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【長編小説】『空中都市アルカディア』







はるか未来

いや

はるか昔と言うべきか

科学が最高度に進化した時代

地球の地殻に大変動があり

すべての大地は多くの生命と共に海に没した

生き残った僅かな人類は

ひとつの都市を空に浮かべ、そこに逃れた

何千年の時が流れ洪水が治まると

現れた大地に人々は再び降り立った

陸の形は以前の面影などどこにもなかった

それでも人々は以前の地名への愛着を持って土地に古名を与えた

空中都市はいつしかアルカディアと呼ばれ

世界政府のある都となった

アルカディアは人類の叡智の結晶であり

人々はそこへ住むことを誇りとした

人口が増えてくるとアルカディアは

そこに住むことのできる人間を制限した

アルカディアに住むことの許された者を

アルカディア人と呼ぶ

 

 



第一部 ネオ・アテネ

 


第一章  幼年期


 

一、父の言葉

 

 オリンピアの祭典の年の夏、ある晴れた日、六歳の黒髪の白人の男の子シロンは父に連れられ、ネオ・アテネ市内にあるリカヴィトスの丘を東側から登った。ごつごつした岩の地面を革のサンダルで踏みしめて息を切らし、急斜面では短パンから出た膝に手をつきながら登った。白いティシャツを汗に濡らしながら父のあとについて山頂に辿り着くと、視界に青空が広がった。その青空の西の上空約一万メートルに、空中都市アルカディアが黒く浮かんでいた。

 アルカディアは楕円形に近い形で、南北五キロメートル、東西三キロメートルほどの大きさで、上空一万メートルほどを西から東に向かって浮遊していた。四年に一度、オリンピアの祭典の年にネオ・アテネ上空に来た。アルカディアは世界中を回りながら、租税の品々を徴収していた。空中都市から線路のない空中を走る車輪のない列車が降りてきて、税を集めるのだ。地殻の大変動、大洪水後の新世界に飛行機という物はなく、アルカディアと下界を行き来する空中列車のみが空を移動する乗り物である。下界での乗り物は船、列車、自動車、それからホバーバイク、ホバーボードなどだ。乗り物の動力はすべて「斥力せきりょく」で、これは引力の反対で物と物が反発する力のことだ。斥力で発電して電気で動くか、ホバーボードやホバーバイクのように斥力自体の力で地上数十センチの空中を走る場合があった。そもそも、この「万有ばんゆう斥力せきりょくの法則」の発見があったからこそ、空中都市アルカディアは上空に浮かぶことができたと言われている。

 ネオ・アテネは、地殻の大変動前の旧世界のギリシャの首都アテネを模して造られた大変動後の新世界の都市である。新世界とは大洪水ですべての土地が海に没して何千年という時が経ち、再び顔を出した陸地に人々が降り立って造った世界である。それも二千年前のことだ。その陸地は旧世界と同じ形をした陸地ではなかった。地中海らしいものはあった。しかし、黒海はなかった。エーゲ海らしいものはあった。しかし、トルコの小アジアは半島ではなかった。アラビア半島らしい土地はあってもペルシャ湾と紅海はひとつのもので、その海と地中海らしい海を繋ぐ海峡をスエズ運河と人々は名付けたりもした。インドは半島ではなかった。インドシナ半島もなく、代わりに多くの島々があった。そのうちの北のほうにある島をジパングと名付けたりした。アメリカ大陸は南北に分かれてなく赤道にまたがる巨大な大陸だった。これらの新世界の大地の様々な場所に人々は旧世界の植物の種を撒き、動物を解き放って昔懐かしい世界を復活させたのだという。その辺の詳しい歴史はわかっていない。とにかく世界にはネオ・ローマ、ネオ・バグダッド、ネオ・デリー、ネオ・ペキン、ネオ・ロサンジェルスなどと古い名を冠した都市が散らばっている。人口はまださほど多くはなく、おそらく一億人もいないだろう。しかし、それぞれの土地で個性のある文化を作っている。それぞれの都市は列車や船で交易がある。しかし、先にも書いたように飛行機はない。アルカディア世界政府のもと平和な世界が築かれている。

今、黒髪で黒い瞳のシロンとその父がいるリカヴィトスの丘は、旧世界のアテネにあった丘と同じ名前が付けられた丘だ。ネオ・アテネのものは標高二百メートル程度の岩山で、周囲にネオ・アテネの街を見下ろすことができ、東に紺碧の海を遠望し、南西にアクロポリスの丘を見下ろすことができる。都市の規模は旧世界のアテネよりは小さく、街の周囲には田園地帯が広がっていて線路や道路が放射状に広がっているのが見える。ネオ・アテネには高層建築物がない。高層建築物は世界政府アルカディアによって下界に造ることは禁じられている。この新世界で高層建築物があるのはアルカディアの下部にある逆さまの高層ビル群だけだ。それらは逆さまに垂れているので高層建築とは言えないかもしれないが、とにかく新世界には技術はあってもそれを造ることを禁じる理由があるようだ。ただ、この世界の人間にとっては高層建築物がなくとも幸不幸には関係がない。だから、ネオ・アテネでは建築物は高くても八階程度が最高となっている。アクロポリスのお膝元、プラカ地区のほとんどが世界の首都としての官公庁でひしめいている。それらの建物も八階以上の高さはない。他の街並みは旧世界の二十一世紀頃のアテネと似ている。人々が再び地上に降り立って二千年が立ったことに合わせているかのようだ。人々の服装も旧世界の二十一世紀頃とほとんど変わりはない。エネルギー源は斥力であるところが、石油や石炭などに頼っていた旧世界とは違う。例えば、自動車が排気ガスを出さないため街の空気はクリーンだ。広い通りには自動車が行き交うが、繁華街には自動車は入れず、制限速度を守ればホバーボードやホバーバイクが歩行者の間を縫うように走ることができる。アクロポリスの丘の上にはパルテノン神殿がある。ネオ・アテネのパルテノン神殿は崩れた遺跡ではなく完全に復元されたものだ。復元と言っても、アクロポリスの丘の上の面積は旧世界の物より広くなっていてパルテノンは旧世界の物よりはずっと長い建物になっている。堂々たる白亜の神殿が丘の上から市街を睥睨へいげいしている。旧世界では神殿は極彩色であったとも言われているが新世界の神殿は白い。アクロポリスの他の建物も白く、丘を取り巻くように神殿に似た白い建築物がたくさん建ち、丘全体が白の建物の塊のような印象を受ける。丘の形、位置関係などからアテネと似ている土地をアルカディア人は選び、そこをネオ・アテネと定めた。東にはエーゲ海に似た、島々の多い海がある。その海はそのまま新世界でもエーゲ海と呼ばれている。旧世界ではアテネに最も近い海は南のサロニコス湾だったが新世界ではサロニコス湾はなくペロポネソス地方がそのまま南に陸続きとなっているためネオ・アテネに一番近い海は東のエーゲ海である。このような話を六歳の男の子シロンは父親から聞かされていた。

 「シロン、見てごらん。あれがアルカディアだよ」

とシロンの父は緑色のポロシャツの半袖から日に焼けて赤くなった右腕を伸ばして西の空を指さして言った。幼いシロンは絵本などでアルカディアを見たことはあったが、実物を見るのは初めてだった。空中に浮いた平らな岩塊の下部にたくさんの黒い高層ビルが下に向かって伸びている。逆さまのニューヨークのような近代都市だ。空中高くに浮いているため細かい部分はよく見えないが高層ビル群を縫うように交差している線は道路らしい。逆さまと言っても重力まで逆さまであるのではない。当然、道路から飛び出てしまえば下界に落ちるだろう。そのような事故もあるのだろうかとシロンは空中都市の交通事情について想像した。

 シロンの父は言った。

「いいか、シロン。アルカディアは天国のような場所だ。我々の理想の象徴として空に浮いているんだ。そこには理想の人格を持った人々、理想の社会があるんだ」

シロンは黒い瞳で父を見上げて訊いた。

「理想の人格?理想の・・・?」

「社会だ。理想の人格とは立派な人間という意味だ。そして、立派な人、優秀な人しかいない社会は悪人のいない素晴らしい社会なんだ。だから、下界の人々はアルカディアに行くためにみんな努力するんだ」

「努力?」

「うん。アルカディアは四年に一度、このネオ・アテネの上空に来るんだ。そして、ネオ・アテネを主な会場としてオリンピアの祭典が開かれる。オリンピアの祭典にはいろいろな競技がある」

「いろいろな競技?」

「陸上競技、水泳、格闘技、球技、など様々な運動競技、それから芸術、文学、料理、土木建築、家政、医術、等々あらゆる技術の世界一を決めるんだ。世界一の者には金メダルがもらえる。二番目は銀メダル、三番目は銅メダルだ。それらのメダルを取った者、あるいは八位以内入賞者はアルカディアに住む権利がもらえるんだ」

「ぼく、オリンピアの祭典で金メダルを取りたいな。それで、アルカディアに行くんだ」

とシロンが言うと父が言った。

「オリンピアの祭典では、金メダルよりも価値のあるものがあるんだ」

「え?」

シロンは父の顔を見上げた。白人特有の赤く焼けた肌の父は言った。

「試験を受けて、アルカディアにある唯一の大学、アカデメイアに入学することだ」

「アカデメイア?」

「うん、そこで学問をし、卒業時にさらに試験を受けて合格した者は、アルカディア自由市民となって、一生アルカディアで暮らせるんだ」

「アルカディア自由市民?」

「ああ、そうだ。メダリストあるいは入賞者になればアルカディア人にはなれる。だが、仕事を引退したら下界に降りねばならない。しかし、自由市民に引退はない。ずっとアルカディアで生活ができる。もちろん下界で生活することも可能だ。自由だからな」

「自由?働かずに遊んで暮らせるの?」

シロンは黒い目を丸くして父の顔を見上げた。

「うん、遊んで暮らすこともできる。アルカディアには下界にはない素晴らしい娯楽施設がたくさんあるそうだ。だが、遊ぶ以上に充実した人生を生きることが大切なんだ。シロンにはまだわからないだろう。アルカディアにはアゴラという広場があってそこで世界の政治を議論したり、哲学を論じ合ったりするんだ。いわば知の殿堂だ。アカデメイアではその知の殿堂に入るための勉強をするんだ。特に倫理の勉強をするんだ」

「倫理?」

「人の生きる道を考える学問だ」

「人の生きる道?」

「そうだ。アルカディアは別名『倫理の島』とも言われている。人はどう生きるべきか、それを答えることのできる人格が試験では試される。それは教科書には載っていない人の生きる道を自分で考え答える問題だ。そのためには勉強するだけではダメだ。良く生きることを日頃から考えていなければならない。お父さんは残念ながらアカデメイアには行けなかった。ネオ・アテネにあるリュケイオン大学を出た。リュケイオン大学はこのリカヴィトスの丘の下、コロナキ地区の南側にある大学だ。リュケイオン大学も名門であることに変わりはないが、アカデメイアに比べれば天と地ほども格の差がある。格だけではない。アカデメイアで学ぶ内容には下界では学べない秘密の知識があるらしい。例えば世界を統治するための知識、あるいは大変動が起きて空中都市に逃れた経緯、それからのアルカディアの歴史などだ。ほら、あの丘、パルテノン神殿があるアクロポリス、あそこはアカデメイアで学んで、ギリシャの行政官になった者がアルカディアの指令を受けて働いている神聖な場所だ。わたしは彼らの下で働く一般の役人に過ぎない」

シロンの父の眼はアクロポリスを見つめ、細められていた。

「シロン、おまえは学問を積み、人格を高め、アカデメイアに入学し、アルカディア自由市民になりなさい。おまえは将来、立派な大人になるんだ。結婚し家庭を持つ。もちろんアルカディアでだ。そうしたらお父さんとお母さんをアルカディアに呼んでくれればいい。家族でアルカディアに住もう。アルカディアはお父さんの夢だった。お父さんはその夢を叶えることができなかった。それをシロンに叶えて欲しいんだ」

シロンは笑顔で頷いた。
「うん、わかったよ。ぼくはいっぱい勉強してアルカディアに行くよ」

「勉強だけではダメだ。良く生きることを忘れるなよ」

「うん、わかった。ぼくは良く生きてアルカディアに行くよ」

 アルカディアからの空中列車が空を蛇行して下って来て、アクロポリスの高台に建つパルテノン神殿に横づけされた。

 

 

二、出会い

 

 九月から六歳のシロンは小学校で学ぶことになった。

 地殻の大変動、大洪水後の新世界では、アルカディア世界政府が決めた学制で小学校六年、中学校三年、これが義務教育で無償となっていた。そして、高校三年、大学四年、これが義務教育ではないが無償だ。つまり、誰もが大学まで進学することができる。ただし、高校からは必ず入学試験がある。それにより、学力の違いによって進学する学校が決まってしまう。優秀な子供の行く学校と優秀でない子供の行く学校とがある。

 シロンは家から近い、コロナキ小学校に入学した。コロナキ地区は父とアルカディアを見たリカヴィトスの丘の南麓にあり比較的裕福な家庭が多かった。

 

 

入学式、体育館で頭の禿げた還暦近い男性の校長が壇上にて話をしていた。壇上の校長の後ろにはAのマークのアルカディア世界政府の白地の旗が掛かっている。入学した児童たちはそれぞれ男子はワイシャツにネクタイを締め紺色の半ズボンを穿いて正装し、女子も紺色のスカートを穿き、白いシャツの襟にはリボンを巻くなどして正装していた。子供たちは真面目な顔をして立ったまま整列して校長の話を聴いていた。後ろの方では正装をした保護者たちが並んで聴いていた。

「今日から君たちは小学生です。いよいよ学問をするのが義務となりました。ここは、ネオ・アテネのほぼ中心、アクロポリスにも近い、それはほぼ世界の中心と言ってもいい。君たちは誇りを持って勉強して欲しい。旧世界は大変動によって海に沈みました。しかし、人類はアルカディアを空中に浮かべ、難を逃れました。それができたのも学問のおかげなのです。今、人類があるのは・・・」

 校長の演説中、新入生の列の中から騒ぎが持ち上がった。

 シロンは新入生をかき分け、その場に行ってみた。すると、長身の男の子が、小柄の男の子を組み伏せていた。

「何しやがる、どけよ」

組み伏せられた小柄な赤髪の男の子は言った。すると、組み伏せている長身の金髪の男の子は言った。

「この人に謝れ」

シロンが見ると、近くで金髪の女の子が泣いていた。小柄な赤髪の男の子は言った。

「なんで、俺が謝んなきゃいけないんだ?ブスって言っただけだろ」

「なにを!」

金髪の男の子は殴ろうとして腕を振り上げた。その手をシロンは掴んだ。

金髪の男の子は茶色の瞳をシロンに向けて言った。
「なんだ、放せよ」

「暴力はよくない」

シロンがそう言うと、組み伏せられた赤髪の男の子は言った。

「へへっ、そうだ、暴力はよくない」

「なにをっ!」

金髪の男の子が殴ろうと腕に力を入れるが、シロンがその腕を掴んでいる。

そこに若い男性教師たちがやってきた。
「いったい何をしているんだ。こら、やめなさい」

長身で金髪の男の子は立たされた。

「君、名前は?」

「ライオスです」

「ライオス君、なぜこの子を組み伏せた?」

「こいつが、この人を泣かせたからです」

横で泣いている金髪の女の子をライオスは指さした。

若い女性教師が女の子に声を掛けた。
「何かされたの?」

女の子は泣きながら言った。
「その赤い髪の子が、わたしのことをブスって言ったんです」

立ち上がった赤髪のそばかすのある男の子に女性教師は訊いた。
「そうなの?」

赤い髪の男の子は笑って言った。
「だって、ブスじゃないか」

女性教師は怒って言った。
「そんなこと言っていいと思ってるの?あなた名前は?」

赤髪の男の子は鼻を擦って言った。
「カルス」

男性教師はシロンのほうを見て言った。
「君は何をしたんだ?」

「ぼくはこの大きい子が赤髪の子を殴ろうとしていたのを止めただけです」

シロンがそう言うと、男性教師は泣いている女の子に訊いた。

「そうなのかい?」

「はい、そうです」

泣いている女の子は青い瞳から涙を流して言った。女性教師が女の子に名前を訊ねたので彼女は答えた。

「アイリスです」

シロンも名前を聞かれたため答えた。
「ぼくの名前はシロンです」

男性教師は言った。
「さあ君たち、元に戻るんだ」

 校長の話は再開された。

 

 

三、ホバーボード

 

 

 ホバーボードは地殻の大変動前の旧世界で言うとスケートボードに似ていて、というかほとんどスケートボードで、ただ、車輪がなく板だけが、地上数十センチの空中に浮いている。前部と後部が少し反っている板でファンやジェットエンジンが付いているわけではない。これは新世界の動力、「斥力せきりょく」を活かしたもので、スケートボードのように横向きに乗り、前の足を踏み込むとアクセルがかかり前進し、止まるときはスノーボードが雪の上でブレーキを掛けるように横向きに板の裏側を前に向けて空気の斥力で止まる。この乗り物は、まるで自転車のように気軽な移動手段として使われている。特に若者にはスポーツとして人気がある。また、公道でアクロバティックな動きをすることは禁じられているため、ボードパークのようなスポーツ施設がある。オリンピアの祭典の種目にもなっていて、八位以内に入賞すればアルカディアに行ける。

 

 

 カルスはホバーボードには自信があった。

「俺はホバーボードで金メダルを獲ってアルカディアに行く」

そう思っていた。だから、毎日、ホバーボードの技を磨くことだけを考えていた。カルスの両親も彼が学問で身を立てていくなど期待してなく、スポーツ選手として生きていくことを期待していた。

 

 

小学校に入学してからは、カルスとライオスは頻繁にケンカをした。いつもシロンが止めて終わっていた。ある日、カルスはライオスに決闘を申し込んできた。ホバーボードで勝負しろ、と。その場にシロンとアイリスが立ち会うことになった。

場所はエーゲ海に面しているトリトン海浜公園ボードパークの一部の砂浜だ。ブイの浮かんでいる海の上までがボードパークに含まれている。ホバーボードは海の上も滑ることができる。

 シロンとアイリスはホバーボードに乗ることがまだできなかったので、路面列車で海浜公園まで行った。ライオスもひとりでホバーボードで行くよりはこのふたりと行きたいと思って子供用のエンジ色のホバーボードを抱えて二両編成の路面列車に乗った。オレンジの街路樹が緑の葉を茂らせ続く道を東に向かった。三人とも保護者なしで路面列車に乗るのは初めてだった。海浜公園までは三十分かかる。途中、車窓から家々の向こうにオリーブ畑が広がっているのが見えた。ネオ・アテネは世界の首都でありながら少し足を延ばせば田園地帯に出ることができる。

 

 

 真っ白な砂浜。コバルトブルーの波静かなエーゲ海。砂浜の陸側の背後には松林がある。そして、松林の背後には広い駐車場がある。砂浜の北側には巨大なスタジアムがいくつも見える。南に目をやれば、白い砂浜は東に向かって弧を描くように延びていて、その先端には小さな白い灯台がある。

 他にも十代、二十代のホバーボーダーたちが砂浜を滑ったり海上を滑走したりしてホバーボードを楽しんでいる。ところどころに海で溺れた人を助けるライフセイバーが高い梯子の上の椅子に腰かけて看視している。

 

 

 カルスは言った。
「じゃあ、勝負はホバークラッシュで」

ライオスは言った。
「それは小学生には禁止されているだろ?」

カルスは笑って言った。
「怖いか?」

ライオスはカルスを睨んで言った。
「怖くない」

ホバークラッシュとはホバーボードの競技の一種で敵をホバーボードで踏みつけて倒すという荒っぽい競技だ。おそらく大衆には一番人気のあるスポーツだ。ライオスたち小学生には禁止されている。ライオスはてっきり子供にも認められているスピード勝負をするのかと思っていた。だが、もう引き下がれない。

