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地方銘菓で糖分を(4)「午後7時の成功譚」  信玄餅編

)4友部理子(26)はカフェや喫茶店が大好き。スウィーツ大好き。地方銘菓が
大好き!そしてお茶の時間を愛している。
そんな彼女がアシスタントを務める、世田谷の小さなデザイン事務所「羊進円」。
社長の伊藤(45)、デザイナーの中野(36)、八木(32)、桜井(28)
の男四人と無愛想な経理の女性、石井(34)。
皆独身で、皆変人。決して、仲がいいわけでもない。ただ、唯一の共通点は皆、
甘いものが大好き。
そんな「羊進円」に毎回、地方銘菓がやってくる。
甘味を巡って、事務所内で蠢く人間模様。理子の恋愛が始まる?
そんでもって理想のお仕事とは?
甘いものを巡る、甘くない恋愛&お仕事小説。


(↓前回のお話はこちら)

「今月から友部さんを羊進円のSNS係の後継者になって頂きます」
デザイン事務所『羊進円』に出社して自分のデスクに着いた理子に、斜め後ろの
デスクに座る八木さんが恭しく言った。

「え、後継者って…」
「申し訳ない」
 八木さんが頭を下げる。
「俺、今週から仕事が増えて、手が回らなくなってしまって」
その大変そうな言葉とは裏腹に、八木さんは相変わらず無表情で淡々としている。 
「というのは表向きで、真相はクビだから」
 真後ろのデスクで作業している中野さんが回転椅子をクルリと回して理子の方を向き、半笑いで言った。
「こいつ、SNSセンスないから。フォロワーが未だに二十六人だぜ」
「二十七人です。最高で二十九人だったんですけど」
「それ威張るところじゃねえから」
「私は別に構いませんけど」
 インスタに一日一投稿あげるくらい、理子にとって大した負担ではなかった。
「ありがとう。助かります。これ、アカウントのパスワードです。」
 八木さんは再び頭を下げて、理子にメモを渡してきた。
「とりあえず社長はフォロワー百人作れって言ってたから。でも、理子ちゃんなら楽勝じゃん。地元の親戚とかまだ学生時代の友達とかいっぱい繋がってるでしょう」
「そんな、保険の勧誘じゃないんだから」
 中野さんに桜井さんが突っ込みを入れる。

 やはり、いつも理子を庇ってくれる。
この前の夜の頭ポンポンといい、石井さんが落としてくれなかった領収証の処理を代わりにやってくれた事といい…。理子は桜井さんを意識してしまい、なんとなく目を合わせられなかった。

「お疲れー」
 経理の石井さんが出社してきた。
先日の羊進円カフェセット騒動で、石井さんは理子と確実に目を合わせなくなってしまった。それ以来、理子はとにかく石井さんに不快に思われないよう、気をつけるようにしていた。
「週末、地元で法事があったから、これお土産」
 石井さんは作業台の上に四角い形の巾着袋をポンと置いた。白地に紫色の小花が描かれた可愛らしい不織布製の袋である。
「何、お骨?」
 中野さんの不謹慎な発言に石井さんは一瞬、絶句して
「喧嘩売ってんの?これは…」
と、言葉にした瞬間
「わ、桔梗屋の信玄餅だー!」
 理子はつい大声を出してしまった。 
「理子ちゃん、好きだねえ」
 桜井さんが苦笑する。石井さんはチラッと理子に視線を向ける。
「あ、すいません。子供っぽくて。大好物なので」
「何、無邪気な女の子アピール?」
 石井さんの突っ込みに一瞬、その場がピリッと張り詰める。
 理子は何と返していいのか分からず、石井さんは自分のデスクについてパソコンをたち上げる。
「あ、友部さん。この信玄餅、インスタにあげなくていいの?」
 この張り詰めた状況で理子に助け舟を出したのは、予想外に八木であった。
「あ、はい。そうですね、確かにこれは素敵な話題ですね」
 何を考えているか分からない、いつも無表情で温度の低い八木さん。
その八木さんがこんな気遣いをするなんて。SNS係を理子に押し付けてしまった 負い目かもしれない。 
 何にせよこの気まずい空気を脱する事が出来たので、理子はありがたかった。
 作業台に置かれた巾着袋を素敵に見せられないか、理子は映えアングルを模索しながらスマホで画像を撮った。

