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noteといじめ

最近、私は職場でいじめられているということをnoteに書いた。
先ほど遠方に住んでいる友人から電話があって、そのいじめの記事の話になった。
そのとき、その友人が、私をいじめる人のことを、「そいつ」と呼んだ。私はそのことに違和感を覚えた。なぜなら、電話で、私をいじめた人の悪口を言ったら、私がそのいじめる人をいじめていることになるからだ。私はそのいじめる人を恨んではいない。ただ、一緒に仕事をするのが苦痛なだけだ。
私は人の悪口を言うのが嫌いである。
それに久しぶりに電話してきた友人は第三者である。彼が私の味方になってくれたのだろうが、そうなると、私とそのいじめる人の間の溝はより一層深まってしまう。私がnoteにいじめられていることを書いたのはそのような意図からではなかった。
私はただ、思ったことを書いて共感して欲しかったり、理解して欲しかったりそのような動機で文章を書くのである。誰かを攻撃するためではない。
誰かを攻撃するために文章を書くのは良くない。
無論、政府などを批判することもあるが、それは社会を良くしようと思うからである。
フランス革命で国王は殺された。
私が政権を倒したいと思ったとしても、首相を殺したいとは思わない。社会をよくするために人を攻撃するのは良くない。権力者などを攻撃する言説には必ず社会を良くしたいという思いがなければいけない。単なる恨みで攻撃してはならない。
私がいじめについて書いたのは、本当に苦しかったからである。書くと読んでくれた人々がいた。それだけで私は救われるのである。繰り返し言うが、私は私をいじめた人を恨んではいない。仲良くできればそれに越したことはないが、そうでなければ、私の心をいちいちイラつかせることをしないで欲しいだけである。
何度も言うが、noteなどSNSをいじめとかその復讐の道具にしてはならない。言葉は人の心を非常に傷つける場合がある。批判と誹謗中傷は違う。批判は必ず、批判により、その批判されたものが良くなることを前提にしたものである。批判という言葉は、「否定」という意味ではない。世の中の多くの人が、そこを勘違いしていて、「批判」=「否定」と思っている節がある。
私はnoteを中心にSNSが世界を良くするために働いて欲しいと思っている。noteには誰でも長文を投稿できる。私のような作家でも学者でもない人間が、社会に向けて自分の考えを発表できる場である。ネット空間が誹謗中傷の場となるのではなく、喩えるならば、古代ギリシャのアゴラ(哲学を議論したりした広場)のようになって欲しいと思う。実際、noteを見ると、なっていると思う。

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