青い瞳のアイリスは言った。
「やめようよ。危険だよ」

カルスは言った。
「女は黙ってろ」

アイリスはライオスの腕を掴んだ。
「ライオス、やめて」

ライオスはアイリスの腕を振りほどき、数歩進んで、砂の上にエンジ色のボードを置いた。

ホバーボードに乗るときはヘルメットを着けなければならないという決まりがあった。大人が路上を移動手段として滑走する際はヘルメットの着用は義務付けられていなかったが、中学生以下は路上でもヘルメットが義務付けられていた。ホバークラッシュをやる際は大人も防具を身につけるよう定められていた。

ライオスは言った。
「カルス、おまえもヘルメットを着けろ」

カルスは笑った。
「必要ないね」

ライオスは言った。
「死ぬぞ」

カルスはまた笑った。
「おまえがな」

ライオスはムッとした。ライオスがエンジ色のボードに乗るとボードは浮かび上がり、海に向かって滑り出した。カルスはニヤリと笑った。

「そう来なくっちゃ」

カルスも黒いボードに乗りそのあとを追った。ホバーボードに乗れないシロンとアイリスは浜辺でふたりの闘いを見るしかなかった。

 アイリスはシロンの左手を右手で握った。じっとりとしたその柔らかな彼女の右手の感触をシロンは感じ、顔が熱くなった。

 波のないコバルトブルーの海面に白とサファイアブルーの航跡の尾を引いてライオスは海上を滑走する。それに並行してカルスも滑る。そして、ふたりは間合いを図る。ライオスはボードの前部を左右に振り、カルスに向かって跳び上がる。この跳び上がる技をチックタックフライという。大洪水前の旧世界にあったスケートボードの技でチックタックというのがあるが、それは板の後部を踏み込んで前部を浮かし、そして、前部を左右のどちらかに振り地面に叩きつけて勢いをつけて前進するものだが、それと同じことをホバーボードでやると空中のかなり高いところまで跳び上がることができる。

 ライオスはそれをやった。六歳でそれができるのは相当なものだ。むろん十代のお兄さんお姉さんたちほど高くは跳べない。だが、同じ六歳相手にホバークラッシュするには充分な高さだった。いや、ライオスは充分だと思った。が、相手はカルスだった。カルスはライオス以上に高く跳んだ。そして、空中でふたりはぶつかった。カルスの黒いボードの裏面が、ライオスの顔面を捉えた。ライオスはヘルメットを着けていたとはいえホバーボードの裏面を顔面に受けてただで済むわけがなかった。ライオスはボードとともに海に落ちた。それを見たライフセイバーが、ホバーボードで現場に駆け付け、ライオスを助けた。ライオスは浜辺に引っ張って来られ、大量の海水を口から吐いた。

 ライフセイバーは言った。
「君たち、小学生だろ?ホバークラッシュなんてしたらダメじゃないか」

シロンとアイリスは謝った。その場にはすでにカルスの姿はなかった。

 帰りの路面列車内で、ぐっしょりと濡れたライオスは吊革につかまって悔しがっていた。
「ああ悔しい。あんなやつに負けるなんて」

青い瞳のアイリスは言った。
「仕方ないわよ。ホバークラッシュなんて大人のやるものでしょ?」

背の高いライオスは言った。
「ぼくたちもいつかは大人になるだろう?」

アイリスは言った。
「でも、まだ、子供でしょ?」

シロンが口を挟んだ。
「ライオス、ぼくにホバーボードを教えてくれないか?」

ライオスは快く答えた。
「おお、いいとも」

アイリスも言った。
「わたしも覚えたい」

「教えてやるよ」
ライオスは濡れた大きな体を揺らして笑った。

 路面列車は、緑の葉を茂らせているオレンジの街路樹が続く道を西へ、ネオ・アテネの中心に向かっていた。

 

 

 その夜、シロンは父親にホバーボードをねだった。シロンの家はコロナキ地区にある四階建てマンションの三階にある。

「お父さん、ホバーボードを買ってよ」

父親は言った。
「どうした急に?」

「ぼくはもう小学生だ。ホバーボードくらい覚えなくちゃ。友達はみんな持ってるよ」

父は笑った。
「みんなって誰のことだ?」

シロンは困った。
「え、ええと、ライオスとカルスとアイリスと・・・」

父は笑って言った。
「買ってやるよ。今度の日曜日にスポーツ店に行こう。ただし、ホバーボードに夢中になって学問をおろそかにしたらすぐ、ホバーボードは没収する、いいな」

「うん、わかったよ」

 

 

 男の子シロン、女の子アイリス、男の子ライオスはトリトン海浜公園のボードパークにいた。トリトン海浜公園は広い公園で、その中にオリンピアの祭典で使われる競技場がいくつもある。その中のひとつにボードパークがあり、このボードパークにはスピードを競うトラックとホバークラッシュの闘技場がある。そのボードパークの一部にある砂浜でライオスコーチによるホバーボードの練習会だ。シロンは黄色のホバーボードを持っている。アイリスは桃色のホバーボードだ。

 ライオスは言った。
「足の置き方だけど、ぼくは左足を前に置く。右を前にする人もいるけど左が一般的だと思う」

 シロンとアイリスはボードの上に左足を置いた。そして、右足を置いた。両足を置くと斥力が働き、浮かび上がる。ボードは数十センチ宙に浮いている。乗っているだけでフラフラする。大地を踏ん張ることができない。

ライオスは言った。
「そして、前の足、左足を踏み込むと前に進む」

アイリスは左足をゆっくりと踏み込んだ。ホバーボードは前にゆっくりと進んだ。
「やった。うわ、すごい、進んだわ」

シロンは左足を強く踏み込んでみた。すると、海に向かって急発進した。
「うわー!」

ライオスは言った。
「あ、バカ、まだ、止め方を教えてないだろ」

シロンは黒髪に風を受けて海の上を滑った。
「すごい、速い、速いぞ。ぼくは初めてなのにもうホバーボードを乗りこなしてる」

シロンは白とサファイアブルーの航跡を引いてどんどん陸地を離れていく。ライオスは呆れた。

「あいつ、初めてのくせにあそこまで速くスピードが出せるなんて、天才か?でも、止め方を知らないだろ」

シロンはまっすぐ沖へ突き進む。シロンは気づいた。
「どうやって曲がる?どうやって減速する?」

そして、そのまま、沖へ進みボードパークと外海の境界線であるブイの外へ出てしまった。そこで転んで、ライフセイバー出動。

 

 

 気づいたときには浜辺に寝ていた。

 ライフセイバーが去って行くのがシロンにはわかった。

背の高いライオスは寝ているシロンを見下ろして言った。
「止め方を教えてないのに、あんなにスピードを出すなよ」

シロンは起き上がって笑った。
「出ちゃったんだもん」

だが、ライオスはこうも言った。
「あの加速は天才的だぞ」

シロンは喜んだ。
「そ、そうか?」

ライオスは言った。
「でも、止まり方を知ってから出せよ」

「ごめん」

アイリスは言った。
「じゃあ、ライオス、止まり方を教えて」

「ああ、サイドスリップブレーキって言うんだけど、止まるときに板を横にして裏面を前に向けて空気の斥力で止まるんだ。じゃあ、お手本を見せるね」

ライオスは浜辺を滑り出した。そして、遠くまで行ってUターンして戻って来て、スノーボーダーが雪でブレーキを掛けるようにして、空気の斥力を使って止まった。

 さっそく、アイリスはやってみた。Uターンができないので直進して止まろうとしたら転んでしまった。

シロンもサイドスリップブレーキをやってみた。一発で完璧にできた。

「天才か?」
ライオスは呆れた。

 シロンはUターンもやってみた。完璧にできた。
「ライオス、楽しいな、ホバーボード」

黒い瞳のシロンは笑顔だった。浜も海もシロンは滑りまくった。

 アイリスも少しずつ覚えていった。

 あまりに上達の速いシロンに対してライオスはチックタックフライを教えてみることにした。

「後部を踏み込んで前部を上げる。そして、前部を左右のどちらかに振りながら踏み込む。右に踏み込んだら次は左、それを繰り返す」

シロンは言われた通りにやった。海上でそれをやったら、十メートルほど駆け上がることができた。ライオスは呆れた。

「六歳で十メートル?プロでも二十メートルが限界と言われているのに、六歳で、しかも初めてで十メートル?天才だよ、こいつは」

 

 

四、リカヴィトスの丘

 

 シロンたちは十歳になった。

 この年の夏はネオ・アテネの上空にアルカディアが来るオリンピアの祭典がある。

 まだ十歳のシロンたちには関係なかったが、シロンとアイリスとライオスは将来アルカディアを目指していたから三人でリカヴィトスの丘へアルカディアを見に行った。

 青空の中にアルカディアが浮いている。アルカディアの下部にはたくさんの黒い高層ビルが氷柱つららのように下向きに建っている。高層ビルは最高でも五十階建て程度だ。高層ビル群を縫うようにして道が幾重にも交差しているのが見える。その上を自動車が走っていたり、歩行者が歩いていたりするのだとシロンたちは聞いていた。角度によっては、上部の白い神殿のような建物も見える。その上部の神殿のような建物こそ理想郷であるアルカディアの建物であり、その建築群の町として旧世界の古代ギリシャのような世界があるのだという。旧世界の人々はその科学力で空中高くに気圧や気温など気候がほとんど下界と変わらない島を作り上げたのだ。

 白いティシャツと青いジーパンを穿いた少年シロンはアルカディアを見つめて言った。

「あそこにはアカデメイアという大学があるんだ。その入学試験に受かればぼくたちはアルカディア人だ」

金髪で青い瞳の少女アイリスが言った。

「アカデメイアに行くだけではダメよ。それでは永住権は獲得できない。アカデメイアで四年間勉強して卒業してから自由市民になる試験に合格しなければ永住権は取ることができないのよ」

金髪を後ろに縛った背の高い少年ライオスは感心した。

「ふ~ん、そうなのか」

シロンは言った。
「ぼくだってそのくらいは知ってたさ。お父さんに教えてもらった。ぼくのお父さんはアカデメイアに行けなかった人間だ。でも、アイリスのお父さんはアカデメイアに行けたんだろ?」

桃色のティシャツに水色の短パンを穿いて、革のサンダルを履いているアイリスは頷いた。

「うん、でも、自由市民になれず、下界に降りてアクロポリスの役人になってる。アカデメイアを卒業して自由市民の受験資格を得たけど、三十歳までに合格しないと下界へ降ろされるの。わたしのお父さんはそれ」

「じゃあ、アルカディアに生まれた人はどうなるんだろう?」
と背の高いライオスは首をひねった。

アイリスは言った。
「自由市民の子供は自動的にアカデメイアに入学できる。でも、三十歳までに自由市民の試験に合格しなければやっぱり下界へ降ろされる」

ライオスは言った。
「ぼくは親から聞いたんだけど、アルカディアには自由市民だけじゃなくていろんな職業の一流の人たちも住んでいるんだよな」

アイリスは言った。
「一流の専門職の人たちなどの特別居住者は、アルカディアの裏側、下部に住むことになるの。あの高層ビルがニョキニョキ下向きに生えている所。上側つまり上部には自由市民しか居住が許されていない。もっとも、家政婦など自由市民の生活を支える職業の人は上部に住んでいるという話だけどね」

シロンはアルカディアを見て言った。
「ぼくは絶対にアルカディア人になる。空に浮いた島に住んでみたい。空中に浮いた島に住むってどんな感覚なんだろう。ぼくはホバーボードには乗ってるけど空を飛んだことはない。空中列車だけでも乗ってみたい。アルカディアは都市ごと浮いてるんだ、すごいよ。あそこは理想郷なんだよな」

アイリスは言った。
「わたしも絶対、アルカディアに行きたい。この世のものとは思えない美しい楽園を見てみたい。アルカディアの写真を撮って下界に持って来ることは禁じられているから、お父さんはその景色を絵に描いてわたしに見せてくれたの。白亜の建物。パンテオン。円形闘技場。劇場。凱旋門。アゴラ・・・。緑に覆われた古代遺跡のような天空の庭園。そして白いピラミッド・・・。シロンとライオスは学問でアルカディアに行こうと思うの?それとも何か特技で?」

シロンは答えた。
「学問だよ。ぼくにはそれしか考えられない。自由市民になるんだ。それがぼくの志だ」

アイリスは笑顔で言った。
「わたしとおんなじだ。わたしも学問でアカデメイアに入学して学びたいの。わたしのお父さんは残念ながら自由市民にはなれなくて、アクロポリスで働いているけど、わたしは自由市民になりたいの」

背の高いライオスは言った。
「アイリスはお嬢さんだね。父親がアカデメイアを出てるなんて。それに比べたら、ぼくの両親なんか、下界の大学を出た役人だよ」

シロンは言った。
「ライオス、それを言ったらおしまいだろ?ぼくのお父さんもリュケイオン大学を出てる一般の役人だよ」

少女アイリスは言った。
「ねえ、将来、三人でリュケイオン高校を受けてみない?」

「え?」

リュケイオン高校はコロナキ地区の南側にある。

「リュケイオンがアカデメイアへの合格率が一番高いから」
とアイリスは笑顔で言った。

シロンは頷いた。
「ぼくのお父さんもコロナキ中学、リュケイオン高校と進んで、アカデメイアに行けず、リュケイオン大学へ行ってる」

ライオスは言った。
「リュケイオン高校か。難関校だな」

アイリスは言った。
「わたしたちも将来、受けてみようよ。わたしたちなら行けるよ」

「リュケイオンに?」

「アルカディアに!」

 

 

  

第二章  オリンピアの祭典


 

一、   コロナキ中学

 

 シロン、アイリス、ライオス、カルスの四人はコロナキ中学に入学した。

 中学にはクラブ活動があり、シロンとライオスはホバーボード部に入部した。カルスは入部しなかった。アイリスは音楽部に入部した。アイリスはピアノが上手だった。

 アイリスの家は一戸建てで芝生の庭がある。広い部屋にグランドピアノがあり、彼女は毎日、古典音楽を演奏していた。シロンとライオスはよく、彼女の家でその演奏を聴いたものだ。

 古典音楽とはいえ、それは大変動後の新世界のものだった。大変動前の旧世界の音楽は伝わっていない。伝わっているのはアルカディアにおいてだと言われていた。ちなみに新世界にはレコードという物がない。音を保存する機械は作られていない。ラジオもテレビもない。ついでに言うと、映画もパソコンも電話もない。写真はある。新聞もある。新聞と書物が世界への窓だった。なぜ、それほど旧世界のメディアがなくなったのかは、知られていない。人々はそんな物の存在すら知らない。もっともアルカディアにはあるかもしれなかった。が、アカデメイアで学んだ経験のあるアイリスの父によると、旧世界の楽譜や美術品は博物館に保管されてあるが、それを持ち出すことは固く禁じられていた。ラジオ、テレビ、映画、パソコン、電話、レコードなどは、そもそもその存在を人々が知らないために、「ない」などと言うことすらできなかった。少女アイリスは心が弾んだ。

「旧世界の楽譜を読んでみたい。そして、演奏してみたい。旧世界の美術品を見てみたい」

 

 

 中学になると、教師たちが校則をうるさく言うようになってきた。

 コロナキ中学には、制服というものはなかったが、白のワイシャツ、男子のズボンはスラックス、女子はスカートかスラックス、靴の色は白、などと決まっていた。

 シロン、ライオス、アイリスはその規則を守っていたが、カルスは守らなかった。白いワイシャツは着て来たが、シャツの裾はズボンに入れず、ズボンは破れた部分のあるジーンズを穿いて来ていた。そのため、教師にいつも指導されていた。

 シロンはカルスに言った。
「なぜ、規則を守らないんだ?」

カルスは笑った。
「なぜ、おまえは規則を守るんだ?大人の言うことを素直に聞くなんてバカみたいじゃないか?」

「規則を破って、いちいち教師に叱られる方がバカみたいだぞ」

「おまえはバカだ」

「それに、アルカディアに行きたかったら、校則は守るべきだぞ。素行面の審査もあるそうだからな。アルカディアは倫理の島だ」

「アルカディアには自由があるのかな?」

「あるだろう、自由市民なんてものがいるくらいだ」

「でも、下界でこんなに不自由なんだから、アルカディアも不自由じゃないのかな」

「じゃあ、おまえはアルカディアに行きたくないのか?」

「行きたい。もちろんホバーボードで。俺にとってアルカディアは栄光そのものだ。でも自由がなければ意味はない」

「アルカディアには自由市民がいるだろう?」

「学問のできない俺には自由市民になれる見込みはない。それに自由市民って本当に自由なのか?倫理ってなんだ?」

「それを学ぶ所が学校じゃないか。学校の規則くらい守れないようじゃアルカディアには行けないぜ」

「だから、俺は自由市民にはならないって言ってるだろ。ホバーボードの実力で金メダルを獲ってやるんだ」

 

 

 そして、中学二年生から三年生になる夏、ネオ・アテネの上空にアルカディアが来た。つまり、オリンピアの祭典の年だ。十四歳のシロンとライオスとカルスはホバーボードのジュニアの部に出ることが決まっていた。一般の部には十八歳以上の年齢制限がある。ジュニアの部は十四歳以上十八歳未満と年齢制限がある。

 各国代表に三人が選ばれた。ジュニアの部ギリシャ代表は、シロン、ライオス、そしてカルス。一般の部では金銀銅のメダルを貰う表彰台に上がればもちろんだが、八位入賞までアルカディアに行くことができる。もちろんジュニアの部では優勝してもアルカディアには行けない。しかし、ジュニアの部でも世界一は世界一だ。優勝すれば自信になるだろう。シロンもライオスも燃えていた。カルスとは小学生時代よくケンカしたものだった。ケンカはたいてい殴り合いだった。体格がほぼ等しいシロンとカルスがケンカをすると互角の力だったが、背の高いライオスは必ずカルスに勝った。その度に、カルスは言ったものだった。

「おまえなんか、ホバークラッシュで勝負したら俺に負けるんだからな」

ライオスは言い返した。
「いつのことだよ」

ホバーボードは先にスピードレースがあり、選手たちが市街地の決められたコースを滑走する。一番早くゴールに辿り着いた者が金メダルだ。

そのレースが終わると、ホバークラッシュがある。これはトリトン海浜公園にあるボードパークの中にある闘技場で行われる。

 

 

「俺はホバークラッシュには出ない」
と言ったのはシロンだ。

開会式のときに横にいたライオスは訊いた。
「なぜ?」

シロンは答えた。
「人を踏みつけるのは好きじゃないから」

ジュニアの部ギリシャ代表は、シロン、ライオス、カルスの三人だが、これは予選のトラック十周のタイムで上位三名を選ぶという単純な決め方だった。その結果はシロンが一位、カルスが二位、ライオスが三位だった。この三人が他の国々の代表選手とスピードを競ったあと、ホバークラッシュをやるのだが、シロンはホバークラッシュを棄権すると言う。

それを聞きつけたカルスはシロンを冷やかした。
「踏みつけるのが嫌じゃなくて、踏みつけられるのが嫌なんだろ?臆病者」

「なんとでも言えばいいよ。とにかく俺は出ない」

シロンは頑固だ。

 

 

二、   ホバースピード

 

 スピードレースはトリトン海浜公園のボードパークをスタートし、アクロポリス周囲の市街地を滑走してまたトリトン海浜公園のボードパークに戻って来るというコースだ。レースの日は市街地の交通が制限される。沿道の建物の窓には多くの観客が集まる。市街地には多くの障害物がある。街路樹、街灯、信号機、キオスク、駐車中の自動車やホバーバイク、カフェテラスのテーブルや椅子やパラソル(これらはわざと置かれてある)、など、それらをかわして滑走する。

 一般の部の前に、ジュニアの部のレースがある。

 シロン、ライオス、カルスたち約五十人の十四歳以上十八歳未満の少年たちはスタート地点に着いた。シロンは自分の黄色のホバーボードに乗った。ライオスはエンジ色のボード、カルスは黒いボードに乗った。もう、三人とも子供用のボードではなく大人用のボードに買い替えてある。

