Re: 【小説】イカロス、ライト兄弟、ガガーリン、俺
勢いでどうにか誤魔化した月曜日とは違って、火曜日は疲労が見えない背嚢となって重くのしかかる。
ウンザリした労働者たちのため息が足元に絡みつく。
電車を降りて改札を抜ける。
それだけでひと苦労だ。
「本物のインドカレーだよ」
そう言って新装開店のチラシを配る男はおれと目を合わせると微笑んだ。
手渡されたチラシは赤やら黄色やらで派手な印刷がしてある。
しかし本物のインドカレーと言われたところでおれにはそれが本物かどうかなんて判別は付かない。
旨いカレーは旨いカレーだ。
それがスリランカだろうとパキスタンだろうと関係が無い。
世界中のクソヤローたちがちゃんとしたスシを求めていないように、朝鮮だとか支那のスシで満足するのと同じようにカレーは美味ければいいし、スシと違って不味いカレーは存在しない。
おれはそのチラシをポケットに押し込んだ。男は寂しそうな顔をするが受け流す。
疲れを知らない商店街は馴れ馴れしい。
目一杯のウンザリを詰め込んだ背嚢が重くなる。足取り鈍く、安っぽいメイドコスプレの衣装を着た女の前を横切る。
メイドのやる気ない呼びかけを横目で見つつ、顔面の造形だけは綺麗だなと思う。
疲労と言う生命の危機は邪な怒張を呼ぼうとする。
その場で布団を敷いて寝たい衝動に駆られながら家路を急ぐ。
ギャル居酒屋どーすか、とスマホをいじりながら呼び込みをしているギャルもやり過ごす。
いまおれに必要なのは女でも眠りでもない。
油の匂いに吸い寄せられるように中華料理屋の赤い暖簾をくぐる。
店のババアがテーブルに水を置く前に、おれはルース―焼きそばと餃子のセットを頼んだ。
タイルの床はベタベタしている。
厨房ではコックたちがハイミーの巨大な缶を派手に扱っていてとても安心できる空間だ。
おれが煙草を咥えるより先に出てきた灰皿はまだらに汚れている。
全てがクソだ。
そうだ。おれに必要なのはこれだ。
味の濃い焼きそばと餃子を一気に腹に詰め込んでぬるい水を飲みくだす。
ようやく背嚢のウンザリした気持ちか減っていくのを感じた。
だがそれは緊張の前の弛緩に過ぎなかったのだ。
店を出て歩き出す。
少し前方に真っ黒いセンチュリーが停まっていた。
窓にはもちろんスモークが貼ってあって中が見えないし、スモークの無い窓にはレースのカーテンが下がっている。
いわゆる”やんごとなきお上品な車”だった。
「ヤー公かよ」
ヤー公が囲っている愛人のところまで来たのだろう。その程度の小さなマンションだ。愛人にしても下から数えた方が早そうだ。
大体どんな女子大生を飼ってるんだ?
腹を満たしたおれは下世話な興味が顔を出すのを感じた。
そうやってウンザリを下ろした背嚢に性欲が詰め込まれる。
つまりおれは何も変わらないってことだ。
親分の下の為に運転する若いのも大変だねぇと思いながらおれは胸ポケットに手を差し込む。
煙草の時間だ。
その瞬間おれは視線を感じてやんごとなきセンチュリーのサイドミラーに目を遣った。
運転席に座っていた髪をオールバックに撫でつけたスーツの若い男と目が合う。
男が両目を見開く。
おれはそのチンピラが何かを勘違いしている事に気づいた。
何故ならサイドミラーの中でチンピラも自分の懐に手を突っ込んでいたからだ。
奴はおれの喫煙タイムをカチコミかなにかと勘違いしている。
このままではまずい。
そう思ったおれは口の中のガムを膨らませて飛ぶことにした。
噛まれ続けて柔らかくなったガムは大きく膨らんでおれを軽々と持ち上げる。
おれの両足が地面を離れていく。
センチュリーの中にいたチンピラは唖然とした表情で飛んでいくおれを眺めていた。
あばよ、お前は地に足をつけて生きた方がいい。
そのチンピラが手にしていた匕首を見て、飛び去って正解だったと思った。
あのまま煙草を吸っていたら風通しの良い身体にされていただろう。
おれは首を垂直に上げたまま、膨らみ続けるガムに空気を送り込んでいた。
特に何も考えずに飛び立ったものの、どこへ行こうか。
ひとまずは電線などに引っかからず飛びながら、おれは近くのマンションを横目で覗いてみる事にした。
目の前にあるマンションの7階あたりの窓からは、背中に桜吹雪と鯉だかの入れ墨を背負った男が赤い天狗面を付けた女子大生に蝋燭と鞭で責められているのが見えた。
カメラでも持っていたら強請りに使えただろうか?あのチンピラ経由でどうにかできないか?