「ねえ、まだ終わらない?俺、信玄餅、早く食いたいんだけど」
 中野さんが理子に言う。
「え。もう食べるんですか?」
「俺、朝飯食ってきてないから、力出ねんだよ。早く糖分!糖分!」
 理子は巾着袋を開けて中から信玄餅を取り出す。赤い菱形の武田家の家紋がプリントされたビニール製の風呂敷包みを見ると理子は心がときめく。
しかし、中野さんのような五歳児はこのパッケージの情緒など分かりゃしないだろうと思いながら手渡す。
「えー?こっち?」
 中野さんがブー垂れた表情をした。
「こっちとは?」
 石井さんが振り返って中野さんに無表情で言う。
「これ、プラスチックじゃん。最近、入れ物が最中の信玄餅出たじゃん。全部食べられる奴。俺、そっちが食べたかったー」
 中野さんがビニール製の風呂敷を乱暴にむしって開けながら言った。
「それは悪かったねえ。最中の信玄餅じゃなくて。申し訳ありませんでしたねえ」
 石井さんの怒りを押し殺した嫌味も中野さんには響かないようで、小さなポリ容器に入った黒蜜をきな粉がまぶされたお餅の上にかけている。
楊枝で三つほど一気に刺し「あーん」と口を開き、下から受けるように食べる。
きっとこの男は知らないんだろうな。このビニール製の風呂敷が一つ一つ、
手作業で包まれている事を。そして「本結び」と言う特殊な結び方である事を。
その尊さを知らないから、むしるように開けてガサツな食べ方をするのだと理子は呆れる。
「理子ちゃん、もう一個」
「え?」
「ぜーんぜん腹にたまんないからさ」
 中野は信玄餅の巾着袋に手を伸ばした。
「あーちょっと!ダメです」
 理子は思わず巾着袋を中野の前から取り上げた。
「何だよ」
「八個入りなんですから、一人一つです」
 理子は信玄餅を一つ一つ皆のデスクの上に配った。
「うちの事務所は六人なんだから、あと二つ残るじゃねえかよ」
「お客様が打ち合わせで来るかもしれないじゃないですか」
 理子は社長の分と残り二つを冷蔵庫の中に入れて、空になった巾着袋を折りたたみ、石井さんに言った。
「あ、石井さん。この巾着袋頂いていいですか?私、集めてて赤と紫は持っているんですけど、白は持ってなくて」
「理子ちゃん、そんなもの集めてるの?」
 
中野さんが呆れて鼻で笑う。
「『そんなもの』って、ひどいですね。これ、ハギレ入れたりスーパーのビニール袋入れたりして使えるんですよ。部屋の中に並べて置くとコロンとしてて見た目も可愛い
んです」
「へー。なんか可愛い」
 桜井さんが笑う。
「何、今度は可愛いお嫁さんになれるアピール?」
 石井さんがフンと鼻で笑い、意地悪そうに吐き捨てた。
「え」と理子は凍りついた。その場の男性陣も石井さんの毒気に一瞬、息を飲む。「…いや、まあまあ。石井ちゃん、そんなに理子ちゃん責めるもんじゃないよ。自分が嫁に行けないからってさ」

 笑いながら最悪のフォローを入れる中野さんに、理子は思わず「ぐえ」と言い そうになるのを慌てて飲み込む。
あんなセリフ、フォローという名の爆弾だ。火に油を注ぐどころか手榴弾を投げ込むようなものだ。石井さんは中野さんではなく理子に鋭い視線を向けて再び背を 向けた。
あーあ。こういう年齢的なセクハラは、発言した男よりその場にいる比較対象と されている年下の女に対して憎しみが向かうんだよな。不思議な事に。

理子はもう石井さんに下手に気を使ったり、持ち上げる事をするのをやめようと
心に誓った。とにかく最低限にしか関わらないのがベストだ。
それにしても自分はなぜここまで石井さんに敵意を向けられなければならないの
だろう。子供の頃に見たオフィスドラマに出てくる御局様キャラのいびり。
昔のドラマの中の出来事だと思っていたのに、
まさか令和の時代の我が身におきるとは。

