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【LCT】序章①:My Story Telling-僕がLCTを必要と感じた理由

マガジン開設時に『LCT(ロジクリ思考)』について簡単に説明をした。
改めて、LCTとは以下のようなものである。

- Logical(論理的思考のフレームワーク)と、
- Clinical(臨床思考)とを、
- Thinking(どのように考えて融合させる)か

ところで、ぼくはなぜ『ロジクリ思考』が必要、あるいは有用と考えるようになったのだろう。
今回のnoteでは、ぼくが体験してきたストーリーを共有したい。
「本題をはじめろよ!」と思われるかもしれないが、お待ちいただきたい。
“ここから” 共有することが、大事なことなのだ。
1ページ目にいきなり鬼退治から始まる「桃太郎」があったら、訳がわからないだろう。
昔々・・・から始まって、 (そういう背景があるのね)
鬼が散々悪さをしていることを知って、 (こりゃ倒さねば)
いろんな仲間をキビ団子で集めて、 (うぉー!ワンピース的世界観)
いよいよ『鬼退治』!となるからこそ、その鬼退治は輝く。
その輝きが、桃太郎を後世に用いられる話にしたのだ。
ぼくは、LCTを頑固な寿司職人が握るオススメのように「これが俺の寿司だ、これが不味ければ帰ってくれ」的な感じにしたいとは思っていない。
LCTが少しでも多くの人に用いられ、批評されることを望んでいる。
だからこそ、丁寧に、丁寧に。
その物語の始まりから知ってほしいし、「そうだよね」と共感を得た状態で、みんなで前に進みたいと思っている。

● 新人理学療法士時代に味わった絶望感

働きはじめる時のモチベーションとは、どのようなものだったろうか。
ぼくは、働きはじめる前から『世界で活躍するPTになる』と自分のノートに書き、新人歓迎会のとき病院職員100人以上の前で『少なくとも日本一の努力をするPTになります。』と豪語するほどには、高いモチベーションを持っていた。
そんな僕だったので、自分の働き方として、心に決めていたことがある。
それは、「自分が感じた疑問から絶対に逃げない」ということ。
自分自身が感じた疑問を、圧倒的な勉強量と思考量によって、1つ1つ頑丈な解を積み重ねていく。

僕たちが知っているのは、ただ一つだ
その代わり、確かに知っている

トルストイ

という感じの知識。
自分による、自分だけの、頑強な知識を積み重ねる。
まさにそのことによって、自分自身がつくられ、鍛えられ、その先に自分が期待する自分がいる。
そう、信じたからだ。

だが、期待とは打ち砕かれるためにあり、決心とは圧し折られるためにある。
いざ働き始めると、宇宙の創始、ビッグバンのように『?』が爆発した。
・この痛みは何?
・筋力があるのになぜ歩けない?
・整形疾患と中枢疾患で、どうして筋出力の「種類」が違ってしまう?
・何。この疾患?
・起始停止、引き起こす関節運動、支配神経、何だっけ?
・どう考えて、どう介助したらいいの?
・…
毎日、頭の容量は『?』でオーバースペック状態。
■ 勤務中→思考フル回転、1つの疑問も逃さずメモ、先輩に質問攻め、それもメモ
■ 帰宅→諸々のストレスで暴飲暴食、いつの間にか寝てしまい20時か21時に起きて絶望、AM3時まで勉強、それでもメモは溜まる一方、そこから3時間睡眠→朝起きて勉強→出勤・・・
あのときの生活は、今思い返しても破滅的なものだったと思う。
常に殺気だっていたし、ニキビ常駐だし、どうしてかと思うくらい、焦っていた。
1日3生長しても、10を目指すぼくにとっては「あぁ、7足りなかった」と。
減点、減点、減点続きの日々。

『?』の中を、犬掻きで進むような毎日。
その中でも、特にぼくを辟易とさせた疑問がある。
それが「自分自身が、どうしてそう考えたか?」という類の疑問だ。

・歩行分析で中臀筋が弱そうだなと思った
 →(教科書の暗記以外の理由で)なぜそう思った?
・痛みの原因は術創部の癒着だと思った
 →(他にも原因が考えられる中で)なぜそう思った?
・この患者に対して、Aという介入が良いと思った
 →(どの評価から、どう考えて?)なぜそう思った?