その間にもおれはゆっくりと風船ガムで上昇を続ける。そしてマンションの屋上を越えると風に流されたおれは、街の上空を漂い始めた。
少し飛んだ先では、先ほどの綺麗顔面をしたメイドが雑居ビルのベランダで安っぽいコスプレ衣装のままヤンキー座りで煙草を吸っているのが見えた。
捻じ曲げたくちびるの端に100sの長い煙草を挟み、両手に持ったスマホで何かしらをフリック入力している様に見える。
器用だな、と思うがピアノだとかと同じで訓練次第ではどうとでもなるんだろう。
新世代のブラインドタッチとはああいうものだろうし、誤変換くらいは余裕で解読できる彼女たちにしてみれば遅くて正確な文字の羅列と言うものには価値が無いのかも知れないと思った。
営業に関してはおれより彼女の方が上手かも知れない。
さらにおれは流される。
その先の雑居ビルの屋上ではやる気の無さそうな呼び込みをしていた黒いギャルが霧吹きで観葉植物に水を与えており、なんなら葉の汚れなども丁寧に拭いているのが見えた。
雑居ビルの薄汚れた床や壁、鉄扉とは対照的に美しい緑が並んでいる。
緑色の葉が五方向に伸びている事、表面に少し赤い髭の様なものが伸びているような気がしたがきっと気のせいだろうと思った。
とにかく彼女は甲斐甲斐しく植物の世話をしてた。
人間は見た目で判断してはいけない気がするし、見た目通りだと言う気もする。
おれはさらに流される。
本物のインドカレーを出すよ、と言っていた店員が道を歩いているのが見えた。
自宅として借りた家なのか、酷くボロボロな一軒家に入っていくのが見えた。
勝手な偏見だが、やつらの母国にある母屋よりマシだったりするのだろうか。
雨風が凌げれば何でも良い、とか言う基準なら満たしているだろうけれど、奴らは果たしてそこまで貧しいのか。
もしかしたら勝手に棲みついているだけかも知れない。
とにかく本物のインドカレーを出す店の男はくたびれた一軒家に入って行くと裏庭に回り、恐らく近くの神社でとらえたであろう鯉や鷺、猫、狸、貂などの獣を鉄籠から出すと鮮やかな手つきで裁いていった。
本物のインドカレーに鯉とか猫が入っているのかは知らないが、どんな味のカレーを食わせるのか逆に気になってきてしまった。
おれはまだ風船ガムで飛んでいた。
空飛ぶスパゲッティモンスター教と言うのを聞いた事があるが、それは海外の話だ。
日本なら空飛ぶ牛丼とかカツカレーとかになるのだろうか。担々麵とか、ルースー焼きそばでも良い。
空を自由に飛びたいと思っていたことはあるが、あれはあれで案外つらいものだと聞いた。
それに二本ずつ生えている手足すらまともに使えない奴が、羽だとか翼を得たところでどうにかなるものでもないだろう。
リメンバーイカロス。
それに、おれがいまやっているのは飛翔や飛行ではなく漂流であって、自由に飛んでいるとは言い難い。
むかし風船で空を飛んだ夢の塊みたいなおじさんが実在したが行方はわかっていないと聞く。
夢まで飛んで行ったんだから当たり前だろう。
かたやおれは風船ガムと言う現実で飛んでいる。嚙みつくして柔らかくなったガムは大きく膨らんでいる。
飛ぶと言う事は何かの権力的な行為の象徴に思えてきたが、実際はガムにぶら下がっているだけなのだからえらくもなんともないのである。
そもそもこのガムは職場の先輩がくれたものであり、実際にはその先輩が噛んでいたガムでもある。
仕事中にガムを噛んでいた先輩に「おれにもください」と言ったところ、ガムを取り出し、包み紙を開くと「じゃあ口を開け」と言い放ち、それに従って口を開いたおれに向かって今まで嚙んでいたガムを吹き飛ばすと自分は取り出しばかりの新しいガムを噛み始めたのだ。
先輩の唾液だとか朝飯に喰った何かの残りカスだとか薄くなったミントの味だとか先輩がいま飲んでいる香料臭いコーヒーの香りだとかが鼻腔に広がる。
それはまるでセックスより凄いものだった。
眩暈にもにた興奮が押し寄せてきておれはその後、仕事どころではなかった
いい加減な仕事でよかった。
一般企業の人間であればどうにかなっていたかも知れない。
とにかくおれはその先輩がくれたガムを放してなるものかと必死で噛み、膨らまして今に至るのだ。ガムは極限まで薄くなり、そして広がっている。
顎を上げてみているのでそれがどのくらいの大きさになっているかは見えないし分からない。
視界の全ては薄いピンク色をしたガムになっているし、とにかく先輩が噛んだガムだと思うと興奮する。
飛んだ高さが高ければ高い程、落ちた時には酷い事になると言う。
ならば噛んだガムがいやらしければいやらしい程、吐き捨てた時には快感が押し寄せるのかも知れない。
おれは先輩がくれたガムから口を放してゆっくりと落下する事にした。歯を伝わって首の後ろから快感が駆け回り脳味噌と背骨を伝って全身に広がる。
先輩と俺の唾液が複雑に絡み合ったガムは影を落としながら空高く飛んでいくのが見えた。
サポートして頂けると食費やお風呂代などになって記事になります。特にいい事はありません。