そういえば桜井さんがこの間、石井さんが以前、お金で揉めた事があるって言ってたけど、それって何だろう。国際ロマンス詐欺にでも引っかかったとか?
それと私へのこの敵意と何か関係あるのだろうか。

「お疲れちゃーん」
 高い声で社長が出社してきた。今日はどうやら機嫌がいい。
 理子が羊進円で仕事をするようになって三ヶ月が過ぎ、四ヶ月目に入った。
 ジキルとハイドのようにコロコロと期限が変わる社長の機嫌がだんだん読めるようになっていた。

一人称が「僕」の時は普通だが「俺」になるとやばい。普段は「理子ちゃん」と呼んでくれるが「友部」という苗字呼びだとやばい。「君ねえ」だと大丈夫だが「お前」だとやばく「貴様」だとハイパーやばい。などなど。
声のトーンが高い時は大抵機嫌がいい時だった。
作業フロアに入って来るなり、社長は目ざとくスタッフ達のデスクの上に置かれている信玄餅に気づいた。
「あれ?それ信玄餅じゃない。どうしたの?」
「週末、法事だったんで」
「あー石井ちゃんのお土産か。地元山梨だもんね。あ、じゃあ僕、仕事前に頂いちゃおっかな。理子ちゃん、コーヒー入れてよ。遂に羊進円カフェがオープンだね」
「あ、はい」
「せっかくだから、買ったばかりのカップに入れてよ。かなり高い金、払わせられたんだから」
社長は微笑みながら言う。その目はいつも通り笑っていないが、波打っている時は基本ご機嫌な時だ。
理子はチラッと石井さんを見るが、特に反応はない。
「あの、他に飲みたい方はいらっしゃいますか?」
「はーい」
 中野さんと桜井さんが手を挙げる。
 
良かった。買ったばかりの波佐見焼のドリッパーは三つなので一気に入れられる。
 理子はお湯を沸かしている間にコーヒースタンドにドリッパーを置く。
三つ並べると壮観だ。そしてアラビアのマイニオカップを用意する。
うん、手にするだけでも心が踊る。
あ、せっかくだから画像を撮ってインスタにあげようっと。
フィルターと豆をセットする。オガワコーヒーの豆を入れて沸いたお湯を垂らす。
理子は作業ごとに画像を沢山撮った。
お湯を入れるとコーヒー豆がぷくぷくと泡立ち、カップに澄んだ茶色の液体が一雫、また一雫と落ちていく。いつもそれを眺める時、理子は無我の境地であったが、今回は映えアングル探しと画像を撮るのにせわしなかった。
淹れたコーヒーと信玄餅をトレーの上に載せて、会議室で仕事をしている社長に届ける。
「へーこれが噂の石井ちゃんを激怒させたコーヒーカップね。素敵じゃない」
 げ。なんか、問題になっているみたい。理子の内臓は縮み上がる。社長はカップに口をつけて一口すすり細い目を見開いた。
「あ、美味しいねえ!やっぱりカップの飲み口いいと味が違うねえ。理子ちゃんの言った通り、百均ショップのカップと大違いだね」
 社長の感想を聞いて理子は嬉しさで体がじんわりと温かくなる。
「羊進円カフェに投資した甲斐があったよ」
 社長は鼻歌を歌うように信玄餅のビニール袋を外し、黒蜜をかけまわす。
「まあ、自分より十歳くらい年下の可愛い女の子が入ってきたら、そりゃ面白くないよな。石井ちゃんも意外と女だよなあ」
クククと社長は笑いながら信玄餅を口の中に運ぶ。
「まあ、石井ちゃんの顔をたててうまくやってね」
 はいと答えつつ、こちらが気を使っても相手が敵意むき出しだからなと理子は気が重くなる。
「で、理子ちゃん、うちの事務所で好きな奴できたんだ?誰?」

