべてだ、とさえいえるのではなかろうかと思う。その溜息があればこそ、わたしは間違いなく、現在の自分なのである。

この「溜息がすべてだ」が、今でもわからない。

このわからなさが、何かを書く、ということにつながっているのだと思う。

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