 ところで、この大変動後の新世界にはピストルという物はない。銃火器は存在しない。だから、スタートはピストルの合図ではなくホイッスルだ。

 そのホイッスルが今鳴った。

 十四歳以上十八歳未満の少年たちはボードの前部を踏み込んで発進した。

 シロンが一番に飛び出した。

「さすが、シロンだな」
ライオスは苦笑して二番手につけた。そのあとをカルスが追う。

 ギリシャ勢三人の先頭争いに沿道の市民は沸く。

 海浜公園を出て田園地帯を滑走する。市街地に入る。駐車中の自動車や街灯を避ける。カフェテラスの屋根の下を身をかがめて滑走する。シロンはずっと一位をキープする。二位をライオスとカルスが争う。その後ろを、ドイツ人の何某とシリア人の何某、チュニジア人の何某が追い越し追い越され虎視眈々とギリシャ勢の疲労を待つ。ちなみにドイツはギリシャの北方の山のさらに北にある国だ。また、シリアはアラビア半島に似た土地の地中海に近い内陸にある。チュニジアは北アフリカにあるのだが、そもそもアフリカ大陸は旧世界とは全く違う。砂漠はほとんどなく密林と草原が広がっている。チュニジアのことをカルタゴと呼ぶ者もいる。

 リカヴィトスの丘を右、アクロポリスのパルテノン神殿を左に見てコロナキ界隈を滑る。そして、オモニア地区へと向かう。

 カルスは加速する。ライオスを突き放して、シロンの背後につける。

 市街には障害物が多い。

 シロンはカフェテラスのテーブルを飛び越える。そのテーブルが倒れ、後続のカルスの前に転がる。カルスはボードの後ろに一旦体重をかけ前を浮かし、それから前を踏み込んで空中に駆け上がるいわゆるチックタックフライで空中に逃れ、また路上に降りて滑走する。ライオスは跳び上がらず、テーブルを左右に避ける。

 大きな急カーブがあり、そのカーブではどの選手も、外側のレンガ造りの四階建ての建物の壁にボードを押し付けて、曲がってから路上に体勢を立て直す。そのため、あまり集団で固まって滑っていると転倒者が続出する。

 シロンは相変わらず一位だ。

カルスはわめいた。
「なんで、あいつはあんなに速いんだよ」

ライオスが後ろから言った。
「あいつは天才だ。親友の俺だって悔しいくらいだ」

「ちっ」

カルスはライオスの進路を妨害する。

ライオスは言った。
「危ないな」

「それがレースだ」
カルスは笑った。

ライオスは言った。
「おまえ、二位争いで悔しくないのか?ほら、前にいるのは誰だ?シロンだろ?」

「うるせえ。俺はあいつやおまえが大っ嫌いだ」

「なぜだ」
ライオスは訊いた。

カルスは答えた。
「なぜかムカつくんだよ。勉強ができる奴は勉強だけしてればいいんだ。スポーツまで手を出すな」

背の高いライオスは黙った。減速した。だが、ハッと気づいてまた加速した。いつのまにか四位になっていた。三位にはドイツ人の何某が滑っていた。

カルスはなんとかシロンの後ろにつけた。
「シロン、勝負だ」

シロンは答えた。
「おもしろい、来い!」

シロンはチックタックフライで空中高く跳び上がった。

「あっ」

カルスが言ったときにはシロンは空中二十メートルを滑っていた。しかし、路上を行くカルスのほうが速い。

「バカめ」
カルスはニヤリと笑って一位に躍り出た。

 が、次の瞬間。

シロンは上空からもの凄い速さで坂道を下るようにして路上に降りた。地球の引力とホバーボードの斥力がうまく噛み合って落下スピードと大地に反発する力が大きな推進力となった。いつのまにかシロンはカルスの五十メートル前を滑っていた。

 レースが終わってみると、シロンが一位、二位はカルス、三位はライオスだった。

浜辺の会場ではレースを終えた選手たちが家族や友人から祝福やねぎらいや慰めを受けている。背の高いライオスがシロンを祝福した。

「おまえが世界一だ」

シロンは笑った。
「ジュニアのな」

そこへアイリスが駆け寄ってきた。
「シロン、おめでとう。さすがね」

「ああ、ありがとう。世界一か。病みつきになりそうだ」
シロンは本当に嬉しそうだった。

ライオスは言った。
「世界一の味わいか、羨ましいな」

そこへカルスが来た。
「シロン、今日は負けたけど、ホバークラッシュでは・・・」

「だから俺は棄権するよ」

「怖いのか?」

と言うカルスにシロンは言った。

「俺とレースを戦ってみて、本当にそう思うか?」

「くっ」
カルスは何も言えず、離れて行った。そして、振り返った。
「やーい、臆病者のシロン。世界一の臆病者!」

カルスは表彰式会場のほうに逃げて行った。

アイリスは呆れて言った。
「子供ね」

 

 

三、   ホバークラッシュ

 

 ホバークラッシュの闘技場はトリトン海浜公園の砂浜近くにある。すり鉢状の観客席があり、その底にさらに傾斜の急な円形すり鉢状の斜面と中央に円形の平らなリンクがある。すり鉢の傾斜は観客席の最前列の手前で垂直にそそり立っている。

 ジュニアの部は、予選では各組十人が同時に滑走し、最後までダウンしなかった者が勝ち残り、他の組で勝ち残った者たちと五人で決勝を戦う。

 ライオスとカルスは決勝に進んだ。他の三名は、イタリア人の何某、シリア人の何某、ドイツ人の何某。ちなみにイタリア半島はギリシャ半島より小さくその南端にネオ・ローマがある。シチリア島は大きな島ではなく、小島にその名が付けられているに過ぎない。

 シロンとアイリスは観客席で試合が始まるのを待っていた。

 すり鉢状のリンクにはまだ選手は出て来ない。観客席には次に行われるアルカディアを賭けた一般の部の決勝を見るために観客が集まっている。

 ホイッスルが鳴った。

 ヘルメットを被り肘と膝に防具を着けた選手たちが闘技場の隅にある入場口からすり鉢状のリンクに出た。カルスがまず飛ばして、さっそく金髪で長身のドイツ人の何某に仕掛けた。すり鉢の斜面を滑走するドイツ人はカルスの後ろを滑っていたがカルスはチックタックフライで空中高く跳び上がりその下を滑り抜けるドイツ人の何某に対して後方上空から一撃を加えた。ヘルメットの後頭部にカルスのボードの裏がクラッシュした。ドイツ人は倒れ、すり鉢の底へ滑り落ちた。このホバークラッシュ、板から落ちたら負けだ。すぐに担架が出てドイツ人は運ばれ退場した。

 ライオスは、その間、シリア人の何某とイタリア人の何某に追われていた。

 ふたりに追われる背の高いライオスはフルスピードで逃げて機会をうかがっていた。が、追跡するふたりにもうひとり選手が加わった。ドイツ人を倒したカルスだ。カルスとシリア人とイタリア人はアイコンタクトで意思を確かめ、ニヤリと笑い、並んでライオスを追い駆けた。が、その途中、突然カルスはシリア人の何某を側面から攻撃し倒した。シリア人は派手に転がり、すり鉢の底部に滑り落ちた。

 イタリア人は言った。
「卑怯な!」

カルスは笑った。
「は、卑怯?これがホバークラッシュだろ?」

イタリア人のあとをカルスが追った。ライオスはすり鉢のかなり遠くを滑走している。

 イタリア人は空中にチックタックフライで跳び上がり、カルスを攻撃しようとした。が、カルスは突然向きを変え、すり鉢状の斜面に停止した。斜面に停止するのは難しい技術が要る。イタリア人は攻撃対象のカルスが止まっているため、無人の場所に降りざるを得ない。イタリア人が上空から降りて来るのを悠然と待ってカルスは降りて来たところを攻撃した。イタリア人は転倒しノックアウトとなった。

 さあ、あとはライオス対カルスの一騎打ち。

赤髪でそばかすのあるカルスは言った。
「ライオス、いつかのように、ぶっ潰してやるよ」

金髪をなびかせるライオスは笑った。
「おもしろい!」

ライオスのあとをカルスが追った。ライオスは速度を上げた。すり鉢の中を縦横無尽に滑走した。

カルスは言った。
「ライオス。アイリスはかわいいよな?」

「は?」

「おまえ、アイリスとシロンがいい仲だって知ってるか?」

「なに?」

一瞬、ライオスは減速した。そこをカルスは見逃さなかった。カルスは後方からボードの裏面をライオスのふくらはぎへ当てた。ライオスはバランスを崩し、ボードから落下した。この瞬間、カルスの優勝が決まった。結果としてカルスが他の四人をひとりで倒したことになる。カルスの圧勝だった。

 ちなみにこの競技、一般の部では十名で決勝を戦う。金メダルは当然勝ち残った者の物だが、一般の部では判定でアルカディア行きが決まる。判定はアルカディアに行くための八名の不正な結託を防ぐため予選の活躍も考慮に入れる。つまり、メダリストになってもアルカディアに行けるかどうかはわからない。審査の結果、上位八名がアルカディアに行ける。ただし、ジュニアの部と違って、参加できる競技はひとりひとつと決まっている。ホバーボードの競技はスピードレースもある。カルスは当然、シロンはスピードレースを目指していて、ライオスはホバークラッシュを目指しているものと思った。

 

 

 ライオスはその夜、茶色の瞳を天井へ向けベッドの中で考えた。

「俺はカルスの言葉に負けた。あの瞬間、俺はシロンに嫉妬した。シロンとアイリスがいい仲?俺たちはいつも三人だ。あのふたりだけが特別な関係?俺は疑っているのか?俺はアイリスのことが・・・?いや、俺たちは友達だ。それとも俺はアイリスに恋しているのか?彼女を独り占めしたいのか?そんなことは考えたこともなかった。アイリスは抜群に勉強ができる。人格も優れている。アカデメイアに行けるだろう。シロンもそれに次ぐほどに勉強ができるし、人格も悪くない。だが、俺はあいつらと比べると少し勉強ができない。それはわずかな差だ。わずかだが、アカデメイアに行けるかどうかには決定的な差だ。その差を争って世界中から受験者がこのネオ・アテネに集まるんだ。もし、シロンとアイリスがアカデメイアに合格し、俺だけが不合格になったら、あのふたりはアルカディアで・・・。バカな、何を考えているんだ」

ライオスは眠れなかった。

 ライオスは朝方、自分のパンツが濡れているのに気づいて、早くに起きた。夢で見たことを思い出そうとした。女の裸が出てきた夢だった。それはアイリスのようでもあったし、他の女でもあったような気がした。ゆらゆらとイメージが変転し、そのあと、全身に快感が溢れかえったような感覚に襲われ、目覚めて見るとパンツが濡れていた。

 こんなことは前からあった。決まってアイリスが登場した。学校で毎日会っているため、金髪で青い瞳のアイリスはあまりに近い存在だった。彼女はライオスの心の中に深く根を下ろしていた。もちろん、シロンもライオスの心の中では重要な存在だった。なくてはならない友だった。

だが、あのひと言、カルスの言葉。

「アイリスとシロンがいい仲だって知ってるか?」

三人は、小学校の入学式のあの日からずっと親友だった。だが、カルスはホバークラッシュの試合中、その友情にメスを入れた。メスとは疑いのことだ。ライオスはアイリスのことを恋の対象として意識した。そうなるとシロンの存在は脅威だった。

 

 

 九月、三人はコロナキ中学三年生になった。

晴れた新学期初日にライオスが登校すると、他の生徒が大勢いる教室でアイリスとシロンが話をしていた。

「よう、おはよう、ライオス」
とシロンが言った。

「おう、おはよう」

「おはよう、ライオス」

と少女アイリスが言うと、ライオスは答えた。

「お、おう、おはよう」

アイリスは笑った。
「なに?ライオス。なにどもってんのよ」

ライオスは言った。
「ど、吃ってなんかないよ」

シロンは笑った。
「吃ってるじゃんか」

「笑うなよ」
ライオスはシロンに鋭い目を向けた。

シロンは言った。
「なんか怖いぞ。どうしたんだ、ライオス」

「どうもしてない」

とライオスは言うと、アイリスが笑って言った。

「わかった、なにか青春の悩みがあるのよ、ライオスは」

「恋か?」
シロンはニヤリと笑った。

ライオスは即答した。
「ちがう」

三人がそう話している教室へ下級生の黒髪で背の低い女子がひとり入ってきた。

「シロン先輩!」

「え?」

シロンにはその下級生女子が誰なのかわからなかった。

「シロン先輩、世界一おめでとうございます」

シロンは答えた。
「あ、ああ、ありがとう」

その背の低い女子は言った。

「わたし、あのレースを見てからシロン先輩のファンになりました」

シロンは驚いた。
「俺のファン?」

「わたし、マリシカっていいます。わたしをホバーボード部の女子マネージャーにさせてくれませんか?」

「え?」
シロンは当惑した。

「それは俺に訊かれても困るな。顧問に言ってくれないと」

背の低いマリシカは言う。
「シロン先輩は、わたしがマネージャーになるのは嫌ではないんですか?」

シロンは困った。中学のホバーボード部にマネージャーはいない。

「いいんじゃないか?なあ、ライオス」

ライオスはいきなり訊かれ、答えに困った。そして言った。
「俺は別にかまわないよ」

ライオスはそう言ったとき、「そうだ、このマリシカという子とシロンがくっつけば、俺とアイリスが・・・。バカな!何を考えた!俺は最低だ!」と思い、ライオスは自分が嫌になった。

 

 

四、   マリシカ

 

 マリシカがマネージャーになってからしばらくたったある日、学校の裏でカルスと他数名の不良少年たち五人が、彼女を囲んでいた。

 カルスが言った。
「いいだろ?パンツの写真を撮るだけなんだ」

「やめてください」
内気なマリシカはぶるぶる震えて、小さな声で言った。

カルスはいやらしい顔をして言う。
「写真が売れればその売り上げの一部をあんたに払うぜ」

マリシカは震えて言った。
「やめてください」

カルスはスカートに手を入れた。そのとき。

「やめろ!」

校舎の表から声を掛けた少年がいた。

 カルスは振り向いた。
「ライオス」

ライオスは言った。
「おまえら、その子から離れろ、消えろ、さもないと俺がボコボコにするぞ」

カルスは言った。
「人数見てもの言えよ。ホバーボードもないくせに」

それでもライオスは近づいて来た。

 ケンカが始まった。ライオスは傷だらけになりながら、五人と戦った。ほとんど打ちのめされた。しかし、何度も立ち上がった。

マリシカは泣いて言った。
「ライオス先輩・・・!」

ライオスはマリシカの前に立って言った。
「この子に手を出すな。不良ども、去れ」

カルスは言った。
「不良か・・・。この真面目野郎が、おまえもポルノ写真くらい見るんだろ?その撮影を邪魔すんじゃねえよ」

ライオスは言った。
「俺はそんなものは見ない。俺は倫理の島アルカディアに行くんだ。清廉潔白な人間として生きるんだ」

そのとき、表から大人の男性の声が聞こえた。
「コラー!そこで何してる!」

カルスは舌打ちした。
「ちっ、先公だ。おい、みんな、逃げるぞ」

カルスは子分を連れて逃げてしまった。

 男性教師はマリシカとライオスの所へ来て言った。
「きみ、大丈夫か?」

ライオスは笑って言った。
「大丈夫です、ぼくは。それよりこの子のほうがよっぽど怖い目に遭っています」

教師はマリシカに言った。
「何があったんだい?」

マリシカは言った。
「上級生の男子たちが、わたしのパンツの写真を撮ろうとして・・・そしたら、このライオス先輩が助けに来てくれたんです」

教師はライオスを保健室に連れて行き、マリシカを家まで車で送った。

 

 

五、   アイリスの絵

 

 シロン、アイリス、ライオスの三人はリュケイオン高校に進学した。カルスは高校に進学しなかった。

 

 

 アイリスの芸術の才能は素晴らしかった。ピアノは聴く者の心を酔わせるプロ顔負けの技術があったし、絵も幼い頃からよく描いていて、コンクールなどで入賞すること度々だった。

 アイリスは牧歌的な風景画を描いた。その絵を見た者は必ず、この世に悪徳などという物がないかのような感覚に浸ることができた。アイリス曰く、その風景はアルカディアの風景を想像して描いたものだ。シロンもライオスも、アルカディアが理想郷だとしたらこんな風なのだろうな、と思った。

 

 

 シロン、アイリス、ライオスは高校に入ると三年後のアカデメイアの受験のための勉強を始めた。

校内の試験ではアイリスは常に一位を取るという成績を残すようになった。そして、シロンは常に校内ではアイリスに次ぐ二位だった。ライオスはというとふたりの成績と比べ、大きく後退し、五十位の前後を彷徨うようになった。

 そして、二年生になると、ライオスは学問でアルカディアに行くのは難しいのではないかと自己評価するようになった。

「俺はホバーボードでアルカディアを目指すよ」

とライオスが言うと、シロンは、

「自由市民は諦めるのか?」

と言った。ライオスは答えた。

「俺はおまえやアイリスに比べ勉強ができない。ここは早く見切りをつけて、ホバーボードに打ち込むべきだと思うんだ。決断のときだ」

 ライオスは悔しかった。幼い頃から、仲良く育ってきた三人で共にアカデメイアで学びたかった。だが、人生には諦めねばならないときがある、執着は身を亡ぼす、とライオスは考えた。それにホバーボードには自信があった。カルスというライバルがいるが、世界で八位入賞すればアルカディアに行ける。そして、少なくとも引退するまではアルカディアでホバーボードの選手として活躍できるのだ。あるいは指導者としてアルカディアに残る道もあるかもしれない。ライオスは学問よりもホバーボードを愛した。一流の人間になるには、不得意な部分を埋める努力をするより、強みを伸ばすことが大切だと思っていた。シロンの場合、学問とホバーボードの両方が強みというのがライオスには羨ましかった。だが、シロンは学問でアルカディアに行くか、ホバーボードで行くかを選択しなければならない。それは世界政府アルカディアの法律で決まっていることだ。アルカディアへの挑戦権はひとつの種目に絞らねばならない。

 ライオスはシロンに訊いた。
「やっぱり、おまえは学問で行くのか?」

シロンは答えた。
「ああ、それは昔から決めていたことだ」

「そうか」

 一方アイリスは、学問で校内一の成績を修めているのと並行して、趣味で絵画もピアノも楽しんでいた。シロンも勉強に励む時間を増やしたが、ホバーボードをやることは忘れなかった。

 

 

 高校三年生になった頃、シロンが学校から家に帰ると彼の所に一通の封筒が届いていた。シロンは部屋に入って、その封筒を開けてみた。

 すると一枚の知らない若い女の写真が出て来た。女は裸だった。

 シロンはゾッとした。あきらかにポルノ写真だった。アルカディア世界政府の法律ではポルノは禁じられている。所持しているだけで処罰される。誰がこんなものを自分に送ったのだろうと思ったが、差出人の名は封筒にも写真にも書かれていなかった。

 シロンは当然捨てようと思った。が、どこに捨てたらいいのかわからなかった。ゴミ箱に捨てたら、誰かに見つかるだろう。シロンはどこかのどぶ川に捨てることにした。しかし、そこで好奇心が出た。

「どうせ捨てるならば・・・」

シロンは自分の部屋でその写真をもう一度見た。女の裸の写真など初めてだった。高校生のシロンには抑えられない興奮があった。股間に手をやるとそれは硬くなっていた。触っただけでもう中から溢れて来た。シロンは写真の女に敗北した。

「ああ、俺はダメな男だ。いや、これを送った奴は俺を堕落させようとしているのか?」

シロンはこっそりその写真をズボンのポケットに忍ばせ、家を出た。そして、ホバーボードに乗って知り合いのいない遠くにある人の眼のつかないどぶ川まで行って、写真を破って捨てた。

 そのことがあってから、シロンの網膜にはあの写真の残像が常にあった。家の机に向かい勉強をしていると、その写真を思い出し、硬くなったそれに手を伸ばして軽くこすっただけで絶頂に達した。