これらを考えようすると、リアルに鼻血が出た。
分からなさすぎるのだ。
「自分がどう考えているか?」なんてこと、
これまでの人生において、一度たりとも考えたことはなかったのだから。
そして、それをどうやって考えたらいいのかも分からない。
暗黒の海に、そこに何が存在するかの確証もなく、必死で潜ろうともがく。
来る日も来る日も、自分自身に絶望した。
全部、当てずっぽうじゃん。
ただの勘じゃん。
という感じで。
そうなってくると、自分の仮説や治療の選択というものが、ひどく頼りないものに思えてきた。
『?』の洪水は、ずっと続いているというのに。

なぜだろう。なぜだろう。
なぜ、なぜだろうと思うのだろう。
なぜだろうと思うのはなぜだろう。
なぜ、なぜだろうと思うのだろう。

ファインマン

● 絶望の暗闇の中で見えたいくつかの光①:メタ認知

そんな生活の中で、毎日、毎日、暗く深い思考の海に潜ることを続けていると、いくつかのことが分かってきた。
まず、この「自分がどう考えているか?」ということは『メタ認知』という言葉で説明できるらしい。
つまり、こういうことだ。
自分が、ある対象について考えているとき、その対象についての自分自身の思考過程は隠蔽されてしまう。
たとえば、「異常歩行がなぜ生じているか?」を考えているとき、「中殿筋筋力低下かな」とか「関節可動域低下かな」とか「運動制御の問題かな」とか、思考対象の解答となるべき結果的なものが自動的に意識下に想起される。
一方で、その瞬間には『自分がどのように「異常歩行がなぜ生じているか?」を考えるか?』は、隠蔽されてしまっているのだ。
目的地に向け歩いているときに、自分自身がどのように歩いているかが隠蔽されてしまうように。

だから、『どのように考えているか?』は、そこ自体に問題意識を持つことで、はじめて意識の光の元に晒されることになる。
患者が、何らかの疾患で歩行に異常が生じ、歩行に問題意識を持つことではじめて「いままでどう歩くかなんて、考えてことがなかったよ」と感じるのも同じ構造をもっている。
これは、足を踏み入れたことのない、新たな大陸だ!
だから「自分がどう考えているか?」が分からないことに、絶望する必要はない。そう思えた。
だって、これは自分にとって全く未知の領域なのであって、これから新規開拓されるべき大陸なのだから。
そう思えたら、とても前向きな気持ちになれた。
これからゴールドラッシュが来るんだ、と。
これまでの自分の知識をこねくり回すことで何とかしようとするのはやめて、まったく新たな知識や考え方をもって、この疑問に取り組んでいこう!、そう思えた。

● 絶望の暗闇の中で見えたいくつかの光②:哲学との出会い

考えること自体を考える。新たな領域。
その領域の名前は、何だろう・・・。
そんな感じの思いを抱きながら、本屋の書棚をウロウロしていると、とある用語が後光を放っているように見えた。
『哲学』。
人間にはRAS(Reticular Activating System: 網様体賦活系)という機能(🌱note. ②インプットの質が高まる 参照)があって、一度目的が明確になると、必要な情報を意識下に「引き寄せる」ような注意の働きがある。
このときの機能は、まさにRASの仕事だったろうと思う。

✅ 哲学とは何か?
哲学の目的は思考の論理的明晰化である。
思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。
哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない。

— ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

そう、哲学とはまさに『考えること自体を考える』学問といえるだろう。
僕のRASが引き寄せた情報は間違っていなかった。
それから、『哲学』というものを貪るように学び始めたわけだ。
渇ききったスポンジが、勢い良く水を吸収するが如く、その知識は染み込んで、こぼれなかった。

☑ 【セネカ】 生の短さについて
☑ 【マルクス・アウレーリウス】 自省録
☑ 【ニーチェ】ツァラトゥストラはこういった(上)、(下)
☑ 【ニーチェ】 この人を見よ
☑ 【ニーチェ】人間的な、あまりにも人間的な
☑ 【ルドルフ・シュタイナー】みずからの時代と戦う者
☑ 【ラッセル】 幸福論
☑ 【ヒルティ】 幸福論
☑ 【アラン】 幸福論
☑ 【マーク・トウェイン】 不思議な少年
☑ 【トルストイ】 人はなんで生きるか?
☑ 【トルストイ】 イワンのばか
☑ 【トルストイ】 光あるうち光の中を歩め
☑ 【トルストイ】 人生論
☑ 【エピクテートス】 人生談義(上)、【エピクテートス】 人生談義(下)
☑ 【スティルネル(スチルネル)】唯一者とその所有
☑ 孟子
☑ 【H.D.ソロー】森の生活(上)、(下)
☑  【プラトン】メノン
・・・, I am still learning...