「え?な、何でそんな事を聞くんですか?」
 社長の不意を衝く質問に理子は声が裏返る。
「フッフッフ。僕、そういうの鋭いの」
 ふっと社長が笑った時に信玄餅のきな粉がフワッと飛んだ。
 社長は目を糸のように細くして理子を見つめる。付き合ってはいないが、
自分が桜井さんを意識している事を気付いているのだろうか。
「ダメだよ。うちは社内恋愛禁止だからね。付き合う時はやめてもらうよ」
 社長の細い目が一瞬、鋭く光る。
「そんな。それどころじゃないです。仕事で早く一人前になりたいんで」
 理子は笑顔で会議室を出て行く。事実だった。雑用と羊進円カフェの運営と今日から新たに加わった事務所のSNS運営。
何屋か分からない仕事は忙しいが、まだまだデザインの仕事は半人前。彼氏は欲しいけど、まずは仕事だよなと理子は思い直す。
 
とりあえず羊進円のSNS係としてインスタのフォロワーを
百人にする事を目標にする。
 改めて羊進円の公式インスタをチェックする。
八木さんは一日一投稿に記録のようなそっけない文章。
何をやっている事務所か分からない。これじゃあフォロワーは増えないはずだ。
むしろフォローしてくれた二十七人は何が楽しくてフォローしていたのか謎だった。

まずは朝、昼、夕方。人目に触れやすい時間帯に数多く記事を投稿して
反応を見てからテーマを絞っていこうかな。
 理子は『本日より事務所で羊進円カフェを始めました!』と羊進円カフェのタグを作って、毎日のお茶を投稿する事に決めた。これならコーヒー好きのフォロワーが増えるかもしれない。
 理子はコーヒーを淹れた時に撮った画像をランチタイムに合わせてインスタに
投稿すした。
そして夕方。自分の仕事がひと段落した理子は信玄餅ネタを投稿すべく、
信玄餅を画像に撮る事にした。
 嗚呼、この透明の風呂敷包みは本当に可愛い。中が見える事で期待値が爆上がりだ。
「石井さん、信玄餅頂きます」
 理子は作業している石井さんに声をかけるが、石井さんは振り向きもしない。
 うう、面倒臭いなあ。
 いいもん。自分は信玄餅の世界の中に没頭するのだ。
工場で一つ一つ手作業で結ばれたという結び目。
それを理子は丁寧に外して皺を伸ばして畳む。
これは今後、デザインで使うかもしれない。
理子は地方銘菓の包み紙を捨てずにストックしているのだ。
 次にそっと蓋を開けて黒蜜をかける。この時、理子は全部の蜜を使わず半分あえて残す。これは後のお楽しみ。
 かけられた黒蜜をきな粉がはじき、黒い蜜の玉がきな粉の上を転がる。それを楊枝で静かに崩し、きな粉とお餅に絡めておもむろに刺す。
この時のムニっという感触が手から理子の全身に伝わってきて、
期待値は三木谷カーブを描く。
きな粉が溢れないように左手で抑えながら、そっと口の中へとお餅を運ぶ。
噛み締めると、くにゅっという感触の後、黒蜜の香ばしい甘さときな粉の風味が
口の中を駆け巡って幸せを感じる。
その後、ゆっくりとコーヒーを一口。
黒蜜とコーヒーはつくづく合うと理子は唸る。
味わっているうちは幸せで、石井さんとの面倒なトラブルを忘れられる。
この忙しない事務所の中で自分だけ真空の繭玉の中にいるような、守られているというような、そんな気がしてくる。

お餅を食べ終わった後、信玄餅にはもう一つの楽しみがある。
それは残ったきな粉に半分残した黒蜜をかけて練り、きな粉玉にして頂く事だ。
理子はこれを『餅アフターのネルネール』と呼んでいる。
このネルネールの為にあえて餅には多くの黒蜜をかけないのだ。
無心で練って出来上がったきな粉玉を口の中へと運ぶ。
そして歯ではなく、あえて舌を使って口腔内で潰すようにして頂くのだ。
口の中に残るきな粉の粒子のザラつきを楽しめる。
そうしておもむろにコーヒーを一口、口内に含んで転がすように味わい、
残ったきな粉を流すのだ。
信玄餅をじっくりと味わい尽くし、理子は「ほう」と一息つく。
その瞬間、理子を包んでいた繭玉がポンとなくなり、現実に引き戻される。