 勉強に集中できなくなった。

 学校に行くと女がたくさんいた。シロンはそのことを強く意識するようになった。アイリスとは今まで通り仲良くやっていけたが、どこかに後ろめたい気持ちを感じていた。

「アイリスをあの写真の女と同じ生き物として見たくない」
と思った。

 シロンの成績は落ち始めた。

 

 

六、   ライオス対カルス

 

 シロンたちは十八歳になった。高校三年生の七月、ネオ・アテネ上空にアルカディアが浮かぶオリンピアの祭典となった。

 ホバークラッシュのギリシャ代表にライオスとカルスが選ばれていた。ふたりは勝ち進み決勝に出た。決勝は十人で戦う、うち八名がアルカディア行きを決める、つまり落ちるのは二名のみ。そのかわり判定で例えば積極的に攻撃しなかった者などは落とされるし、予選で活躍した選手の成績も考慮されるため、必ずしも決勝の八名がアルカディアに行くとは限らなかった。

 

 

 すり鉢状の満員の観客席にシロンとアイリスとマリシカが座った。

「いよいよですね」

リュケイオン高校の一学年下の女子マネージャー、黒髪で背の低いマリシカは興奮していた。
「シロン先輩。ライオス先輩は勝ちますよね?」

シロンは言った。
「当然だ。あいつはこの二年間、物凄い努力をして来た。俺はその傍らでホバーボードで遊んでいた。ライオスなら勝てる」

 と、ホイッスルが鳴り、選手十人がすり鉢状の闘技場に出て来た。選手たちはルールを守り、ヘルメット、膝当て、肘当てを着けていた。

 十人は思い思いにすり鉢の中を滑走した。

 いや、そうではなかった。ジュニアの部で優勝と準優勝をしたカルスとライオスはそれぞれ四人から集中攻撃された。カルスはそれらの攻撃を躱して言った。
「てめえら、卑怯だぞ」

インド人の選手は言った。
「カルス、おまえをまず潰す」

カルスはまずインド人を倒した。それから残りの三選手を逃げながらもひとりずつ倒していった。

 ライオスも同じように他の四選手に猛攻された。しかし、ライオスは逃げながらも着実にひとりずつ倒していった。

 ライオスは四人を倒した。そして、カルスが残るのを待った。一騎打ちをするつもりだった。

 カルスは四人を倒し、ライオスに言った。
「なんだ、余裕じゃねえか」

ライオスは言った。
「おまえは強い。それは認める。だが、俺のほうがもっと強い」

 ライオスとカルスの一騎打ちが始まった。

 すり鉢状の闘技場をふたりはグルグル回った。相手の出方を探った。

と、ライオスがすり鉢の底部に向かった。カルスはチャンスと見てチックタックフライで闘技場の中央上空に舞い上がった。ライオスは加速し、カルスの下を通り抜けすり鉢の上のほうへ向かった。カルスは底部に着地した。そのとき、ライオスは垂直の壁を滑り上がり天高く舞い上がって太陽の中に入った。逆さまになりボードを上にして両足をボードにつけたまま片手でボードの端を掴み、一回転してそのまま垂直にカルスの頭上に落ちた。それは早業はやわざだった。カルスはなす術もなく、ライオスのボードの裏を頭に受け、ボードから落ちた。

この瞬間、ライオスが金メダルとなった。気絶したカルスは担架で運ばれて行った。

マリシカは声を上げた。
「やった、ライオス先輩が勝った」

シロンは言った。
「うん、これはライオスの圧勝だな」

アイリスは言った。
「すごい技だったわね」

シロンは笑った。
「技の名前にライオスの名前が入ったりしてな」

ライオスの金メダルが決まったのだ。
「ああ、これでライオス先輩は雲の上の人になるのね」

背の低いひとつ年下の女子マネージャー、マリシカは嬉しさと一抹の寂しさで泣いていた。

 

 

 競技の結果とオリンピア省による選手の素行調査の結果、ライオスのアルカディア行きが決まった。一方、カルスは一応銀メダルだったのだが、アルカディア行きは見送られた。理由は、「素行が悪いから」というものだった。アルカディアは倫理の島なのである。

 カルスは憤慨してオリンピア省の窓口に文句を言いに行った。

「俺はホバークラッシュで銀メダルを獲ったカルスだ。でも、素行が悪いからアルカディアに行けないってのはどういうわけだ?」

役人は言った。
「それは今みたいな暴言を吐くことや、不良行為があなたの学校の内申書にあるからです。アルカディアは倫理の島なのですよ」

「なにが倫理の島だ、ふざけんなよ。じゃあ、次、四年後、俺が金メダルを獲っても、素行が悪いと行けないのか?過去の不良行為とやらは清算できないのか?」

「何か、善行を為して、あなたの人格が優れていることが示されれば、可能性はあります」

「よし、わかった。清算してみせるさ。四年後には絶対アルカディアに行ってやる」

 

 

七、   アカデメイア入学試験

 

 アカデメイア入学試験は約一万人が受験する。そのうち合格者は上位千人。

 当日の朝、シロンとアイリスはアクロポリスの中に南側の大きな白い石の門から入った。この門は多くの政治機関があるアクロポリスの下にある堅牢な門だ。一般市民がアクロポリスに入ることは禁じられているので、ふたりが入るのはもちろんこれが初めてだった。受験生は世界中から集まっていた。肌の色や顔つき、髪の色、様々な人種がいた。丘の下にあるソフィア堂で受験をした。丸天井の巨大な会場に机が並べてあり受験生が全員入場できた。ソフィア堂は一万人収容でき、シロンとアイリスは受験番号が離れていたので離れた席だった。

 試験の問題の冊子と解答用紙が試験官により配られた。

 ホイッスルが鳴った。

 試験開始だ。

 全員が問題用紙を広げた。

 シロンは問題を解いていった。わからない問題が多かった。倫理、人格を問う問題ならばわかるかと思って先にやったが、ほとんどわからなかった。わからない問題は後回しにした。すると後回しにした問題がとても多いことに気づいた。焦った。冷汗が流れた。

「これに落ちたら、次の試験は四年後だぞ」

自分に言い聞かせた。すると頭が真っ白になった。

「しまった。わけがわからん。あの写真のせいだ。誰が送り付けて来たんだ。俺の学業の成就が失敗に終わると喜ぶ奴・・・。ああ、ダメだ、俺は何を考えている」

午前の試験は終わった。

午後の部まで昼休みだ。受験生はソフィア堂から出ることが禁じられていたため、昼食は席にてサンドイッチなど持参したお弁当を食べた。

午後の部もシロンはほとんど問題を解けずに終わった。

シロンとアイリスは他の受験生とともにアクロポリスの門から外に出た。外にはライオスとマリシカが待っていた。

「シロン先輩、アイリス先輩、どうでした?」

シロンは疲れ切った顔をして答えた。
「まあまあかな」

アイリスは言った。
「まあまあ?シロン、すごいわね。わたしはわからない問題が多くてちょっとダメかも」

ライオスは言った。
「アイリスがダメなわけないだろ。万年一位なんだから」

背の低いマリシカも笑って言った。
「アイリス先輩が落ちるわけないですよ」

「じゃあ、俺は落ちるよな」
シロンは力なく笑った。

 四人はアクロポリスの門の近くのレストランで食事した。テーブル席にてマリシカが言った。

「ライオス先輩はもうアルカディア行きが決まってるから、あとはシロン先輩とアイリス先輩の合格発表を待つばかりですね。いいなぁ、三人でアルカディアかぁ。わたしは次回、四年後、二十一歳で受けます。先輩たちはラッキーですね。ちょうど受験資格の得られる十八歳がオリンピアの祭典の年だなんて」

ライオスは言った。
「俺たちは昔からアルカディアを目指してきた。俺はホバーボードで行くけど、ふたりは学問だ。アイリスもシロンも優秀だから受かるだろう」

 

 

 八月、中旬。アカデメイア合格発表の日だ。暑い日だった。昼過ぎ、シロン、アイリス、ライオス、マリシカは四人でアクロポリスの門の前にいた。そこには掲示板が出されてあり、その前には合格発表を待つ世界中の受験生やその家族などがいた。

 午後二時、合格者の受験番号が貼り出された。声を上げて喜ぶ者、泣く者、いろいろだった。人だかりが多くシロンたちはなかなか掲示板まで辿り着けなかった。人をかき分けかき分け行くとついに掲示板の前に出た。アイリスとシロンは自分の受験番号を探した。

アイリスは叫んだ。
「あった!あったわ!」

ライオスは笑顔になった。
「そうか、やったな、アイリス。さすがだ」

「シロン先輩はどうです?」

マリシカはシロンの顔を見た。シロンの顔は青くなっていた。

「ない。俺の前の番号はある。俺の番号はない。俺の四つ後ろの番号まで飛んでいる。ダメだ。ない。落ちた」

シロンは項垂うなだれた。

ライオスは慰めた。
「シロン、おまえなら四年後、合格するよ」

シロンはライオスをにらんだ。
「おまえだろ?」

「は?」

「ライオス、あの写真を送り付けたのはおまえだろ?」

シロンはライオスの胸ぐらを掴んだ。

「な、何のことだ」

シロンは言った。
「とぼけるな、あの写真だよ!」

ライオスは言った。
「なんだ?あの写真って?」

「違うのか?」

シロンは手を離した。

「すまん、ライオス。俺はおまえを疑った」

ライオスは訊いた。
「なにかあったのか?」

「恥ずかしくて言えない」
シロンは項垂れていた。

ライオスは言った。
「俺たち親友だろ?」

シロンはライオスの眼を見た。そして、わっと涙を流し泣き叫んだ。

「俺は、俺は・・・うわぁあああああ」

シロンは泣いた。自分が情けなくて情けなくて仕方がなかった。

 

 

 八月の下旬、アルカディアへ出発するアイリスとライオスを見送るため、シロンとマリシカはアクロポリスの門の前まで来ていた。他にも多くの人々が自分の家族や友人との別れを惜しんでいた。

 アイリスとライオスは手に大きなトランクを持っている。ライオスはエンジ色のホバーボードを抱えている。

マリシカは言った。

「おふたりとも、アルカディアではがんばってください。わたしも四年後に行きます」

シロンはアイリスと握手をして言った。

「四年後、俺はアカデメイアに行く。それまで待っていてくれ」

「うん、待ってるわ」

青い瞳のアイリスは微笑んだ。

 次にシロンはライオスと握手した。

「ライオス・・・またな」

茶色の瞳のライオスは微笑んだ。
「ああ、四年後、アルカディアで、いっしょにホバーボードをやろうぜ」

「ああ」

 ライオスとアイリスは振り返り手を振りつつ、門の中へ姿を消した。

 

 

 シロンとマリシカは町の広場に出た。そこから、パルテノン神殿を発つ空中列車を見た。「あの列車にライオスとアイリスが乗っている。ここにいる俺は何だろう?」

シロンは憂鬱になった。

 列車は蛇行し、ネオ・アテネの東の空に浮いている空中都市アルカディアに向かって昇って行った。

 

 

 数日後、紺碧のエーゲ海の静かな海面をシロンは独り憂鬱な表情でホバーボードに乗って東に向かって滑っていた。水平線上の青空に空中都市アルカディアが浮かんでいる。

 

 

第三章 リュケイオン大学

 

一、事件

 

 九月、シロンはリュケイオン大学に進学した。アカデメイアの受験に失敗し、無力感にさいなまれていた。

 シロンは授業にも出ず独り、ホバーボードで街をぶらぶらしていた。

 夜のオモニア地区の繁華街、白いティシャツを着、スニーカーを履いてジーパンのポケットに手を突っ込んだままホバーボードをゆっくり滑らせているシロンの横をホバーボードで追い越していく三人の十代と思われる若者たちがいた。シロンはホバーボードを滑らせながら、

「あいつら、スピード違反だろ」
と思った。

と、そのとき、その若者のグループが女性のハンドバッグをひったくった。

「あ」

シロンは速度を上げた。声を上げる女性の横を通り越し、犯人たちを追った。犯人たちはシロンを見て逃げた。

「やべえ、速いぞ、あいつ」

三人のうちハンドバッグを持った男が逃げ、残りのふたりはシロンを迎え撃った。クラッシュしてきた。が、シロンは細かい動きで攻撃を躱した。ハンドバッグを持った男が遠くの路地に入るのを見た。

 シロンもその路地に入った。路地には大勢の十代の若者たちがたむろしていた。シロンはサイドスリップブレーキで止まった。彼らはシロンを見た。大柄で髪を緑色に染めたリーダー格の男が言った。

「なんだ、おめえは」

シロンは言った。
「ハンドバッグを返せ」

リーダー格の男は言った。

「おまえ、男だろ?ハンドバッグなんか持ってんのか?」

若者たちはゲラゲラと笑った。全員男だ。

シロンは言った。
「俺のじゃない。いま、かっぱらったろ?」

髪を緑色に染めた大柄のリーダー格の男は言った。
「知らねえな。おい、おめえら、ちょっと痛めつけてやれ」

十人以上いる十代の若い男たちがホバーボードに乗った。

シロンは不敵に笑った。
「やるのか?」

男たちはシロンに襲い掛かって来た。シロンはホバーボードに乗って巧みに躱した。そして、大柄なリーダー格の男に向かって行った。

リーダー格の男は、
「お?俺とやるのか?」
と言ってナイフを取り出し、ボードに乗った。

すれ違いざまにシロンに斬りつけた。シロンのティシャツの裾が破れた。ケガはなかった。シロンはチックタックフライで空中高く上がった。そして、逆さまになり、反転してリーダー格の男の上に降りて来た。リーダー格の男はナイフを振り回したが、シロンのボードの裏が男の顔にクラッシュした。男はナイフを落とし倒れた。リーダー格の男は気絶した。

シロンは倒れている髪を緑色に染めたリーダー格の男の近くに止まって周囲の若者たちに言った。

「おまえら、まだやる気か?俺は強いぞ。全員気絶するぞ!」

若者たちはおくして動けなかった。

シロンは言った。
「さあ、さっき女性から奪ったハンドバッグを返せ」

先程の犯人がハンドバッグを持って出てきてシロンの前にそれを投げた。

シロンは言った。
「おまえら、他にも悪さをしてないだろうな」

若者たちは黙った。

シロンは言った。
「してるな?」

「カネが欲しいんだ」
意識を取り戻したリーダー格の男が地面に倒れたまま言った。

「カネと交換に煙草とポルノ写真が手に入る。そしてそれを転売するんだ」

シロンは男を見下ろした。
「なに?煙草?ポルノ写真?」

両方ともアルカディア世界政府が禁じている物だ。

「おまえら、犯罪組織と繋がりがあるのか?」

シロンがそう言うと、サングラスをかけたスキンヘッドの大人の男が三人、ホバーボードを持って路地裏にやって来た。そのうちのひとりがシロンに言った。

「きみ、わたしたちの仕事を邪魔してくれちゃ、困るなぁ」

それは犯罪組織の男たちだった。

三人のうちのひとりが言った。
「おい、おまえら、こんな小僧ひとりにビビってんじゃねえ。数が多いんだからやっちまえ」

路地裏の若者たちはホバーボードに乗って、シロンに襲い掛かった。シロンは攻撃を躱した。しかし、路地裏は狭く、敵の数が多すぎた。もう、リーダーを倒して集団を黙らせることはできそうもなかった。若者たちは犯罪組織を怖れていたから必死でシロンに襲い掛かって来た。シロンはあまりの敵の多さについにホバーボードから落とされた。

「しまった」

シロンは次はナイフで刺されるのではと思った。

 が、何者かが、高速でシロンの前を横切り、サングラスの男たちに向かって行った。赤い髪をした若者だ。

「カルスか?」

シロンは赤い髪の若者の後ろ姿を見た。

赤髪のカルスは言った。
「シロン、立て!俺と一緒にこいつらをみんなやっつけるぞ」

シロンは、「おう」と言い、立ち上がってホバーボードに再び乗った。三人のサングラスの男たちはナイフを抜き、ホバーボードに乗った。この世界には拳銃はない。ホバーボードは最強の武器だった。三人のホバーボードは違法改造してあり刃物がついていた。

 カルスは笑った。
「ふん、刃物つけたって、ホバーボード自体が下手くそなら意味ねえよ。俺を誰だと思ってる?ホバークラッシュの銀メダリストだぞ」

サングラスの男は言った。
「ふん、あんなスポーツが実戦で役に立つと思うのかね?」

 しかし、ホバースピードジュニアの部の世界一であるシロンと、ホバークラッシュ銀メダリストのカルスのふたりが揃えば鬼に金棒だった。サングラスの男たちはふたりに刃物のついたホバーボードでクラッシュしてきたが、カルスとシロンの返り討ちに会い、三人は倒れた。そうなると他の若者たちは再び臆した。

「逃げろ!」
誰かが言った。

 若者たちは路地から出ようとしたが、ちょうどそこに誰が呼んだのか警官たちが現れ逃げようとする若者たちの進路を阻んだ。

 犯罪者たちは全員逮捕された。

 警官はシロンとカルスに言った。
「君たち、ありがとう、こいつらは裏組織の連中だ。君たちの功績は高く評価されるよ」

 

 

 三日後、警察署に呼ばれたシロンとカルスは署長から感謝状を贈られた。

 そのとき、カルスは言った。
「署長さん。俺のこの善行は四年後のオリンピアで入賞した場合、アルカディア行きの協議で考慮されますか?」

署長は言った。
「わたしにはわからないが、この功績はオリンピア省に報告しておくよ」

カルスはニヤリと笑った。

 

 

 警察署を出るとき、シロンはカルスに言った。
「倫理の島、アルカディアには、おまえもこれで行けるようになるかもな」

カルスは鼻で笑った。
「倫理の島?バカか?」

「なぜ、バカなんだ。アルカディアが倫理を重視する理想郷であることは当たり前じゃないか」

「そうじゃないんだな、じつは」

「え?」

「アルカディアは理想郷じゃないぞ」

「なんでそんなことが言えるんだ?」

「明日、十時にネオ・アテネの郊外にある、精神科病院ヒポクラテスのそのに来い。おまえに見せたいものがある」

「精神科病院?」

 

 

 シロンはその夜、ベッドの中でカルスの言葉を反芻した。

「アルカディアは理想郷ではない?精神科病院、ヒポクラテスの園・・・?」

 

 

二、ヒポクラテスの園、カルスの姉ミレネ

 

 ネオ・アテネの北西郊外の田園地帯の中に、ヒポクラテスの園という精神科病院がある。

 花々がその精神科病院の白い建物を囲んでいる。よく晴れた穏やかな日だ。

 シロンがホバーボードでそこへ行くと、玄関の前にカルスがひとり立っていた。

カルスは言った。
「この病院に俺の姉ちゃんが入院している。俺より四つ上の二十二歳だ」

カルスはシロンを導いて病院内に入った。受付で何やら話すとそのまま入っていいことを告げられた。建物の廊下を歩きながらカルスは言った。

「姉ちゃんはミレネという名だ。四年前にアルカディアに十八歳で行った」

シロンは訊いた。
「アカデメイアか?」

カルスは首を横に振った。
「俺の家の人間がそんな高学歴な進路を歩めると思うか?」

「じゃあ、なんだ?ホバーボードか?」

「違う」
カルスは言った。
「家政婦だ」

「家政婦?」

シロンはアルカディアへの行き方にそんな職業があるとは知らなかった。

カルスは続けた。
「十八歳で家政婦としてアルカディア自由市民の家で働くようになった。その家には十八歳でアカデメイアに入学したばかりの男がいた。名前はわからない」

食堂では何名かの入院患者と思われる人たちが飲み物を飲んだり会話をしたり読書をしたりするなどして過ごしていた。シロンはカルスのあとについて食堂を通り抜けた。病室が両側に並んでいる。すべて個室だ。ドアにはガラス窓があり中を覗くことができる。そのひとつにカルスはノックをして入った。シロンも続いた。

中にはトイレと洗面台があり、ベッドと机があった。東側には大きな窓がありその外にお花畑が広がっている。赤い髪の女性がひとり椅子に座り外に広がるお花畑をぼんやりと眺めていた。