その中でも【ルネ・デカルト】の方法序説、この本は僕と世界の関わり方を一変させた。
この本は「我思う、故に我あり」の心身二元論が提起された、まさにその本である。
デカルトは、「真に正しいものの基準をどこに置くべきか?」に悩み、以下のような思考を進んだ。

・ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄しよう
・感覚は時に自分を欺くよな(錯覚のように)
・推論も時に誤った推論をしてしまうことがあるよな
・そう考えると、私が持つ思考すべては真ではないかも
・でも待てよ、すべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこの私は必然的に“何ものか”でなければならない
・自分が感覚/推論するものはすべて疑うことができるが、だがまさにそのことによって、その考える「自分」は確実に存在しているという事を証明することができる
「私は考える、故に私は存在する」(ワレオモウ、ユエニワレアリ)
・その上で、真の正しとは何だろう?
・「私は考える。故に私は存在する」という命題において、真理を語っていると保証するものは、「考えるためには存在しなければならないことを、私がきわめて明確にわかっている」という以外に全く何もないな
・つまり【★】私たちがきわめて明確かつ判明に捉える事はすべて真である

この最後のオチを言い換えれば、「自分自身が心の底から納得できる事、全く疑いの余地なく納得できるものこそ真とすべき」→「自分自身の納得感を信じよ」である(飛躍御免)。
いま、やばい思想に触れているな、と震えた。
だって、これまで生きてきた中では、先生が言っていることや教科書に書いていることが『正しい知識』で、自分が考えたことなど『誤りである可能性の高い妄想』だと思ってきた。
だが、ここには…、この本には!
そのまったく逆、「自分が心から、明らかに納得できること『のみ』が正しい」と書いてある。
この思想を信ずること、実践することはとても怖いことだ。
だって、自分の納得を信じて判断することは、その全責任を自分で背負うことに等しいから。
その判断の誤りはすべて、自分自身の誤りになるわけだから。
自分の感覚にフルベットする…。
・・・。
ぼくは、デカルトを信じた。いや、信じてしまっていた。
なぜなら、彼の考えについて、僕は心の底から、明らかに納得できたから。

● 絶望の暗闇の中で見えたいくつかの光③:LCTの着想

「自分自身が心底納得できる事、全く疑いの余地なく納得できるものとは何だろう・・・」
しばらくの間、その疑問を鍋で煮詰めるようにして、ゆっくりと時間をかけて、焦らず、考えた。
すると、自分が心の底から正しいと思える、いくつかのことが思いあたった。

①論理的思考
・いくつかの論理的思考のフレームワークは、心の底から正しいと思える
・例. ボールA、B、Cのうち、赤いボールを選びたい。Bが「白」、Cが「黒」だった。よって赤いボールはAである。
・以上のような論理的思考のフレームワークに基づいた思考過程は、疑いようがなく、正しいと思える

②現象(臨床現場)
・臨床現場において、患者を自分の目で観察したり、触診で確認された現象は、心の底から正しいと思える。
・デカルトは「自分の感覚も怪しい」と言っていたが、ここはある程度信じたい
・直接的に、観察/確認された現象は正しく、現実自体なので飛躍や間違いは少ない

③原理原則
・地球上の原理原則に則った物事は、心の底から正しいと思える
・例. 棒が斜めに地面に立っているとして、その倒れる方向は「地面との接地位置と棒の重心位置」によって規定される
・その現象は、「重力」や「力学法則」などの地球上の力学における原理原則に従っている
・それらの原理原則は、疑うべくもない

これらのわずかだが、確かな正しさどうしを、正しくつないでゆけば、少なくとも自分が心の底から納得のできる、そして人にも明快に説明できる「どうして自分がそう考えたか?」を開拓、獲得できると思った。
きっとそれは、ロジカル(①)で、クリニカル(②③)な思考である。
これが、僕が歩んできたLCTの着想に至るまでのストーリーだ。
このLCTの種を、勉強したり、考えたり、試行錯誤したりしながら、今日まで歩みを進めてきた。
そうして、「noteのマガジンで、それをカタチにしてみたい」と思えるほどにはなったわけだ、少なくとも。
その種を育て、花を咲かせ、結実させるのは、これからの僕だ。

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