「あ、私、中身の画像を撮るの忘れた…」
 食べ物を撮る時にありがちなミスである。つい食べるのに夢中になって
 忘れるのだ。包装されたものだけの信玄餅を載せるのは、味気無いなあ。
 理子は中身も画像に撮ろうと冷蔵庫に入れた信玄餅を取り出した。
するとめざとく中野さんが見つける。
「あ、ずるい!お前さ、人に一個だけって言っといて自分は二つ食べる訳?」
 『ずるい』って子供か。三十六歳の男がつける文句ではない。
「違います。事務所のSNSにあげる用の画像を撮り忘れちゃったんで」
 理子は新しい信玄餅を作業台の上にのせ、包みを開いた。
「あ、理子ちゃん、すごいよ。事務所のインスタ」
 桜井さんが興奮した表情で理子に羊進円のアカウント画面を見せる。
「フォロワーが五十人になってる」
「え?すごい!何でですか?」
「今日の投稿にめっちゃ『いいね』がついてるね。
あ、これ皆、北欧雑貨ファンの人みたいだね」
桜井さんがコメントをつけてくれた人のアカウントをチェックして言う。
「ほんと好きだよな。女は北欧デザインが。高い金かけて仕入れただけあったじゃん」
 中野さんは馬鹿にしてるのか褒めてるのか分からない言葉で感心する。
「でもずっとフォロワー二十七人がいきなり五十、あ、五十二になってる。
やっぱり俺はこういうの才能ないから友部さんに担当になってもらって良かったです」
 八木さんが珍しく感謝の言葉を出した。
「八木ちゃんがそんな事言うの、珍しいじゃん。あ、もしかして理子ちゃんの事、狙ってるの?」
 中野さんがニヤニヤしながら八木さんを見る。
「もう、何、小学生みたいな事、言ってるんですか!そんな訳ないじゃないですか」
 理子はムキになって怒った。桜井さんの前でこういう事を言われるのは困る。
桜井さんを見ると、スマホの画面を見ていて会話に反応していない。
「そうですよ。本当に困ったアラフォーですよね」
 八木さんも冷静にメガネのフレームを抑えながら言った。
「だいたい社長に社内恋愛禁止って言われてるんです。でもそもそも、それって何でですか?」
 理子の言葉に中野さん、桜井さん、八木さんが一瞬、凍った。
 ん?私、なんか変な事、言った?

 中野さん、八木さん、桜井さんは凍ったまま、目線を石井さんに向ける。
 んん?石井さんに関係ある事な訳?
 しかし、石井さんはまるで会話が聞こえなかったのように、
微動だにせずパソコンの画面を見つめている。
「り、理子ちゃん、俺にくれよー!餅くれよー!」
 中野さんがその場の空気を変える為なのか、作業台に置かれた信玄餅を奪おうとする。
「あ、ちょっとやめて下さい!画像撮ってからにして下さい!」
「いーじゃん、くれよー!くれよー!」
 二人がもみ合った瞬間、バン!と言う激しい音と共に石井さんが立ち上がった。
 一同、驚いて石井さんを見る。
「ほんっと、くだらない」
 そう言って、石井さんはバッグを抱えて勢いよく出て行こうとした。その瞬間、理子はぶつかりそうになったので避けたら中野さんの肩に勢い良くぶつかった。

「うわ!」
 その勢いで中野さんが奪った信玄餅が宙を舞い、弧を描き、パソコンのキーボードの上に逆さまになって落ちた。
最悪な事に蓋が取れ、中の餅ときな粉がキーボードの上に派手に散らばった。
「うっ」
 と、まるで腹パンを食らった声をあげたのは八木さんだった。
そう、そのパソコンは八木さんのものだった。
でも、さすが八木さん、キーボードが信玄餅まみれになっても、動じない。