カルスは言った。
「姉ちゃん、俺だよ、弟のカルスだよ」

女性は振り返って、カルスを見た。
「あなた、お帰り、早かったのね。食事にします?それともお酒を召し上がる?」

カルスは言った。
「そうだな、お酒はなにがあるの?」

女性は答えた。
「そうね、冷蔵庫に開けたばかりのワインがあったかしら」

シロンが見まわしたが部屋に冷蔵庫はない。

カルスは言った。
「ワインはいいよ。それより今日は人を紹介しに来たんだ」

彼女はシロンを見た。すると表情が急に変わった。彼女は言った。
「やめて!ごめんなさい!あなたの子は産めませんでした!わたしはお酒を飲み過ぎて流産しました!ごめんなさい!」

カルスは言った。
「落ち着いてミレネ姉ちゃん。この人は姉ちゃんの夫じゃないんだ」

「うそ、騙そうったってそうはいかないわ。あなたは夜な夜なわたしを愛した男、夫になるはずだったのに、わたしの失敗のために・・・、いや、そうじゃないわ。たしか、あなたがわたしにくれた薬、あれを飲んだら急に頭がくらくらして・・・あなたね!毒を盛ったのは!それでわたしは気が狂ったのよ。そうよ」

シロンには訳がわからなかった。

ミレネという女性は床にしゃがみ込み泣き始めた。

カルスは言った。
「姉ちゃん、あのペンダントはどこにあるの?」

ミレネは首に掛かっているペンダントを握り締めた。

「姉ちゃん、ちょっとそれを貸してくれるかな?」

ミレネはそれを首から外した。カルスはそれを受け取りシロンに見せた。それはロケットで、ふたを開けると写真があった。ミレネともうひとり若い男が裸で寄り添っている自撮りの写真だ。

「これは?」
シロンは訊いた。

カルスは言った。
「家政婦として入った家の息子だと思う。さっき言った十八歳の男だ」

カルスはシロンの眼を見て言った。
「わかるか?このストーリー」

シロンは首を横に振った。
「よくわからない」

カルスは言った。
「つまりこういうことだ。十八歳で家政婦としてアルカディアに昇った俺の姉ちゃんは、職場であるその家の息子に手を出されて妊娠した。息子は慌てた。アカデメイアの学生が家政婦の女に手を出して妊娠させるなどスキャンダルのはずだ。そこで息子は姉ちゃんに毒を飲ませ気を狂わせた。そして、下界へ降ろした。それがこの夏、つまりオリンピアの祭典のときだ。姉ちゃんはこの精神科病院に入れられ、子供は流産で死んだ」

シロンはカルスの顔を見た。
「それはおまえの作り話だろ?」

「そう思うか?この写真を見ても」

シロンは再びロケットの写真を見た。裸の男女が体を寄せ合ってこちらを見つめている。女のほうはカルスの姉であるミレネであり幸せと不安がないまぜになったような顔をしている。男のほうは育ちのよさそうな顔をしていて、笑っているがシロンにはなんだかその男が何を考えているのかわからない感じがした。

「この男に復讐したい」
カルスは言った。
「俺は四年後、オリンピアの祭典のホバークラッシュで勝ってアルカディアに行く。そして、この男に復讐してやりたい」

シロンは言った。
「復讐って、なにを?」

カルスは言った。
「殺すまではしない。ただ、一発クラッシュを喰らわしてから姉ちゃんの前に連れて来て謝らせたい」

 

 

 シロンは独りで精神科病院ヒポクラテスの園からネオ・アテネまでの田園地帯の道をホバーボードでゆっくりと滑りながら憂鬱に沈み込んでいた。

 家に帰っても憂鬱だった。ベッドの中に入っても憂鬱だった。

「アルカディアは理想郷じゃない」

では、自分はなんのためにアルカディアに行くのか。なんのために生きているのか?

 

 

三、悩める若きオナン

 

 シロンは勉強する意味を考えるようになった。リュケイオン大学ではアカデメイアを目指す者もいるが、目指さない者もいる。ただ、遊んでいるとしか思えない者もいる。シロンも遊びたい。特に女と遊びたいと思った。だが、それでは徳を重んじるアルカディア人にはなれない。

 だが、性欲は泉のように常に滾々こんこんと湧き出てくる。シロンは毎日のようにひとりで性の遊戯に耽った。それが終わる度に後悔した。

 ポルノ写真は見なかった。ポルノは犯罪だった。

 シロンはポルノに興味があった。以前見た写真が目に焼き付いていた。それは自分の中の悪しき部分だと自分を責めた。するたびに自分の罪深さを思った。

 学業がそのためにはかどらなかった。アイリスにはそういった悩みはなかったのだろうか?シロンは思った。

 いやらしい写真を思い出した後、必ずアイリスの笑顔を思い出した。穢してはならない笑顔だった。

 親友のライオスに悩みを打ち明けるべきだったのかもしれない。しかし、そのライオスは今、アルカディアにいる。

 シロンは逆境をどう乗り越えるかも、倫理道徳の人間力が問われることかもしれないと思った。

 シロンは考えた。

「オナニーとはセックスの代替行為であって本来あるべき行為ではない。性行為ができる年齢になっても親のもとで学校に通う者は、子供を作って育てる力がないため、避妊をしなければならない。その避妊が、俺にとっては不自然で罪深いものに思える。そして、ひとりで処理する行為も不自然で罪深く思える」

 理想の性生活など存在しないのか?

 アルカディアにもカルスの姉に手を出したような性のスキャンダルがあることはシロンにとって衝撃だった。シロンにとってアルカディアは完璧なものの象徴だった。理想郷だった。だが、実際はそうではないのか?人間はどこに行っても同じということなのだろうか?

 しかし、シロンはアイリスを想うと心が落ち着いた。彼女を抱きしめてみたいと思った。そう思うことはけっしていやらしいこととは思えなかった。シロンは自分の心の中の奥深くを見つめた。そして、ひとつの答えが見えた。

「俺はアルカディアに行き、アイリスと結婚したい」

心は決まった。アイリスと再会し結婚するにはどうしてもアカデメイアの入学試験に合格しなければならなかった。独りで耽ることで悩んでいる場合ではなかった。

「ポルノのような下品で不道徳な女を想像してオナニーをすることは罪だ。だが、アイリスならば、アイリスの体だけではなく心の中、彼女の人格、共に過ごした思い出、すべてを想ってオナニーすることならばけっして汚いことではないだろう。もしそれが汚いのだとしたら、性自体が汚いものか、人間存在そのものが汚いか、それとも、アイリスが汚いかだ。まさかアイリスが汚いわけがないだろう」

アイリスは近くにいた存在だったが、シロンにとっては理想の女性だった。彼女が空高く理想郷にいることは、当然のことと思えた。シロンの前に一本の道が見えた。それは空高くに浮かぶ、空中都市アルカディアへの道だった。

 

 

 そして、ネオ・アテネ上空にアルカディアが来て、次のオリンピアの祭典が来た。

 

 

四、パルテノン神殿と空中列車

 

 オリンピアの祭典で、ホバークラッシュで優勝したのはカルスだった。カルスは以前の善行がオリンピア省に評価されアルカディア行きが決まった。

 シロンはカルスの試合を見なかった。シロンは自分の受験勉強に集中した。

 試験当日、アクロポリスに入った。世界中から受験生が集まって来ていた。以前のシロンはその人種の違いなどに目を奪われて気が散ってしまったが今回はそういう浮ついた気持ちはなかった。なによりも自分は努力してきたという自信があった。ひとつ年下の背の低い元女子マネージャー、マリシカも受験だったが、シロンは行動を共にしなかった。そのことはマリシカにも言ってあった。

「いいか、マリシカ。受験は自分との戦いだ。独りで戦うべきだ」

「でも、先輩。共に励まし合う仲間がいるって大事じゃないですか?」

「それは受験には当てはまらない。励まし合う仲間が、いつのまにか慰め合う仲間になる危険性がある。それに俺には心の中に仲間がいる。それはアルカディアにいるアイリスとライオスだ」

「わたしは?」

「マリシカも心の中にいる。家族も、他の友達も。ただ、試験は独りで行うものだ。誰かと助けあってやるものではないし、誰かと競ってやるものでもない。ようは、自己ベストが出せればいいんだ」

 シロンはソフィア堂に入った。中には机が並んでいた。自分の受験番号の席にシロンは座った。

 試験が始まった。

 シロンは冷静に問題を解いていった。焦ることはなかった。わからない問題は飛ばしたが、四年前のようにはその数は多くなかった。倫理の問題も、冷静に答えることができた。周りも気にならなかった。

 試験は終わった。

 シロンは自分との戦いに勝利したと思った。これで不合格でも悔いはないと思った。もちろんアルカディアには行きたかった。

 続々と受験生の出るアクロポリスの出口で、マリシカが待っていた。

「シロン先輩」

「やあ、マリシカ、どうだった?」

マリシカは泣き出した。
「わたし、わたし、緊張してなんにも解けなかったんですぅ」

マリシカは声を出して泣いた。

シロンは慰めなかった。

「先輩、慰めてくれないんですね?」

シロンは言った。
「慰め合うのは友情じゃない」

マリシカは泣き続けた。

シロンは周囲から女の子を泣かせていると誤解されると思った。
「マリシカ、今からレストランに行こう。ムサカとワインを奢ってやる」

マリシカは涙を拭いた。
「ありがとうございます」

シロンは言った。
「でも、おかしいな。俺だってまだ合格したわけじゃないんだけどな」

 

 

 二週間後、試験結果が出た。

 シロンは合格だった。

 マリシカは不合格だった。マリシカはまた泣いた。
「ふぇ~ん。ライオス先輩に会いに行けないぃ~」

シロンは言った。
「ライオスに恋をしているんだね」

「はい」

「手紙を書くといいよ。俺が持って行ってやる」

「え?アルカディアと下界とでは郵便のやり取りは禁止されてるんじゃないんですか?」

「俺の荷物の中に入れて行くならいいだろ?」

「ありがとうございます。じゃあ、わたし、すぐに家に帰って、ライオス先輩にラブレターを書きます」

 

 

 アカデメイア合格をシロンの家族は喜んだ。特に父が喜んだ。

 父は素朴な男だった。アルカディアは理想郷でアカデメイアは最高学府だと信じていた。そして、息子がアルカディア人になることを何よりの栄誉と喜んだ。コロナキ地区にある自宅マンションに親戚が集まり、母が腕を振るって作った料理が並ぶ晩餐の席で父は言った。

「おまえが六歳のときのことを覚えているか?一緒にリカヴィトスの丘に登って、アルカディアを見たなぁ。覚えているか?」

父はワインで酔っていた。

「あのとき、おまえは言ったなぁ。『アルカディアに行く』と。そして、その幼い夢を二十二歳で叶えるとは。お父さんは涙が出るよ」

父は目を赤くしてハンカチで拭いた。

 

 

 アルカディアへの出発の日となった。

 シロンはアクロポリスの門の前で家族や友人と別れを告げた。そのとき、マリシカから例のライオスへの手紙を託された。

「シロン先輩。お願いしますね」

「うん、任せてくれ。あっちへ行ったら俺は真っ先にライオスとアイリスに会うつもりだ」

家族や友人が見送る中、シロンは重いトランクをひとつとホバーボードを持ってアクロポリスの門をくぐった。

階段を登って行くと白亜の建物が左右に並んでいる。ここがギリシャの行政府であり、世界の首都の中で最も重要な首都の中心である。それらの建物が丘の上へと続く階段の左右にありその階段を重い荷物を持って汗をかきかき登り終えると正面にドーリア式の列柱を誇るパルテノン神殿が現れる。この神殿こそが世界の中で最もアルカディアに近い場所なのだ。もちろん、アルカディアは世界の各都市で税を徴収するために空中列車を下ろすことはしている。だが、オリンピアの祭典でアルカディア行きを決めた人々が空中列車に乗ってアルカディアに向かう駅は、このパルテノンしかない。パルテノンの中はこれからアルカディアへ向かう人々でごった返していた。アカデメイアに入学する者が千名はいるはずで、その他にもカルスのようにメダリストで特技の一流の者たちが集まっている。アルカディアはすべてにおいて一流であるのだ。それらの人々がパルテノンの中で必ず目にするのが、高さ十二メートルの女神アテナの像だ。白い大理石の像で新世界になってから作られたものとはいえ、神の像であることは間違いなかった。その像の足に人々が接吻するため、アテナの足は指がすり減ってツルツルになっていた。

駅舎として旧世界のものよりも長くなっているパルテノンの外に空中列車は横づけされている。人々はそれぞれの切符にある車両番号と座席番号を確認して次々と乗り込んでいる。シロンは一両目の窓際の席に座った。

空中列車は出発した。アクロポリスを離れ、蛇行しながら徐々に高度を上げていく。シロンは窓からネオ・アテネを見下ろした。アクロポリスが見える、リカヴィトスの丘が見える、海岸にはホバーボードの競技場が見える。シロンの生まれ育った町が下方に小さくなっていく。エーゲ海が午前の日差しを受けて輝いている。        


(第一部完)

 

 



第二部  アルカディア


 

 

第一章    再会


 

一、空中都市到着

 

黒髪で黒い瞳の若者シロンは空中列車の窓から顔を出した。前方上空にアルカディアが浮いている。その大地はパンケーキのように平べったい物で楕円形に近い形をしている。南北五キロメートル、東西三キロメートルの、南北に長いアルカディアは言わば横向きに東に向かって浮遊している。列車は蛇行してアルカディアへ南側から近づいて行く。逆さまになった黒い高層ビル群が列車を迎え入れようとしているかのように迫ってくる。アルカディアの下部は上に地面の天井があるため昼間でも暗い。高層ビルの下の方には陽の当たる部分もあるが中央へ行くほど暗くなる。万年曇り空の天気と言ったらいいだろうか。朝と夕方しか光が差さないようだ。天井の地面から垂れる高層ビルを繋ぐ道がいくつもあり、その上を自動車や列車、ホバーバイク、ホバーボード、あるいは徒歩の人たちが行き交っている。薄桃色の道はホバーボードとホバーバイク用の道。薄紫色の道は自動車の道。薄黄色の道は歩行者の道。それから何本か線路がある。道の素材は石やコンクリートではない。半透明のガラスのようにも見える。もちろんガラスのような割れる物のはずはない。そこがアルカディアの科学力だ。また、道は下向きのビル群と繋がっていて、それぞれのビルの入り口から伸びた小道と結びついている。必ずしも一番上の階に入り口があるのではない。二階(地下二階と言うべきか?)にあったり、三階にあったりする。あまり下のほうにはない。ビルの高さ(低さ?)がそれぞれ違うからだ。すべての道はビル群に固定されてあり、それを支えに浮いている。道の両側は転落防止用の透明な壁がある。歩行者用以外の道は一方通行のようだ。シロンの乗っている空中列車はそれらの道を縫うように避けながら上にある地面に向かって行く。どうやら空中列車の駅は空中都市の下側にあるらしい。上側はアルカディア自由市民が住む場所でそれ以外の者は下側の高層ビル群に住むのだ。空中列車はその黒い高層ビル群の中に入って行く。そして、高層ビル群の中央にある駅に停まった。プラットフォーム、駅舎は上にある地面からぶら下がっている。

シロンはプラットフォームに足を下ろした。この地面が空中に浮いていると思うと平衡感覚が狂うような錯覚に襲われた。しかし、プラットフォームは揺れることなどなく、地上の地面と同じように安定している。

シロンはプラットフォームの隅に行き、そこにある柵から下を覗いて見た。御影石のような黒い石でできた高層ビルが下に向かって伸びていて、そのはるか下にエーゲ海のコバルトブルーが光っていた。

シロンは上を見た。列車の屋根より高い所にアルカディアの地面の下側が天井となっていた。苔むした岩が圧迫するようにほとんど凹凸がなく四方に広がっていた。

列車から降りた乗客は駅の出口に向かっていた。

出口を出ると灰色の床の広場があり、振り返って駅の出口を見るとギリシャ神殿を思わせる門構えだった。広場は空中都市下部の中心にあり、そこから道路が四方八方に伸びている。歩行者用道路以外は一方通行なので、広場から出る道路に入り口ならば〇、出口ならば✕と表示されている。

ごった返す広場ではアカデメイアの新入生を迎える職員たちが大きな声で呼びかけていた。

「アカデメイアに入学される方はこちらへお進みください」

他にもそれぞれの専門職がそれぞれの分野のメダリスト及び入賞者たちを出迎えていた。

シロンはカルスを探したが見当たらなかった。

 シロンたち千人のアカデメイア新入生は職員に案内されてぞろぞろと、広場の中央にある円筒形の建物の中に導かれた。その建物の内部は自動車が何台か横並びで通れるほどの幅のある坂道が螺旋らせん状に上へと上っていた。そこがこのアルカディアの下部と上部を結ぶ連絡路だとわかった。他にも連絡路があるのかこのときのシロンにはわからなかった。

 そして螺旋状の坂道を登りきると丸いドームの天井の広い円筒形の建物内に出た。あとでシロンは知ったが、この建物はパンテオンと呼ばれるものだった。それは旧世界のローマにあったものと形が似ていた。

 パンテオンから外に出るとそこは旧世界の古代ギリシャ、あるいは古代ローマの都市にタイムスリップしたかのような錯覚に襲われるまばゆい世界が広がっていた。北を向いているパンテオン出口から北へ向かって真っすぐに伸びた街路樹のある広い道路の向こうに高さ十五メートルほどの凱旋門があり、その向こうに高さ三十メートルはある真っ白なピラミッドがあった。階段状になっているのではなく、滑らかな斜面でできたピラミッドだ。そして、左手、つまりパンテオンの西側にあるのが円形闘技場コロッセオだ。巨大な白い大理石を積み上げた建造物で、たった今築き上げたかのような❘つややかなテカリがあった。そして、右側、つまりパンテオンの東側に壮麗な野外劇場と野外音楽堂があった。これらもコロッセオのように白い大理石でできていて半円形の壁の向こうには何千人も収容できるような階段状の観客席があることを想像させた。さらにコロッセオの西側には陸上競技場があった。

 パンテオンの北側にはオレンジ色の屋根と白い壁の建物がおびただしく整然と碁盤の目状にあり、この北側半分にアルカディア自由市民の住む町があり、神殿やピラミッド、アカデメイア、アゴラなど世界の中枢があるようだ。

 パンテオンの南側に回り込んでみると、空中都市上部の南半分は庭園となっているらしく、野原と森があった。野原に古代ギリシャ風の遺跡のような崩れた建物が蔓草つるくさまとったオブジェのように散在している。

 シロンは北側の壮麗な大都市を見て、これから学ぶアルカディアの叡智を思うと武者震いがした。一方、南側の庭園を見ると、これこそが昔から憧れて来た理想郷なのではないかという思いが強く胸を打ち、涙さえ滲んできた。

「ここがアルカディア、俺がずっと来たかった天空に浮かぶ都市なんだ」

 

 

職員に案内され、シロンたちアカデメイア新入生はアカデメイアの大講堂に集められ、今後のスケジュール、住む部屋、生活の仕方などの説明を受けた。そして、それぞれ、部屋の鍵を渡され解散となった。

 アカデメイア学生の寮は野外劇場の北側にあった。劇場から役者の声が聞こえて来そうなくらいの近さだ。寮の建物はオレンジの屋根瓦と白い大理石の壁でできていて、下界からの新入生千人やすでに在学していて卒業できない学生をそれぞれ個室に住まわせるキャパシティを持っていた。高層建築ではないぶん、そこに碁盤の目に区画された学生街というひとつの街を形成していた。商店もレストランもあった。アカデメイア学生はアルカディア世界政府から小遣いが支給される。もちろん、アルカディアに生まれ育った良家の学生には、自由市民の生活費がすべて政府に保証されているため、その中から小遣いが出される。もっとも、多くの自由市民はなんらかの仕事を持っている。仕事をしたほうが自己効用感がある。しかし、その職務はほとんどが公務でその他の仕事は専門職に任せてしまう。そして、アカデメイアで学んだが自由市民になるための試験に三十歳までに合格しなかった者が引き続きアルカディアに住み続けるために世界政府の省庁の役人になる。

