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じいさん、帰ってきたで

家業を継ごうと決心した話です。

自己紹介にちらと書いたのですが、3年前に都市部から実家のある田舎にUターンして帰ってきました。

家業は砕石運輸業です。砕石といってコンクリートや道路などのアスファルトの材料になる石を山から砕いて製品にして販売しています。

Uターンする前の仕事は書店員でした。まるで業種も仕事内容も違います。おそらく日本で一番本のブックカバー付けるのとラッピング包装が上手な重機オペレーターだと思います。

これ言うとよく、なんでまた?って言われます。家業を継ぐつもりがあるなら、同業種で経験を踏むのが一般的だからだと思います。

これはもちろん僕も考えたことがあります。


物心ついた小さな頃から、まわりによく言われました。

次期社長さんじゃのう!将来仕事に困らんけええのう!

などなど。

当然、将来家の仕事をするようになるのだ、そういう人生なんだなって思ってました。

ただ、やっぱりこの決められたレールを歩きたくない的な、おれにはおれのやりたいことがあるんだ的な、盗んだバイクで走りだしたい的な思いが芽生えてくるわけです。


思えば、若い時は特に、これで絶対生きていくんだ!というものを必死に探していたように思います。

好きなことや、これで人生過ごせればなぁというものはそれなりにたくさんあったけど、何が何でもこれで食うていく、という覚悟をもつことが終ぞできなかったのだと思います。

好きなこと、その一つが本屋さんでした。

大学生の時、音楽や漫画や映画が好きで、サブカルめいたものに心惹かれていた僕は、仲の良かった先輩が楽しそうにバイトしてた、というくらいの理由で本屋さんでアルバイトを始めました。それから紆余曲折を経て10年ちょっと書店業界でお世話になりました。

本屋さんはめちゃくちゃ楽しかった。挫折もたくさんしたけど、何より、同じような感覚の人と過ごすのが自分には心地よくてこのまま一生この仕事をやって、ゆくゆくは小さくてもいいから自分のお店だしたいな、って本気で考えてた時期もありました。


両親に、家業を継げと言われたことはありません。こうやって帰ってきて家業の仕事をするようになった今の今まで、一度もありませんでした。色んな思いがあったのだと思います。心の中のほんとのところでは帰ってきてほしいけど、そうさせてしまうとたくさん苦労させてしまうかもしれない、本人が帰る気持ちにならないといけない、とか色々考えてたんだと思います。これは僕の想像でしかないですけど。

僕が帰ると親父に言ったとき、そんなそぶり全然見せず「おぉ、ほうか」くらいの反応しかなかったですが、あとでおかんに聞いたところによるととても喜んでいたようです。


じいさんは違いました。事あるごとに早く帰ってこい、帰ってこいって言ってました。そのたびに、べっぴんの嫁さん捕まえてそのうち帰るわ、とかなんとか適当に流してました。

親父は、大阪の出身でサザエさんでいうマスオさんパターンです。婿殿です。祖父である母の父が興した会社を血のつながらない僕の父親が継いでいます。

両親が結婚する際、じいさんはこっちにきて会社を継ぐなら許す、っていうのを条件にしたそうです。昭和の時代らしいと言えばそうだし、僕のじいさんらしいといえばそうです。

こっからまた想像だけど、もちろん会社を続かせていってほしいから孫に早く帰ってきてほしい気持ちもあったろうし、じいさんからしたら婿殿に苦労をかけてしまってるから早く手伝ってやってほしい、って思ってたんじゃないかと最近になって考えるようになりました。

確認のしようはないです。じいさんは癌でもう死んじゃってます。

僕はじいさんばあさん子ですごく可愛がってもらったし、僕もよう懐いとったと思います。

じいさんに癌が見つかってもう長くないから早いうちに帰って顔を見とけと、親父から急に電話がかかってきました。当時僕は都市部で働いていて急いで帰り病室に行くと、もうちゃんとした会話が成立する容態ではありませんでした。

つい1か月前には一緒に山菜取りに行ったのになぁ、確かにあのときなんやしんどそうだったなぁ。

やっぱり、家族のそういう姿を見るのはショックで、なんとか励まそうと、もう無理なんだろうというのは頭で分かっていてもなんとかもう一度元気にならんかと思って、「嫁さん連れて帰ってくるからもうちょっと待っとってよ」と声をかけました。