「八木ちゃん、ご愁傷様!これ、理子ちゃん、撮った方がいいんじゃない?
衝撃映像」
「そうだよ!理子ちゃん!早く撮って撮って!」
 中野さんと桜井さんが笑いながら理子を急かす。
 そう言われると…。理子も反射的にスマホで撮り始めた。
「まあいいですよ。黒蜜をかけられる前で…不幸中の幸いです」
 八木さんは淡々とキーボードの上に溢れた信玄餅を片付け始めた。
「これ、俺が食べちゃっていいですか?」
「え?あ、どうぞ」

 八木さんは落ちた信玄餅を口に運びながら淡々と片付け、ベランダに出て
パソコンを逆さまにしてきな粉を落とした。
 と、その瞬間、風が吹き室内にきな粉が舞い散ってくる。
「うわ!」
「何やってんだよ、もう」
「すいません」
 理子は作業台の上にあるハンディクリーナーで、きな粉を吸い上げる。
「大丈夫ですか?八木さんのパソコン」
「なんとか死なずに済んだみたいです。黒蜜をかける前で良かった」
「動画さ、信玄餅をキーボードの上にこぼした時の対応策ってタイトルでアップしようぜ」
 中野さんははしゃぐ。
「でもこれ、事務所の下げ記事になりませんか?」
 理子は撮った動画を見ながら言った。
「それは俺が映っているからって事ですか?」
 八木が無表情で理子に言う。メガネの奥の目が心なしか冷たい。
「いえいえそんな。とんでもない」
「とりあえず、フォロワー増やす事が先決じゃない?面白動画でもさ」
 中野さんが笑いながら言う。とことん他人事である。
「俺は構いませんよ。アップされても」
「八木さんがそうおっしゃるなら後で投稿します」
 
 信玄餅騒動後、理子は皆が帰った後も事務所に居残って大きな掃除機でカーペットを掃除した。同じく居残った八木さんが恐縮する。
「すいませんね、友部さん」
「いえ、とんでもない。元々はこちらの不注意ですから」
 落ちたきな粉のざらつきで、石井さんがまた不機嫌になったらたまらない。
理子は念入りにコロコロをかけながら八木さんに聞いた。

「あの、ところで社内恋愛禁止って奴なんですけど」
「ああ、はい」
「なんか石井さんに関係あるんでしょうか。あの話題で不機嫌になって帰った感じだったから」
「ああ実は。昔、あったみたいですよ。石井さん、事務所のスタッフと付き合っていたか何かして問題をおこしたとか」
「え。問題とは」
「お金関係って俺は聞いてますけど。それ以上は知らないですね。それ以降、社内恋愛は禁止だって事くらいで」
 
お金。桜井さんも前に、そんな事を言っていた。
「友部さんが禁止を破ってこの事務所をやめる事になったら困りますよね。だから我慢します」
 ん?
 サラリと八木さんは言ったけど、それってどういう意味?って私、
  今、告白された?
 
え。八木さんに告白されちゃった?
 理子はコロコロの手を止めて八木さんをみつめる。
 八木さんはいつもと変わらず無表情でスマホを操作している。
 と、その瞬間、スマホを見つめていた八木さんがクワッと眼を大きく開いた。
「と、友部さん!」
「え?」
「これを見てください」
 八木さんがスマホの画面を見せる。羊進円のインスタアカウントだ。見るとパソコンのキーボードに落ちた信玄餅動画が五万再生され、
フォロワーが百二十人になっている。
「うわあ!嘘でしょ?」
「凄い。たった一日で達成されるとは」
「そんな、八木さんのおかげです」
「とんでもない。友部さん、おめでとうございます」
 八木さんが手を伸ばし、理子に握手を求める。
理子はそれに応じて手を差し出す。始めた触れた八木さんの手は大きく、
指は長かった。
「このまま是非、フォロワーを増やして下さい」
 まっすぐ理子を見つめる八木さん。
よく見ると端正な顔立ちをしている。メガネの奥の切れ長の瞳。
何気にまつ毛が長い。
 
無表情だから気付かなかった。八木さんて、イケメン…。
それに決してセクハラもパワハラもせず、下品な言葉も使わず品がある。
私って意外と、いや結構、八木さんが好きなのかも…。
突然跳ね上がった羊進円の動画の再生回数と同じくらい、
理子の心拍数も三木谷カーブを描いた。(続く)

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