シロンは二階建ての寮に入った。シロンのひとり暮らしの部屋は二階だった。シロンは荷物を置くと、まず部屋の窓から外を見た。野外劇場の壁面が見えた。部屋の中にはベッドと机がある。トイレとシャワールームがあり洗面台と鏡がある。洗濯機もついていて、窓の外にあるバルコニーで洗濯物を干せるようになっている。キッチンもあり冷蔵庫もある。食材はアゴラ市場で買うようにシロンは説明を受けていた。アルカディアのアゴラ市場は当然良質な品物が揃っているだろうと想像された。

 シロンは真っ白なキングサイズのベッドにダイブした。フカフカで洗い立てのシーツの匂いに包まれてシロンは笑みがこぼれた。

「これが世界の中心、一流の物ばかりが集まるこの都市で俺は生活するんだ」

天井を見た。白い天井には唐草模様のレリーフがある。その模様の流れを目線で追い駆けながら考えた。

「ライオスとアイリスに会わなくちゃ。それからカルス・・・。あいつの姉さん、たしかミレネとか言ったあの人を狂わせた男がこの島のどこかにいる。完全ではない理想郷」

シロンは大講堂で配られた説明書を手に取った。地図がある。島の中心に下部と通じるパンテオンがある。その西側に円形闘技場コロッセオがある。さらにその西側に陸上競技場がある。パンテオンの東側には野外劇場と野外音楽堂がある。その北側に学生街とさらに北にはアカデメイアの学堂がいくつもある。パンテオンから北に向かって、この都市の中央を南北に貫く都大路がある。都大路の東側は今言った学生街であり西側には自由市民の家々がある。都大路の北の行き止まりには東西にまっすぐ延びる高い壁とその中央に高さ十五メートルほどの凱旋門があり、その門をくぐるとアゴラがある。このアゴラは市場ではない。市場のアゴラは凱旋門の南側正面にある。高い壁の向こう側、つまり凱旋門の北側には自由市民と学生その他関係者しか入ることは許されない。下部に住む住民はパンテオンを通って自由に上部へ来られるが、いわゆる聖域と呼ばれる凱旋門内部に入ることは許されていない。聖域にあるアゴラは自由市民たちが議論する広場だ。長い屋根を支える柱廊に囲まれたアゴラには何千人も集まることができ、演説台などがある。政治や哲学などを議論する場所だ。そのアゴラを囲むように東側に行政府の白い建物、西側に立法府と司法府の白い建物がある。さらにその北側に古代ギリシャの神殿がありその神殿の北側、島の最北端には回廊に囲まれた白い大理石のピラミッドがある。聖域の建物は屋根も白い。聖域には植物がない。聖域の外、つまり高い壁の南側にはオレンジ色の瓦で屋根を葺いた白い壁の建物ばかりがあり緑の木々があって楽園の風景を作っている。都大路には世界中の木を並べた並木が両側にある。パンテオンの南側には広大な庭園が広がっている。緑に埋もれた古代神殿などの廃墟があるそこは、まさに理想郷と言えるかもしれない。

 アルカディアを上から見れば、南半分が緑の公園で、中央の南北を分ける線上に陸上競技場、コロッセオ、パンテオン、野外劇場、野外音楽堂が並んでいる。北半分のほとんどがオレンジ色の瓦を葺いた建物が並び、北端に壁で遮られた白い聖域がある。

 シロンはアイリスとライオスとの連絡手段を持たなかった。シロンがアカデメイアに合格したこともふたりは知らない。シロンもふたりがどこでどんな生活を送っているのかも知らない。シロンはとりあえず、地図を持ってアルカディアを散策することにした。

 

 

寮の二階から降りて、街路に出た。南側には野外劇場と野外音楽堂がある。パンテオンのほうに歩いて行くと、そこから都大路がまっすぐ北へ向かい、背後に高さ三十メートルの白亜のピラミッドを擁した凱旋門に突き当たる。シロンはそちらには行かず、パンテオンとコロッセオの間を通り抜け、南側に広がる庭園に向かった。

庭園には森がある。朽ちた大理石の建物がある。そこで休む家族やカップルがいる。下部の住民にも利用が許されているので、憩いの場所となっているようだ。

森の中をシロンは南へ向かって歩いて行く。地図によると島の南端に「エンペドクレスの飛び込み台」というものがあるらしい。それが何なのかを知りたかった。

森を抜けると野原となっていた。南端に人がふたり並んで通るのがやっとというような蔓草つるくさの巻きついた小さな凱旋門があった。その向こう側に空中に向かって桟橋のように突き出た部分がある。地図で確認するとそれが「エンペドクレスの飛び込み台」らしい。シロンはその小さな凱旋門をくぐり、緑の草の生えた飛び込み台の先端まで出て下を覗いた。はるか下方に海が見える。

「ちょっと待ったぁ」

とシロンの背後に男性の声がした。振り返って見ると小さな凱旋門の下に中高年の小太りで禿げた男がひとりいた。

「わたしは『ちょっと待ったおじさん』だ。はやまっちゃいかん。生きていれば必ずいいことはある。自ら死ぬなんて、そんなことはしちゃいかん」

シロンは答えた。
「なにを言ってるんですか?ぼくはここがなんなのか見学に来ただけですよ」

ちょっと待ったおじさんは言った。
「見学?それもいかん。ここに来ると飛び込むイメージができて実行に繋がる」

シロンは質問した。
「ここは何なんですか?」

ちょっと待ったおじさんは言った。
「ここはエンペドクレスの飛び込み台。つまり飛び降り自殺をする場所だ」

「え?飛び降り自殺?なんでそんなものが?」

「それはわからん。アルカディアを造った古代人にいまさら質問はできない。だが、古代人はこれが必要と思い造ったようだ。理由はわたしにもわからない」

エンペドクレスは旧世界の古代ギリシャの哲学者で、燃え盛るエトナ山の火口に飛び込んで死んだ男だ。その名が大変動後のこんなところに名前として生きている。

 シロンが周りを見渡してみて気づいたのはアルカディアの地面の縁には半透明な柵があることだ。転落防止の柵だろうか。だが、エンペドクレスの飛び込み台には柵がない。そこだけ飛び降り可能な場所となっているようだ。

「自殺者は多いんですか?」

シロンはちょっと待ったおじさんに質問した。

おじさんは答えた。
「多い。とくに下部に住む人間が、人生に失望しここへ来ることが多い。わたしはそういう者には下界へ帰ることを勧めている」

「アルカディアに失望した人々ですか?」

「そうだ。下部の人間はどうあがいても自由市民にはなれない。そのストレスでここへ来るようだ。なにしろ下界でメダリストになったような各界のエリートたちだからな。そのエリートがこんな待遇かと失望するんだ」

「こんな待遇?」

おじさんは言った。
「例えば、陸上のランナーの金メダリストは、陸上だけができると思いアルカディアに来る。だが、実際はそれとは関係のない仕事を下部でさせられるんだ。それで失望する。また、アカデメイアに入った者。自由市民になれればいい。だが、三十歳になるまでになれなかった者は絶望する。自分の人生は何だったのか、と」

 シロンはエンペドクレスの飛び込み台をあとにし、下部に行くことにした。パンテオンから螺旋状の坂道を下り、下部へと向かう。途中、自動車とすれ違った。荷台にギリシャ製ワインを積んでいた。アクロポリスのパルテノンから空中列車で運んだ物だ。税である。

 シロンは下部に出た。パンテオンの底の出口は、空中列車の駅と対面する形で広場の中央にある。パンテオンと屋根のないギリシャ神殿風の正面ファサードのあるこの駅のふたつのみが、この下部において旧世界の古代ギリシャ・ローマ風の建物であり、それ以外は旧世界のニューヨークのような近代都市となっている。駅前の中央広場を中心として道が、氷柱つらら状の黒い御影石でできたような高層ビルを結んでいる。シロンは一番低いところまで伸びている高層ビルの最下階に向かうことにした。道は自動車用とホバーボード、ホバーバイク用、それから歩行用と分かれている。シロンは歩行用の道を歩いて、最下階に展望室のある高層ビルに向かった。

 エレベーターで建物の最下階を目指す。他の客は何人もいたが、途中で降りたり途中から乗ったりして忙しく入れ替わった。エレベーターはガラス張りで外の様子がよくわかる。エーゲ海に島々が浮いている。最下階に着くとそこは展望室で、床もガラス張りだ。シロンは何とも言えない浮遊感を味わった。こんな体験は初めてだとシロンは思った。他にいる客は家族連れが多かった。子供たちは生まれたときから空中の生活が当たり前なのだとシロンはぼんやりと思った。

 

 

二、護衛官ライオス

 

 アルカディアには最高権力者が三人いる。

 行政長官。

 立法長官。

 司法長官。

 いわゆる三権分立だ。

 行政長官は実際の世界政府の行政の最高位である。行政府はその中枢がアルカディア上部の自由市民と学生、その他関係者しか入れない聖域にあり、そこで賄いきれない業務は下部の高層ビルのいくつかの中で行われている。その官僚たちのほとんどはアカデメイア出身の三十歳までに自由市民になれなかった者たちだ。

 立法長官は立法府の長で、立法行為はすべてアゴラに自由市民を集めて行う。ここにアルカディア自由市民の直接民主制がある。これに参加できるかできないかが、自由市民の資格において一番重要な点だ。

 司法長官は行政がきちんと法律に従って行われているかを監視し、立法府が憲法に反する法律を作ろうとしていないか監視する役がある。また、住民の裁判を司る。裁判はアゴラで行われる。

 これら三人の長官はもちろん自由市民の中から選ばれる。この三人には護衛官が付く。

 シロンがアゴラで行われたアカデメイア入学式に臨んだ時に、それぞれの長官が挨拶に立った。

 行政長官オクティスが演説台に立った。彼は五十代の黒い髪と髭を蓄えた壮健な男性で旧世界の古代ギリシャ風の白い服を着ていた。シロンはその演説を聴いている途中で目を見張った。行政長官オクティスの背後にいる護衛官数名の中にライオスの姿があったからだ。ライオスは四年前のオリンピアの祭典においてホバークラッシュで優勝しアルカディア行きを決めた。当然、アルカディアでは仕事に就かねばならない。就いた仕事が行政長官の護衛官なのだ。ライオスはワインレッドのベレー帽を被り長い金髪を後ろで縛りポニーテールにして、ゆったりとした白いブラウスを着ていた。ブラウスの裾の上から腰ベルトが締められ、脚にぴったりとした白いタイツを穿いている。腰には木刀を差している。左手はエンジ色のホバーボードを立てて支えている。ホバークラッシュは武力になる。それゆえにライオスはこういう仕事に就いたのだろう。シロンはあとでライオスに会いに行くことに決めた。

 行政長官オクティスの次に演説台に立ったのは立法長官シマクレスという美貌の若い男性だった。背が高く、金髪を七三に分け、青い瞳、白い肌を持っていた。シロンは再び目を見張った。このシマクレスという男が、カルスの姉ミレネが持っていたペンダントのロケットにある写真の男だったからだ。この立法長官という最高権力者のひとりとなった男がじつは過去にひとりの女を流産させ気を狂わせて不幸にしたのだ。そんなスキャンダルのある男が立法長官なのだ。

 旧世界の古代ギリシャ風の白い服を着たシマクレスは演説する。

「アカデメイア新入生の諸君。君たちは大変なエリートだ。下界の愚者たちとは違う。アルカディアは愚者を排除し、人格の高潔な者のみが住むことを許された楽園である。その楽園の住人の一員として心を引き締めていてもらいたい。絶対に愚かなことはしてはいけない。そして、自由市民になって、わたしたちと共に世界を統率しよう。まず、アルカディアを本当の楽園にし、将来は下界すら楽園にする。わたしは、立法長官としてではなく、一市民としてその志を持ち続けてきた。諸君もわたしの理想実現の協力者となるためにアカデメイアで学ぶことをわたしは期待している。入学おめでとう」

シマクレスの演説が終わるとシロンは三度みたび目を見張った。シマクレスの後ろの護衛官の中にアイリスの姿があったからだ。アイリスはアカデメイアの学生としてアルカディアに上がった。順調にいけばこの夏に卒業しアルカディア自由市民になったはずだ。なぜ、そのアイリスがシマクレスの護衛官の中に?いや、アイリスは護衛官になるような武力を持っていないはずだ。古代ギリシャ風の白いワンピースを着ているので、他の護衛官の制服と違うから護衛官でないのはわかる。では、なぜシマクレスと共にいるのだ?シロンの頭は混乱した。アイリス、シマクレス、カルスの姉ミレネ・・・どういう関係だろう。シマクレスは間違いなくあの写真の男だ。だが、実際の人物は見目好く、頭がよさそうで、高潔な雰囲気が漂っている。完璧な紳士に見えた。その紳士が演説台を降り、護衛官とアイリスを連れて退出する姿をシロンは見送った。

 そのあと、シロンはライオスの所へ行こうと思ったが、すでにライオスの姿は行政長官オクティスと共にアゴラから消えていた。

 

 

 その次の日の朝、シロンがキングサイズのベッドで眠りをむさぼっていると、ドアをノックする音がした。

 シロンは目覚まし時計を見た。七時だ。

「誰だよ。まだ眠らせてくれよ。まだ大学は始まらないはずだろ?」

そんな独り言を言いながらパジャマのままドアを開けると、外にいたのはライオスだった。

「ライオス!」

シロンは喜びのために完全に目が覚めた。ライオスは白い護衛官の服ではなく、私服の白いシャツとジーパンでスニーカーを履いている。そのライオスは言った。

「俺、今日は非番なんだ。昨日の入学式でオクティスの護衛をしながらアゴラを見渡していたらおまえがいるんだもんな。そうか、受かったのか、って俺は嬉しかったよ」

シロンも笑顔で言った。
「え?おまえ気づいていたのか?そうは見えなかったぞ」

「そう見せないのが護衛官だ。仕事中は」

「そうか、もう働いてるんだな」

「ああ、学生じゃないんだ」

シロンは言った。
「と言うことは、今年ホバークラッシュで優勝したカルスも護衛官になるのか?」

ライオスは答えた。
「さあ、それは行政府の決めることだから。そうか、カルスがアルカディアに上がったんだな。この倫理に厳しい島に」

「カルスはどこにいるんだ?」

ライオスは答えた。
「たぶん、下部のボードパークの近くのビルだ。俺の住居もそこにある。ホバーボードで上がった者が集まる場所だ。でも、なんでカルスをそんなに気にするんだ?アイリスを気にするならまだわかるけど」

「ああ、そうだ、アイリスはあのシマクレスとかいう奴の何なんだ?」

「婚約者だ」

シロンは言葉を失った。ライオスは言った。

「あのシマクレスという人は、素晴らしい人格者だ。頭もいい。非の打ち所がない。アイリスはいい人を見つけたと思うよ」

シロンは言った。
「本当にそう思うか?ライオス、あの男は・・・」

シロンは口を閉ざした。そして言った。
「ライオスはアイリスのことをどう思う?惚れてたわけじゃないのか?」

ライオスは笑った。
「シロン、おまえこそアイリスに惚れてたんだろ?」

「ん」
シロンは言った。
「ああ、惚れていた。四年前、アイリスとおまえがアルカディアに昇った後気づいた。俺はアイリスに惚れている。アルカディアにはアイリスがいると思うからこそ四年間受験勉強を頑張れた。俺はアイリスと結婚したい。アイリスが婚約している?嘘だろ?」

ライオスは頷いた。
「俺もアイリスに惚れていたかもしれない。でも、シマクレスという人は完璧な人だ。俺たちなんかじゃ太刀打ちできないぜ。シロン、アイリスは諦めるんだな」

シロンは俯いた。

ライオスは茶色の瞳の目を細めて笑った。
「朝飯食ったか?下部に景色のいい喫茶店があるんだ。モーニングコーヒーでもどうだ?」

シロンは急に話題を変えられわけがわからなくなったが、笑って答えた。
「おお、いいな。じゃあ、着替えてくる」

シロンはパジャマからジーパンと白いティシャツに着替えてスニーカーを履いて外へ出た。

「ライオス、これ」
シロンは封筒を渡した。

「なんだ、これ?」

「マリシカからの手紙、ラブレターだ」

「マリシカから?あ、ああ、ありがとう」

ライオスは封筒をズボンのポケットに入れると、こう言った。
「ホバーボードは持って来たか?」

「ああ、もちろん」
とシロンは答えて黄色のホバーボードを部屋の中から出した。

ライオスは言った。
「今から行く喫茶店は下部の端のほうにある。ちょっと遠いからそこまでの道をホバーボードで行く。下界を見ながらのコーヒーは格別だぜ」

「おう」

ふたりはパンテオンの螺旋の坂道を下り、下部の広場に出た。ホバーボードに乗り、〇の表示がある入り口からホバーボード、ホバーバイク専用の薄桃色の道に入って東へ向かった。逆さまの黒い高層ビルの間を行く。正面からビルの谷間を差す光が見える。道幅は広く、両側には透明の高い壁がある。道は一方通行で、ビルから出る小道から通りに出るには同じ方向にしばらく平行に走りやがて合流する。まさにハイウェイだ。高度一万メートルの空の上にあるハイウェイ。やがてふたりは下部都市の東の端にある、上の地面に貼りつくようにぶら下がっている喫茶店に着いた。ふたりは店の入り口にホバーボードを立てかけて店に入った。そして、壁面全体がガラス張りの窓際の席に着いた。他にも朝食を摂る客がたくさんいた。シロンとライオスはモーニングセットを注文した。

「あれはトルコか?」
海の東側に広がる大地を見てシロンが言った。

ライオスも言った。
「ああ、旧世界ではトルコは半島だったらしいよな」

「うん、大変動ってのもよくわからないよな。大地がすべて海に没するなんて」

「まあ、古代の伝承だからな。実際の所はよくわからないけど、とにかくそれに類する人類滅亡の危機があってアルカディアに人類は逃れた、そんなところだろう」

「そのあたりの詳しい歴史もアカデメイアでは学べるのかな?」

シロンがそう言うとライオスは言った。

「俺はアカデメイアの学生じゃないけど、聞くところによるとユラトン教授っていうじいさんがその辺の研究の第一人者だというぜ」

「ユラトン教授・・・ふ~ん」

ウェイターがコーヒーとトーストとゆで卵とサラダを持って来た。

ふたりはコーヒーを飲んだ。シロンは一口コーヒーを飲んだだけで大きな声を上げた。

「う、うまい!なんて美味しいコーヒーなんだ」

ライオスは笑った。
「そりゃ、世界一のバリスタのコーヒーだからな」

シロンは笑った。
「そうか、ここはアルカディア、すべてが一流ってわけか」

「おまえ、昨日は何を食ったの?」

「部屋でパスタを食べたよ。やっぱ、一人暮らしなら自炊をしないとと思って」

「パスタは美味かったか?」

「美味かったけど、やっぱ材料がいいだけか、料理するのが俺じゃダメか」

ライオスは笑った。
「アルカディアでは外食するのがいいぜ。みんな一流の料理人ばかりだ」

シロンはトーストにバターを塗って食べ、ゆで卵に塩を振って食べ、サラダにドレッシングをかけて食べた。どれも今まで食べた喫茶店の味を超えていたので驚嘆した。

 しばらく景色を楽しみながらシロンとライオスは話をした。シロンはカルスの姉とシマクレスのことを言いたかったが、言える雰囲気ではなかった。ライオスは護衛官としてアルカディアの秩序を保つことに誇りを感じていると話し、行政長官のオクティスや立法長官の若きシマクレスを尊敬していると言ったからだ。シロンはあるいはシマクレスがカルスの姉ミレネを妊娠させたとか毒を飲ませたとかそちらの話のほうが眉唾物かとさえ疑った。ただ、ライオスにシロンはこう聞いてみた。

「ライオス、おまえはこのアルカディアは理想郷だと思うか?」

ライオスは笑った。
「なにを言ってんだよ。そう思うから、みんな一生懸命頑張ってオリンピアの祭典でメダリストになったりアカデメイアの試験に合格したりするんじゃないか。わかりきったことを言うなよ」

