見出し画像

3人の美少女と幾何の女先生が先住民の聖なる山で消えた。オーストラリア映画『ピクニック at ハンギングロック』

この映画『ピクニック at ハンギング・ロック』は不思議な映画であり、最後まで見ても謎は解明されません。しかし、この謎が明かされないことによってこの映画はカルト的な人気を誇り、熱く語り継がれて来た。ソフィア・コッポラがこの映画に惚れ込み、これをきっかけに映画『ヴァージン・スーサイズ』を制作した。また、ファッション・デザイナーのラフ・シモンズやアレキサンダー・マックイーンがこの映画をデザインのインスピレーション源にした。いったいどんな秘密がこの映画にあるかしらん? 



1900年2月14日ヴァレンタインズ・デイ、真夏のオーストラリアで起こった実話があるていどもとになっているらしい。眩しい太陽に照らされ、蝉たちは鳴き声をあげ、ミツバチたちはパンジーの花に群がる。アップルヤードカレッジは経営者の女史の名を冠した私立の全寮制女学校で、ブッシュのなかにあるちいさな閉鎖社旗、少女たちをレディ(貴婦人)に育てるための厳格な教育をほどこす。生徒数も少なく、さぞや学費が高そうなことも察せられます。



時代はヴィクトリア朝ゆえ、彼女たちはコルセットで胴を締め上げ、三重のペティコートを穿き、その上に純白のロングドレスを身に着けます。そしてアップルヤードスクールは、あの時代ならではの優雅で偽善的なふるまい(マナー)を女子校生きたちに叩き込みます。野蛮なメスザルたちに文化を教え、強制的に貴婦人に仕立て上げてゆくために。



ヴァレンタインズ・デイ。彼女たちは一方で男の子たちからのたくさんのラヴレターをもらっておもいおもいにナルシシズムを満足させながら、まだ未経験な性愛の予感に夢と怖れのないまぜになった感情に襲われそわそわしてもいます。同時に彼女たちにとってこの日は年に一度のピクニックの日。2人ので引率者の先生に連れられて、4頭だての馬車に乗って、魔の山ハンギング・ロックにハイキングに出かけます。それは先住民アボリジニにとっての聖なる山、ただいまのところ休火山である。


なお、女子高生のなかでただひとりセーラは授業で課せられた詩の暗唱を拒んだことによって、教師にピクニックへの参加を拒まれ、校舎に居残りさせられた。なお、セーラは両親に捨てられ、施設出身、兄アルバートと生き別れています。セーラは身近なとこで兄アルバートが暮らしていることを知りません。セーラもまた美少女ながら、ただしこのお嬢様女子校のなかでただひとり貧しい。セーラは詩を書く少女で、詩の主題はひたすら(この映画を方向づけている、霊感をそなえた)上級生のミランダに捧げる愛。セーラはアップルヤードカレッジの教育に馴染めない、毅然とした反逆者です。なお、ヴィクトリア朝の強権的な教育(しつけ)にひそむ公然たるサディズム(暴力)をもまたこの映画はさりげなく暴いています。



セーラ以外の女子高生にとっては、のどかでたのしいピクニックであるはずだった。ところが、まるで予知能力を持っているかのような、そしてボッチチェルリの描く天使にも喩えられる美少女ミランダは天真爛漫に微笑みながら、3人の同級生たちマリオン、アーマ、イディスたちを引き連れてずんずんと楽し気に山の奥へ奥へと分け入ってゆく。なぜか正午12時で時計は止まる。なぜか彼女たちは眠たくなって地面に寝ころび、眠りはじめる。四方は、荒涼としてゴツゴツした岩山である。鳥たちは青空へ飛び立つ。彼女たちが黒いストッキングを脱いで素足になったその素足に蟻がたかり、彼女たちの体のあいだをヤモリが這ってゆく。そしてまた眠りから覚めたミランダは2人の女の子を引き連れ、山の奥へ奥へと分け入り、けっきょく消えてしまった。なお、ひとり(気の毒ながら美少女とは言い難い)太っちょのイーディスだけが恐怖に耐えかねて、泣き叫び、脱落し、結果、遭難をまぬがれた。またけっして彼女たちとともに行動をしなかったはずの幾何の女先生マックロウ女史までもがなぜか忽然と消えてしまった。


他方、ただひとり セーラは詩を暗唱させられる授業で教師に反抗したゆえ、罰として教師によってピクニックへの参加を禁じられ、寄宿舎に留まっています。セーラは、ひとつ先輩のミランダに深い愛を抱いている。ミランダはセーラに謎の言葉を言い残した、「セーラ、いつかクイーンズランドのわたしの家へ来て。あなたは愛することを学ばなくちゃ。わたしはもうじきここを去る。セーラ、あなたはわたし以外の人も愛さなくちゃだめよ。」


さて、ここから先が映画の後半である。残された人たちは哀しみ、混乱し、彼女たちの遭難は新聞ダネになってスキャンダルにもなって、謎の経営者アップルヤード夫人(未亡人)にとっては学校経営が危なくなって、不安にさいなまれ、焦燥し、酒浸りになってゆきます。警察官は捜索隊を組織します。ひとりの青年、貧しい御者の青年アルバートは独自に捜索をはじめます、山のなかで「ミランダ、ミランダ」と声を限りに叫びながら。すなわち、この状況のなかで、ひとりひとりの人物はそれぞれ違った反応をして、異なった行動を取ってゆく。アルバートの必死の探索によって救出された少女アーマ(Irma)は、同級生たちに帰還を歓迎されながらも、しかし他方で彼女がこれを機にあっさり転校してしまうことを知るやいなや、同級生の女子たちに猛然と非難されもする。同時に貧富の差、階級の問題もまたあからさまになってゆきます。こうしてこの映画は(いわばシェイクスピアの血を引く)立体的な物語となってゆきます。


映画の最後では、ミランダが微笑み、ポワティエ先生に手を振って、ポワティエ先生もまた晴れやかな笑顔でミランダに手を振る場面が回想され強調されます。


この映画はまず最初に〈謎解きのないミステリ映画〉であり、準じて〈美少女萌え映画〉であるとともに、〈勇気をもって毅然とコルセットを脱いだ少女たちを描くフェミニズム映画〉でもあり、そしてひそかに〈オーストラリアにおける入植者たる白人の不安。かれらが先住民アボリジニたちの土地を奪い取ったことによる、無意識に抱え込んだ罪の意識〉をも描いている映画でさえある。ここにオーストラリア近代を読み解くひとつの鍵が潜んでもいます。もしもそれを日本近代になぞらえるならば、いわばアイヌ文化 対 クラーク博士以降の北海道の葛藤に相当しもすれば、また大東亜共栄圏時代の朝鮮や満洲にわたった日本人の解放感と不安をおもいださせもするでしょう。





この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?