じいさんはうー、とかあーとかしか言えてなかったです。


その翌日か翌々日に亡くなったのですが、僕が病室をあとにしたあとずっと何度も僕の名前を呼んで、どこなら、どこに行ったんや、って言ってたってばあさんに聞きました。

最期まで会社の行く末が心配だったんでしょうか。誰かに苦労をかけるのを心配してたんでしょうか。


じいさんは、家族の言うことは聞かない、食卓に並んだ料理には全て大量の醤油や塩をかける、亭主関白でいわゆる昭和の頑固な男で、僕はヒトラーって呼んでました。

家の外では経営者であり世話好きで人に好かれる人で、自分では想像していないほど多くの方が最期のお別れに来られました。

やっぱりそんなじいさんのことが僕は憧れだったわけです。


あぁ、約束してもうたなぁ。待っといてね、って約束したなぁ。


この頃を境に、なんとなくぼんやりいつかは実家に帰るかなぁ、っていう思いが、”帰る”、という決心になりました。約束果たさんといけんから。

区切りを決めました。本屋さんの仕事において、店長としてある程度やらせてもらえたらそこで帰ろう。会社にとっては迷惑でしかないのは承知なのですが。

店長をして一つの組織を管理することは、会社を経営していくことに通じるものがあって、自分が家業を継ぐ際に必ず活きると考えました。

実際にこれはものすごく勉強になりました。利益のでる仕組みやそもそもの数字の扱い方もそうですし、なにより、人と関わって組織を動かすという経験はこれ以上なく大きかったと思います。

会社自体も従業員教育にとても力を入れていたので、社内社外の色んな研修に参加させてもらって、たくさんの物事の考え方を学べたのもとてもありがたかったです。


店長にやらせてもらってちょっとして、今度は親父が難しい病気に罹りました。半年以上原因不明の体調不良で、大きな病院に半年以上何度も通ってようやく治療が始まりました。国に指定される難病の一つで、今は普段通りの生活をするまでに快復はしましたが治療は現在進行形です。


このときに、親父も歳なんだとあらためて思いました。

もしものことがあって、親父の伝えたいことを聞けないままになってしまったらその後悔は計り知れないと思うようになりました。

そこで、家業を継ごうと決心がついたと思います。


それからは、いつか経営者になることを強く意識しました。これはもう、不安でしかないです笑

一店舗の店長として、スタッフさんの生活を考えるだけでも一杯一杯だったのに、経営者として雇用を保ち、従業員さんとその家族の生活を担保していくことへの不安は今でも強烈です。


とはいえ、帰ると決めてもすぐにことは進まず。当時大事なプロジェクトに参加させてもらっていて、これが落ち着いたら帰る段取りをしようとしていたころ、9年近く付き合っていた方から僕はフラれるわけです。

連れて帰る嫁さんがおらん笑


彼女は、アパレル系の仕事をしていました。僕はいずれ実家に帰るよ、って話をしていたけど、都会でそんなキラキラしたような世界に身においている人が僕が帰るような辺境のど田舎で生活するのは想像できなかったんでしょうね。そりゃあ、僕もそう思います。

それでも一緒に帰ってくれ!と言える覚悟があれば男気あったかもしれんけど、そこで幸せにしてあげれる自信はなかったです。

なんとなく、この結末はお互い感じてたのですが、どうにもできずだらだらしてて遂に…、って感じでしたが、これ以上こんな話してもあれだし別の機会にします。


そんなこんなでしたが、巡り合いというかご縁があるものでそれから1年後に今の奥さんと知り合うことができて、それから程なくして会社に退職する旨を伝え、満を持して帰りました。


事業承継はこれからです。幸いに親父の健康状態は良いので、ゆるやかに移行していけそうです。

会社で勤めるのとはまた違う大変さがあります。例えば経営者と比べてどちらが大変でどちらがすごいとか思いません。どっちも大変だし、どっちもすごいです。

自分は元々、何か成し遂げたいことがあって経営者になりたいとか、そんな風に思っていたことはありません。事業承継する方はそれなりに同じ感覚の方がいらっしゃるのではないでしょうか。このことに対する難しさは感じています。

ただ、じいさんが興し、親父がつないできた会社を、自分がまたつないでいくという使命感は少しづつ湧いてきています。

自分には会社をもっと大きくしたいとか、もっとお金持ちになりたいとか、そんな野心めいたものが少なく、これが弱味になることもあると思います。

縁があって今も勤めてくれている従業員さんの生活を守りたいし、この小さな町が良くなることをやりたいです。



帰ってきて最初にじいさんの墓前に行きました。

じいさん、嫁さん連れて帰ってきたで。間に合わんでごめんかったね。しっかり見ようてくれえよ。






…すげぇ!

小説みたいな終わり方になった!

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