「そうか、そうだよな」

「ところでさ」
ライオスは笑顔で話題を変えた。
「今から、ボードパークに行かないか?アルカディア下部のボードパークはすごいぜ」

「おう、いいな」
シロンも笑顔になった。

 

 

三、カルスの志

 

 ボードパークはアルカディア下部都市の最下部、北東隅にあった。高層ビルの底に幾本もの柱でぶら下がった形で浮いている。練習用のリンクあり、ホバークラッシュ用の小さな闘技場あり、スピードレース用のトラックあり、ハーフパイプもあった。そこには当然歴代のメダリストが技を競っていたし、アマチュアも大勢楽しんでいた。その中にカルスの姿があった。彼はハーフパイプで技を披露し喝采かっさいを浴びていた。

「今年の金メダリストか」

誰かが言った。

「四年前の金メダリストとはライバルだったそうじゃないか」

「ああ、あの背の高いライオスという男か」

ボードパークで話す人々の声はそこに来たばかりのシロンとライオスの耳に入って来た。

ライオスはシロンに言った。
「帰ろう。カルスの奴が俺の姿を見たらまた面倒なことが起こりそうだ」

シロンは答えた。
「俺はカルスに話がある。先に帰ってくれ」

ライオスはシロンの「話」というものが何なのかわからなかったが、自分には関係ないことだと考え帰ってしまった。

 シロンはカルスの滑走が終わるのを待った。

 カルスは滑走が終わりハーフパイプの縁に立つと、シロンの姿を目にとめ歩いて来た。

「シロン、なんか用か?」

シロンは言った。
「おまえの姉さんを妊娠させ毒を飲ませた奴がわかった」

カルスは急に表情を変えて言った。
「誰だ?」

「シマクレスという奴だ」

「シマクレス?」

「アルカディアの立法長官だ」

「立法長官?」

「最高権力者のひとりだ」

カルスは笑った。
「そうか、こりゃおもしろくなってきたぞ。世界の最高権力者のつらにホバーボードの裏面を舐めさせてやって、姉ちゃんの前で土下座させて謝らせる」

シロンは言った。
「だが、周囲の評判では、シマクレスという人物は人格者だ。本当にそんな悪いことをした過去があるのか・・・」

カルスは言った。
「おまえが、たった今、そいつを犯人だと言ったんじゃないか。もう、それに疑問を持つのか?」

「ああ、たしかにあの写真の男だ。間違いない。でも、本当にあの男が毒を飲ませたり妊娠させたりしたのか、自信がない」

「なぜ、自信がないんだ?人格者?は、笑わせる。みんなにそう思わせている化けの皮を俺が剥いでやる」

「でも、間違いだったら・・・」

カルスは笑った。
「間違っていてもいいさ。世界最高の権力者だろ?そいつにホバークラッシュを喰らわせられたらたとえ人違いでもスカッとすらぁ」

「何を言ってるんだ。やっぱりただのテロリストだろ?」

「だから、テロリストとか既存の尺度で断定すんな。俺には俺の思想があるんだ。そこに価値観の違いがあるんだ。アルカディアの法律が必ずしも正しいわけじゃないんだ。そんなもん俺がぶっ壊してやらぁ」

「ぶっ壊してどうするんだ。もし人違いだったら、おまえの姉さんの敵討ちってのはどうなるんだ」

「そうだな。だが、ここにペンダントがある」

カルスは懐からロケットの付いたペンダントを取り出した。ロケットにはシマクレスと姉のミレネが裸で写っている。

「とにかく俺がこの目でそのシマクレスって奴の顔を確認する。戦略はそれから練る」

「ああ、そうしろ。俺は不正義は許せない。だが、テロはもっと許せない。そのことを頭に入れておけ」

「は?なんでおまえの正義感を俺が意識しなくちゃならないんだ?おまえは俺の監督人か?俺は俺のやり方で行くぜ」

「独りでできるのか?」
シロンは黒い瞳でカルスの緑の瞳を見つめた。

カルスは言った。
「おまえ、協力してくれるのか?」

「俺はテロには加担しない。だが、権力者の不正義を暴くのには助力する」

そう言ったときシロンはアイリスの顔を思い出した。シマクレスの婚約者アイリス。シマクレスの不正義を暴いたらアイリスはどうなるのか?代わりにシロンを愛してくれるのか?シロンにはわからなかった。

カルスは言った。
「じゃあ、シマクレスの不正義を暴く、そこに俺たちの共通目標があるってことだな?」

「そうだ」

「俺にはこのペンダントの他にもうひとつ、姉ちゃんから預かった大事な物がある。それは姉ちゃんからのシマクレスへの手紙だ。もちろんシマクレスという名前はない。だが、仮にそいつが犯人だったらその手紙を使うことで奴を失脚させることができるんじゃないかと考えている。いや、失脚どころじゃない、下界のどこかにある刑務所行きだ。このふたつのアイテムをどう使うかですべてが決まる」

「どう使うつもりだ?」

「戦略は本人かどうかを確認してから練る、二度言わせるな」

シロンは訊いた。
「どうやって確認するつもりだ?おまえは下部の住人だから立法長官に会う機会なんてないんじゃないか?」

「それもこれから考える。もし確認できたらとにかく一発クラッシュをお見舞いしてそれから奴の罪を償わせる」

「一発お見舞いしたところで分が悪いのはおまえだぞ」

「うるせえな。とにかく作戦は俺が考える。おまえはそれに協力してくれればいい」

シロンは言った。
「でも、俺は暴力は反対だぞ」

「ほんと、癪に障る奴だな。じゃあ、協力なんかしてくれなくていい。俺は独りでやる」

「相手は立法長官だぞ」

「うるせえ、そんなのにビビってたまるか。おまえは協力するのか止めてるのかわからねえ奴だ。ムカつく。あばよ」

カルスはホバーボードに乗ってハーフパイプを滑って遠くに行ってそのままボードパークから出てビルの底部にあるエレベーターに乗って上に行ってしまった。

 

 

四、アイリスとシマクレス

 

 立法長官公邸は島の上部北端の凱旋門内アゴラ近くにある白亜の宮殿だ。そこに立法長官のシマクレスが召使いたちの世話を受けて暮らしている。

 婚約者のアイリスはまだ結婚していないため、凱旋門の外の都大路西側の邸宅に住んでいる。アイリスは自由市民となったばかりで、まだ両親をアルカディアに呼んでいなかった。結婚式には呼びたいと思っていたが、試験勉強に忙しく機会を逃していた。ひとり暮らしだが家政婦が二名いる。この家政婦はカルスの姉ミレネのような家政のスペシャリストとしてアルカディアに来たのではない。じつは空手や柔道などのメダリストだ。女性の格闘家は女性の自由市民の護衛官となることもある。中には女性のホバーボーダーもいる。ホバーボードはその機動性が格闘技にはない物として尊重されている。

 

 

 アイリスは毎日、立法長官公邸に通っている。仕事はしていない。それが自由市民の特権だ。毎日、シマクレスの側で遊んでいる。シマクレスの執務中は、ピアノを弾いたり、絵を描いたりなどして過ごしている。そして、シマクレスと夕食を摂ったら、家に帰るのだ。アイリスは今、人生を堪能していた。アイリスは昔から学業と趣味を両立させてきた。今は学業から解放されて趣味に打ち込むことができるようになった。だが、長年学業を務めてきた習慣から学業をやめてしまうことはなかった。アイリスは新聞を読んだ。図書館で借りた書物を自宅に持ち帰って読んだ。政治についての書物だ。立法長官の妻に相応しい女性になるための勉強だ。もちろんそんなものは学生時代に充分勉強してきていたが、アイリスの性格上充分ということはありえなかった。

 シマクレスが仕事から帰ると、古代ギリシャ風の白いワンピースを着たアイリスは玄関で出迎えた。

「お帰りなさい」

「ただいま」

そこで必ずふたりはキスをした。

 シマクレスはアイリスが昼間に描いた絵を見て言った。
「ほぉ、これは旧世界だね。旧世界のジパングだね」

「さすが、シマクレス、教養があるわね」

「ふふ、ぼくを甘く見ていないかい。ぼくはこのアルカディア生まれアルカディア育ちなんだ。世界の情報はすべてここに集まるんだ。物心ついた頃からそういった情報の中にいたんだからね。ほら、この小さく見えるのは富士山だろう?」

「そうよ、さすが」

「でもね、アイリス、京都から富士山は見えなかったはずだよ」

「知ってるわよ、そんなこと。絵は写真じゃないのよ。この絵は日本のイメージを凝縮してみただけ。さあ、食堂へ行きましょう。今晩の料理は日本の懐石料理にしてもらったわ」

「おお、アイリス、夕食に芸術を合わせるなど、さすが君だ。なんだか旧世界の日本に行ったことがあるような気がしてきたよ」

 ふたりは食堂へ向かった。

食堂にはシマクレスの両親がいた。婚約者ながらアイリスはシマクレスの家族のようになっていた。シマクレスの両親もアルカディア生まれアルカディア育ちだ。品があり人間のお手本のような人たちだ。

シマクレスは食卓に着くと言った。
「今日はホバーボード禁止法案を議論してきたよ」

母親は言った。
「で、どうだったの?あの野蛮な乗り物は禁止になりそうなの?」

シマクレスは答えた。
「ぼくが絶対、禁止に持っていくよ。とくにあのホバークラッシュ、あれは危険すぎる。結論から言うとスポーツとしてはスピードレースが残って、移動手段としては禁止の方向で行くよ。ホバーボードの交通事故が多いからね。危険は未然に防がないと。アイリスはどう思う?」

アイリスは言った。
「たしかに、ホバーボードは危険ね。とくにホバークラッシュは野蛮だと思うわ。わたし、じつは幼い頃からホバーボードには乗っていたの」

シマクレスの父親は笑った。
「ほほほ、さすが、下界育ちだね。たくましいお嬢さんだ」

アイリスは言った。
「でも、シマクレスの意見を聞いて納得しました。ホバーボードの愚かさを」

シマクレスは言った。
「うん、ぼくはこのアルカディア上部になぜコロッセオがあるのか疑問なんだ。昔は剣闘士が殺し合っていたそうだ。それが今ではホバークラッシュだ。あんなもの大衆のつまり愚者たちのスポーツだ。あんなものに熱狂するのは人生を無駄に過ごしているとしか思えない。なぜ、その愚者たちのスポーツの会場が上部にあるのか。ぼくはね、せめてコロッセオを下部に移設したい。あれは上部にあってはいけない」

アイリスは言った。
「素晴らしい意見だわ」

シマクレスは言った。
「ぼくの理想は争いのない世界を作ることだ。そうなると勝負を決めるゲームはすべて禁止することになる。ぼくはそれでいいと思う。人間の優劣は人としての品格以外の尺度で決めるべきではないからね」

アイリスは言った。
「本当に同感です。品格は数字や形にできないので愚者には理解できないけど、学問を積んだわたしたちには明らかにわかるものですからね。わたしたち、自由市民が禁止してあげないと愚者たちはいつまでも愚者ですものね」

シマクレスの父親は言った。
「アイリス君はまるで生まれも育ちもアルカディアみたいだね」

アイリスは笑った。
「ありがとうございます。そう言って頂けると嬉しいです」

シマクレスの父親は言った。
「シマクレスよ、おまえたちはいつ式を挙げるのだ」

シマクレスは言った。
「今日にでも挙げたいのですが、なにか政治的に記念となることをしてからにします」

「具体的には何をしたらなんだね?」

「さっき言った、ホバーボード禁止法案の可決です」

シマクレスがそう言うと、アイリスは笑顔で言った。

「じゃあ、ホバーボードが禁止されたらわたしたちは結婚できるのね。ああ、わたし、天にも昇る気分よ」

シマクレスは言った。
「ここはもう天の上だよ」

一同は笑った。

 食事が終わるとアイリスは伴の者と自宅へ帰った。

 

 

第二章    愚者たちの地球

 

一、 ユラトン教授

 

 アカデメイア最初の授業は歴史だった。新入生全員が大講堂に集まって歴史の講義を聴くのだ。大学側からはこの講義は必修で必ず出るようにと固く言われていた。

 大講堂は階段状に学生の席があり、一番下に教壇と黒板があった。

 授業開始のベルと共に老教授が大講堂に入って来た。腰の曲がった灰色の髭を蓄えた老人男性だ。彼は教卓の後ろに立つと言った。

「わたしの名はユラトンと言います。ユラにトンと書いてユラトンと読みます。歴史学者です。今日、初日は大変動の真相から語りたいと思います。地殻の大変動で海に大地が没したと言われています。そこで、人類はアルカディアを空中に浮かべそこに逃れたと言われています。そして、何千年後かに再び大地が現れ、そこに人類は再び降り立ったことになっています。ここまではよろしいでしょうか?」

講堂は静かになっている。

「しかし、これは出鱈目でたらめです。そもそも、地殻の大変動などは起きていません」

「え?」

シロンは驚愕した。今まで自分が信じてきた歴史、その根幹の部分が出鱈目だというのだ。

「地殻の大変動など起きていない?」

講堂内はざわついた。

「お静かに」

ユラトン教授は続けた。

「当時、地球には五百億人の人口がいました。その社会は混沌としていました。大衆、つまり愚者どもが主導権を握る世の中だったのです。政治も文化も多数派の愚者たちのためにあるようになりました。そこで品格高く、高潔で能力の高いギリシャ人を中心とした人格者たちがアルカディアという都市型の宇宙船を浮かべ愚者たちの世界から抜け出しました。ギリシャ人に高潔で能力の高い人格者が多かった理由は、当時ギリシャ・ルネッサンスが起こっていたからです。学問の中心はギリシャでした」

シロンはわけがわからなかった。アルカディアが宇宙船?

 ユラトン教授は続けた。

「賢者たちを乗せた宇宙船アルカディア号は新天地を求め宇宙に旅立ちました。そして、地球にそっくりな星を見つけ、そこに降り立つことにしました。まず、ギリシャ人が多かった賢者たちは首都の場所を選びました。そして、選ばれた場所が現在のネオ・アテネなのです。そのようにして賢者たちは古名を大地に次々と与えていきました。それがみなさんが現在、『地球』と呼んでいるこの惑星です」

シロンは挙手して質問した。

「先生、それではこの地球の他に、もうひとつ地球があるということですか?」

ユラトン教授は答えた。

「落ち着いて聴いてください。そうです、この宇宙にはわたしたちの祖先が捨てて来た愚者たちの地球があるのです」

講堂内はなおもざわざわしていた。ユラトン教授は続けた。

「しかし、わたしたちの祖先にも誤算がありました。それは、新しく選んだ地球にも愚者たちが現れるようになったのです。なぜ、社会は愚者、つまり大衆を生むのでしょう。仕方なく祖先たちは品格のあるものだけが入れる聖域としてアルカディアを世界に君臨させることにしました。しかし、祖先たちの思いもよらなかったことに、アルカディアの住民にも愚者が現れるようになったのです。祖先たちはさらに手を打ち、アルカディアを上部と下部に分け、下部に愚者を追いやり、上部には楽園を保存することにしました。しかし、愚者は次々と現れ、アルカディアの賢者たちは次々にその政治問題を解決する手を打たなければならなかったのです」

 

 

 その夜、シロンは眠れなかった。寮を出て、庭園を歩いた。エンペドクレスの飛び込み台近くに行き、その野原で星空を見上げた。

「この宇宙のどこかに人間の暮らす地球がもうひとつ、愚者たちの地球、俺たちの先祖の故郷があるのか」

 

 

二、 密航者

 

 翌日、シロンはアカデメイアの講義を終え、都大路をパンテオンに向かって歩いていた。すると前から警察官数名に引かれて両手を縛られた若い女が歩いて来た。背が低い黒髪の女だ。シロンは遠目に見ていたのでその女の顔は見えなかった。次第に近づいてきて顔の造作がわかってくると、シロンは目を疑った。十メートルほどの近さになるとシロンは声を上げた。

「マリシカ!」

若い女は顔を上げ、シロンを見た。

「シロン先輩!」

「どうしたんだ?なぜここにいる?しかも縛られて?試験には落ちたんだろ?」

マリシカは涙を流しながら笑顔を見せて言った。
「空中列車に忍び込んで密航しようとしました。ライオス先輩にどうしても会いたくて」

警察官のひとりがシロンに言った。
「あなたはこの女と関係があるのか?」

「その子は下界にいたときの学校の後輩です」

シロンがそう言うと、警察官は言った。

「では、あなたも来てください。アゴラで裁判をします。密航者は取り調べなくすぐ裁判、すぐ刑に処し、追放するのがアルカディアの法律です」

「密航者の刑罰はたしか・・・」

シロンが受験勉強でやったことを思い出そうとしていると、思い出すより先に警察官が言った。

「目潰しの刑です」

シロンはゾッとした。

マリシカは泣き叫んだ。
「嫌よ!やめて!わたしはただライオス先輩に会いたかっただけ、また四年後に試験を受けて合格して、それから会うんじゃ、あの人は他の人と結婚しちゃう。目潰し?そんな、許してください!」

警察官たちは暴れるマリシカを無理矢理引っ張って、大きな凱旋門のほうに連れて行った。

 シロンは警察官に囲まれたマリシカを追い抜き、走って大きな凱旋門のほうへ急いだ。

「シロン先輩!わたしを見捨てるんですか?」

マリシカは泣き叫んだ。シロンは後ろを振り返り叫んだ。

「ライオスは行政長官オクティスの護衛官をやっている。行政長官の権力で何とかならないか懇願してみる。もし、それがダメならアイリスの婚約者で立法長官のシマクレスに懇願して来る。だから、マリシカ、安心しろ。目は潰させない。無傷で下界に帰す」

マリシカは叫んだ。
「ライオス先輩に会わせて!すべてはそれから・・・」

「わかった。ライオスを探してくる」

シロンはそう言うとくるりと背を向け高さ十五メートルの凱旋門に向かって走り出した。凱旋門の向こうには高さ三十メートルの白いピラミッドが見える。

 行政府は凱旋門から入ってアゴラに出ると右側の柱廊の背後にたくさんの白い古代ギリシャ風の建物としてある。立法府や司法府に比べ行政府はその事務が膨大であるため建物の数も多い。また、ここで賄いきれない仕事は下部の高層ビルにいる役人が行う。

 シロンは行政長官公邸の三人いる門番のうちひとりに言った。
「オクティスの護衛官のライオスはここにいますか?」

門番は言った。
「君は何者だ?」

「ぼくはアカデメイア学生のシロンという者です。ライオスは親友です。ライオスを呼んでください」

「勤務時間が終わったらではダメなのかね?」

シロンは言った。
「今すぐでなければ意味がないんです」

と、そこへ司法府からの使いが来た。
「今から裁判と刑の執行がある。行政長官にお出まし願いたい」

門番は、わかりましたと言うと公邸の中に入って行った。

しばらくすると、オクティスが護衛官に囲まれて歩いて出て来た。その中にワインレッドのベレー帽の制服を着たライオスもいた。シロンはライオスに声を掛けた。

「ライオス、大変だ。マリシカが密航した。逮捕されて、今から裁判にかけられ目潰しの刑に処される。オクティス、なんとかなりませんか?」

オクティスはひとこと言った。
「法は法だ。守らねばならない」

シロンは何も言えなくなった。ライオスも何も言わずシロンの前を通り過ぎた。シロンはオクティスたちがアゴラに向かって歩いて行くのをしばらく見送った。

 シロンは立ち止まっている場合じゃないと、オクティスたちを走って追い抜き立法長官公邸に向かった。立法長官公邸は大きな凱旋門を入ってアゴラに出ると左手の柱廊の背後にある。だが、そこまで行く必要はなかった。すでにアゴラを囲む回廊の北側の立法長官席にシマクレスは座っていたからだ。後ろにはアイリスが立っている。アゴラの真ん中には両腕を縛られたマリシカが座っている。その周りには多くの市民がいる。シロンはアイリスとシマクレスに近づいた。

「アイリス、シマクレス長官。あの子を救ってあげられませんか?せめて目潰しは回避させて欲しい」

シロンが言うと、シマクレスは言った。

「愚者には密航の罪がどんなに重いかをわからせてあげなければならない。密航を企て、アルカディアに侵入した愚者がどんなに恐ろしい目に合うかを下界人にわからせてやるのだ」

シロンは言った。
「でも、マリシカは恋人に会いたくて、その思いが強すぎてこんなことをしてしまったんです。情状酌量の余地はありませんか?」

「ない」
シマクレスは答えた。
「甘い前例を作ることはできない。密航者はいかなる理由があれ目潰しの刑だ。資格のないのにこの聖なる島の景色を見たその目は潰さねばならない」

シロンは言った。
「アイリス、何とか言ってくれ。かわいい後輩が目潰しの刑に処されようとしてるんだぞ」

アイリスは答えた。
「マリシカは犯罪者になってしまった。もう後輩でも友達でもありません。わたしの友達に犯罪者は要りません」

シロンはアイリスの両肩を掴んで言った。
「おい、アイリス、おまえは・・・」

そこでシロンは護衛官に抱えられアイリスから引き離された。

「長官に無礼だぞ。君はただの学生だ。立法長官に懇願する立場にはない。ここでアルカディアの法を学ぶいい機会だと思え」

シロンは護衛官に引っ張られアゴラの真ん中にいるマリシカを囲む市民の輪に加えられた。

 北側の柱廊にある壇上の演説台に司法長官が現れた。頭は禿げあがり白い髭を蓄えている。 

 検察官が罪状を読み上げた。

「この者、密航を企て、空中列車に忍び込んだ。そして、このアルカディアの駅に入ったところでその身を拘束されここに至る。裁判長、司法長官殿、判決はいかに?」

司法長官は重々しい声で言った。
「その者を目潰しにし、即、下界へ追放せよ」

司法府の人間がマリシカの周りに集まり刑の執行の準備を始めた。

シロンは驚いた。
「これが裁判か?理想郷アルカディアの裁判か?」

 マリシカは寝台に横たえられ、両手両足を寝台に繋がれ身動きできなくなった。口にも猿轡さるぐつわを噛まされ声を出せなくなった。

 執行官が司法長官のもとから歩いてマリシカに近づいた。手には針を持っている。

アゴラは静かになった。

執行官はマリシカの顔を見下ろす位置に立ち、まず、右目を針で突いた。マリシカは身をよじろうとしたが捩ることすらできないくらいに縛られていた。次に執行官はマリシカの左目を突いた。右目の瞳も左目の瞳も白く混濁した。こうしてマリシカは光を失った。

シロンは地面に両膝を突いた。
「ああ、俺は無力だ。なにがアカデメイア学生だ。エリートだ。俺にはなんの力もない」

すると、マリシカの所に駆け寄った男がいる。ライオスだ。
「マリシカ、俺だ、ライオスだ」

マリシカは執行官により縄をほどかれ猿轡さるぐつわを外された。

もう目の見えないマリシカは微笑みをたたえた。
「ああ、ライオス先輩。会えた。よかった。でも、わたしにはもう、ライオス先輩の顔を見ることはできません。お願いがあります。わたしと共に下界へ降りて一緒に暮らしましょう」

ライオスは黙った。そして、言った。
「俺はアルカディア人だ。自由市民ではないけれど、この空中都市で、世界の中心にいたい。悪いけどマリシカの願いは叶えてやることはできない」

マリシカは泣いた。血の涙だった。

 マリシカは追放された。

 囲んでいた自由市民たちは口々に言った。

「やっぱり愚者は愚者ね」

「わたしたちは自由市民で良かったなぁ」

 

 

 夕暮れ時、私服になったライオスは庭園の最南端、エンペドクレスの飛び込み台近くの野原で、ギリシャ遺跡の倒れた柱に腰掛け、マリシカからの手紙を泣きながら読んでいた。

 

ライオス先輩へ

わたしがライオス先輩を好きになったのは、あの校舎裏でカルスたちに絡まれていたときです。あなたはわたしを守るためにボロボロになって戦ってくれましたよね。わたしは男性から身を守られたのは生まれて初めてでした。それ以来、あなたのことが好きで、ホバーボード部のマネージャーであることは幸せでした。わたしはあなたと結婚することを夢見るようになりました。できればアルカディアで一緒に暮らしたい。でも、わたしは試験に落ちました。次の試験は四年後になってしまいます。これではわたしはライオス先輩に八年間会えないことになります。それに四年後の試験で合格する自信はわたしにはありません。なぜ、この世の中はこんなにも恋人の運命に残酷なのでしょうか。アルカディアに行くことは本当に幸せなのでしょうか。わたしは最近、空中都市よりも下界で暮らすほうが幸せであるような気がします。もちろん好きな人が近くにいればの話です。ライオス先輩、降りてきてください。下界に降りてきてください。わたしのもとへ降りてきてください。そして、わたしと結婚してください。それとも、やっぱり一流であるという快感のほうが素朴な幸せよりもお好きですか?わたしと幸せな家庭を築きましょう。愛しています。

マリシカ

 

 
 ライオスは顔をくしゃくしゃにして号泣した。

「俺はなんのためにアルカディアにいるのだろう?オクティスの護衛官になるためだったのか?二十二歳で護衛官になるのはホバーボーダーで最速の出世だと言われている。だが、そのことにどんな価値があるのだろう。ちやほやされるのがそんなにいいか?」

泣いているライオスの前にいつのまにか中高年の小太りで頭の禿げた男性がひとり立っていた。ライオスはそれに気づいた。

「誰です?」

「ちょっと待ったおじさんです」

「ちょっと待ったおじさん?」

「そうです。あなたはエンペドクレスの飛び込み台の近くで手紙を読んで泣いている。わたしのかんではあなたは自殺を考えている」

「考えていませんよ」

「だが、あなたは泣いている。話してみなさい。その事情を」

「なぜ、赤の他人であるあなたに?」

「わたしはちょっと待ったおじさんとして十年ほどここにいる。わたしは自殺志願者を何人も思いとどまらせてきた。あなたの気持ちを聞かせてもらえないか?」

ライオスは言った。
「俺は行政長官の護衛官をやっています」

「ほう、高い地位ですね」

「でも、女性ひとりを守ることができなかった。自分の無力に失望しました」

「人間は皆、無力です」

「俺はホバーボードで金メダルを獲り、アルカディアに上がった。そして、護衛官にまでなった。俺は本当にそんなものになりたくてアルカディアに来たのか。いや、違うと思います。ただ、一流と認められることに酔っていただけなんです。俺は今後、自分をどうしたらいいかわからないんです」

ちょっと待ったおじさんはしばらく黙ってから言った。
「あなたには志はありますか?生きる目標はありますか?」

「生きる目標ですか?そうだな、三十歳過ぎてもアルカディアで暮らしていくことでしょうか。いや、その思いも今は疑問です」

「たしかに、そんなつまらない目標では疑問も持つでしょう。志は自殺を防ぐ予防薬です。何かを成し遂げたい。そんな志を持ちなさい」

「志ですか?」

「志とは、例えば社会のどこかを良くしたいとかそういう思いを持つことです」

ライオスは考えた、このアルカディアの疑問点を。すると、それは思いのほか多いことに気づいた。

 ライオスは立ち上がった。

「ちょっと待ったおじさん、ありがとうございました。まだ漠然とですが、志が見えてきたような気がします」

ちょっと待ったおじさんは笑顔で言った。
「そうです。若者はそうでなくちゃ」

ライオスはその場をあとにし、庭園から出て、パンテオンを降りて、下部にある自分の住居に戻った。

 

 

三、 歴史哲学

 

 シロンはしばしばユラトン教授の自宅に質問をぶつけに行った。ユラトン教授もこの若い好奇心旺盛な若者を歓待した。研究室には大きな書棚があり古文書が並んでいる。机の上は書物で散らかっていて、飲み干したばかりのコーヒーカップが置かれてある。

「先生、本当にこの宇宙にもうひとつ地球があるのなら、そして、このアルカディアが本当に宇宙船であるのなら、そのもうひとつの地球に行くことはできますか?」

ユラトン教授は言った。
「できる」

ユラトン教授はひと言そう言い、少し唾を飲み込んでから続けた。
「君は行きたいと思うか?」

シロンは答えた。
「行けるものなら」

「だが、行くまでに数千年かかる」

「数千年?」

「それに今、このアルカディアが宇宙船としてこの地球から去ったらこの地球はどうなる?混沌としてしまうだろう」

「でも、ぼくはもうひとつ地球があると知って、ふたつの地球は連絡を取り合うべきだと考えました」

「なぜだ?」

「え?だって、おかしいじゃないですか?同じ人間が何の連絡もなく別の星に住んでいるなんて」

「もうひとつは愚者の星だぞ」

シロンは主張した。
「愚者ってなんですか?そんなにアルカディア自由市民とそれ以外の人間に差があるんですか?」

ユラトン教授は顎髭あごひげを撫でて言った。
「ほう、君は愚者が好きか?」

シロンは考えて言った。
「愚者の定義がわかりません。この前、密航を企て目潰しにあったマリシカはアルカディア人ではありませんがいい子です。それにこのアルカディアの権力者には悪い人間がいます」

「悪い人間?誰だ?それは?」

「今は言えません。とにかくぼくは愚者と賢者に人間を分けて考えることがおかしいと思います」

ユラトン教授は笑みを浮かべた。
「ふふふ、その発言、犯罪的だぞ」

シロンはそう言われると怖くなった。だが、次のユラトン教授の言葉でその恐怖はなくなった。

「わたしもそう思う。愚者と賢者の境い目などない」

「え?」

「この宇宙船アルカディア号には操縦席がある。千年以上自動操縦になっているため現代人が入ったことはないがな。もうひとつの地球へ行こうと思えば行ける。だがな、行ったところで意味はないとわたしは思っている。人間の幸福には関係ないのだ。もうひとつの地球では科学者は貪欲で、宇宙の構造を解明しようとしていた。そのために政府は巨額の費用を投じた。社会問題を棚上げにしてだ。いわゆる賢者たちはそれを嘆いた。節度のない科学を。賢者たちはすべての生物の幸福のために科学があると信じた。それを実現するためにアルカディアを造りこの星に移住したのだ。君のように知識欲旺盛で何でも知ろうとすることを美しく思わない倫理が生まれたのだ」

「でも、真実の歴史を知ってしまった以上、もうひとつの地球のことがぼくの頭から離れません」

「ではこういうのはどうかな?」
ユラトン教授は笑顔を見せた。
「わたしが言った、もうひとつの地球があるというのは嘘だ」

「え?」

「やはり、地球には地殻の大変動があり大地は海に没した。そして。アルカディアに逃れた人々は洪水が終わると大地に再び降りた。それが真実の歴史だ」

「で、でも、もうひとつの地球があるという説は・・・?」

「それも真実だ。どの歴史の中を生きるかは本人の自由だ。だいたい歴史などいくらでも作られる。君にとっての生きやすい歴史が君の歴史だ。わかるか?」

「でも、もうひとつの地球があるというのは事実ですよね?」

「何を信じるかで事実は変わってしまうものだよ。それとも君はもうひとつの地球があると考えて生きたほうが幸せか?」

「じゃあ、なぜ、先生は最初の講義で、もうひとつの地球のことを教えたのですか?」

「それは、政府がそうしろと言ったからだ。アルカディア自由市民にとって愚者たちの星を抜け出してきたという選民思想は重要だと考えられているからだ。そのために現在のアルカディア自由市民と愚者という身分制度ができているのだ。しかし、賢者と愚者を分けないという危険思想を持つわたしは、アルカディアは地殻の大変動の際に洪水から逃れるため人々が浮かべた島であるという歴史を信じる」

「嘘の歴史を信じるのですか?」

「そうだ。いや、というか、今後の政府の指示通りに行うわたしの授業をきちんと聴いていれば大洪水のほうを真実の歴史であると信じるようになる。選民思想を持ちながら、愚者に秘密をばらさないほうが世界のためだと理解するようになる。結局は私個人が信じる歴史と政府の指示で教える歴史は同じものとなる。嘘でも行動原理とすればまことになるものだ」

「でも・・・」

「アカデメイアの授業を聴いていれば、別の地球から来た賢者たちが我々の祖先であるという真実を持ちながら、実践的な真実として大洪水説を信じるようになるのだ」

「でも、真実は、大洪水説ではなく、もうひとつの地球があるという説ですよね?」

「まあ、どう考えるかは君次第だ」

 

 

四、 ホバーボード禁止法案

 

 アゴラで立法議会が開かれた。何百人という自由市民が集まった。傍聴する学生や自由市民ではない役人など関係者を含めれば数千人が集まった。議題は「ホバーボード禁止法案について」。この法案を出したのは立法長官であるシマクレスだ。

 シマクレスはアゴラ北側の柱廊にある演説台で演説した。

「ホバーボードは大変危険な物です。毎年何件も交通事故が起きている。それに、アルカディアでこそないが、下界ではホバークラッシュをケンカの手段として行う若者がいると聞いています。ホバークラッシュはスポーツとしても野蛮であんなに危険な物を行わせることを賢者として容認するのはいかがなものかとわたしは考えています。しかも、その野蛮なスポーツを上部のコロッセオで行うのは品格あるアルカディア上部を穢しているように思われてなりません。コロッセオでは昔、剣闘士が殺し合っていたそうです。なぜ、そんな野蛮な行事がアルカディアで行われていたのでしょう?これはたぶん、アルカディアが時間を経るうちにその住民が愚者化していった証拠であると思います。わたしはコロッセオつまり円形闘技場を下部に移設すべきだと考えます。いや、下部にあることさえ間違いだ。このアルカディアから争いごとを排除するためにコロッセオは取り壊すべきです。それから、今申し上げたように、争うことは愚かです。勝ち負けを決めるゲームはアルカディアから排除すべきです」

シロンは質問した。
「それでは下界の人々はオリンピアの祭典で勝負をしてアルカディアに勝ち上がるために人生を賭けるのですが、それも禁止すると?」

シマクレスは答えた。
「それは下界の話。下界で熾烈しれつな戦いを勝ち上がった者は、一流人としてアルカディアではもう勝負はしなくてよいとします」

シロンは言った。
「将棋や囲碁などの勝ち負けのあるゲームをアルカディアでは一切禁止にするのですか?」

シマクレスは答えた。
「そうです。勝ち負けを決めるのは愚かです。人間の価値を決める尺度はそんなところにあってはなりません。人間の価値は品格、人格で決まるのです。その品格、人格を見極めるために学問があるのです」

アゴラはざわめいた。ゲームを禁止したら人々の娯楽はどうなるのだろう?

シマクレスは言った。
「勝ち負けのない娯楽はあります。芸術です。音楽に勝ち負けはありません。良し悪しはあってもそれは勝ち負けではありません。演劇にも勝ち負けはない、それぞれの作品にはそれぞれの価値があるのです。そもそも勝ち負けというのは遠い我々の祖先が戦争を始めたときから現れた概念です。今、アルカディアが統治するこの世界に戦争はありません。戦争の火種を消すためにも勝負事は世界から排除すべきなのです。勝負事で喜ぶのは愚者です。下界で直ちに勝負事を禁止することは難しいでしょう。しかし、このアルカディアではそれが可能とわたしは信じます。争いのない世界を作ろうではありませんか」

拍手喝采が起きた。喝采が終わるとシマクレスは続けた。

「そのための最初の一歩として今日の議題であるホバーボード禁止法案があるのです。ホバーボードの起源は、旧世界にあります。旧世界ではスケートボードと呼ばれていました。それはストリートスポーツでした。ストリートスポーツとは字義通り、路上のスポーツです。そのイメージはスラム街に通じます。貧困層のスポーツです。エリートはそんなスポーツをやりませんでした。わたしたちエリートであるアルカディア人が本来手を出すべきスポーツではないのです。たしかに、ホバーボードは乗るだけならば勝負ではありません。しかし、ホバークラッシュは勝敗が明らかで野蛮です。それとわたしが本当に言いたいのはストリートスポーツは治安の悪化に繋がるということです」

そのとき、演説台の横で行政長官オクティスの護衛に立っていたライオスが口を挟んだ。
「すみません、立法長官、わたしはホバーボードを使って行政長官の護衛をしています。ホバーボードは治安の役に立っていると考えます」

すると行政長官オクティスはライオスに言った。
「こら、君。君は自由市民でもアカデメイアの学生でもない、発言権はないぞ」

シマクレスが言った。
「オクティス。かまいません。その意見の反論をしたいと思います。ホバーボードは治安に役立っている。ふむ、たしかにそう見ることもできます。ただ、こう付け加えねばなりません、『それが正義の側の手にあるときは』です。だから、わたしは、とりあえず一般人のホバーボードの禁止を提案します。今日の議題であるホバーボード禁止法案の一部を公布施行したいと思います。その議決を求めます」

演説台の前に投票所が設けられた。投票権のある何百人もの自由市民はその前に並び、自分の名前を言い、投票用紙を受け取り、〇✕を選択する。〇が賛成、✕が反対。

 そして、投票が終わるとすぐに開票された。そして、反対多数で否決された。

 シマクレスは顔を歪めた。彼は当然可決されると思っていた。市民にはホバーボードを楽しんでいる者が多数いるのだ。

シマクレスはこう言った。
「では、ホバークラッシュ禁止だけでも」

ライオスは言った。
「立法長官、そう事を急がずに今度ホバークラッシュの試合を見てください。おもしろいですよ」

「しかし・・・」

シマクレスは躊躇ためらった。そこで横からアイリスが言った。

「シマクレス、民主制では民意を反映させねばなりません。独断はいけません」

「うむ、そうか、わかった。では今度コロッセオで試合を見てみよう」

 

 

第三章    エンペドクレスの飛び込み台

 

一、カルスの決意

 

 円形闘技場コロッセオにて、プロのホバークラッシュの試合が開かれることとなった。出場者の名簿にはカルスの名があった。

 カルスはある夜、シロンの部屋を訪れた。シロンがドアを開けるとカルスが立っていた。

 シロンとカルスは夜の庭園を歩いた。そこここに外灯があるため歩くことに不便はなかった。

 カルスは言った。
「俺はシマクレスの顔は写真で覚えている。今度の試合をあいつは観戦するんだってな?」

「ああ、そうだ」
シロンは頷いた。

カルスは言った。
「俺は観客席のシマクレスの顔にクラッシュしてやるよ」

「え?」
シロンは驚いた。
「まて、それはまずい。おまえ逮捕されるぞ。っていうか、死刑かも」

「それでもかまわない」

「バカな。じゃあ、お姉さんの復讐はどうなるんだ?あいつの罪を明らかにして失脚させるんじゃないのか?」

「それはおまえとライオスに任せるよ。俺は一発、あいつの顔面を踏みつけてやりたいんだ」

「でも、おまえの正しさは証明されない」

「俺はべつに正しいと思われたいと思ったことは一度もねえよ。俺にはあいつを踏みつけてやりたいという獣性があるだけだ。そういう人間なんだ」

シロンは言った。
「でも、別の機会があるはずだ。違うか?」

「俺はな、その一撃でシマクレスを殺す気なんだ。あいつが失脚しようが何しようが、あいつが生きてるだけで俺はムカつくんだ」

「殺すって・・・、おまえの姉さんは殺されたわけじゃない。気が狂っただけだ、殺すというのは行き過ぎじゃないか?」

赤い髪のカルスは言った。
「俺はおまえも本当は嫌いだ。学歴主義に乗っかったエリートがな。だが、シマクレスはおまえなんかよりさらに上のエリート中のエリート。両親をアルカディア自由市民に持つ男だ。しかも、二十六歳で最高権力者のひとり立法長官になっている。そいつをぶっ殺せたらスカッとするじゃねえか」

シロンは言った。
「俺は殺人には協力しないぞ」

カルスは笑った。

「もちろん、これは俺の単独犯だ。そして、俺は死刑になる。だが、シマクレスも死ぬ。シロン、おまえにはシマクレスの死後に奴の名声を地に落として欲しいんだ。ペンダントとそれから姉ちゃんが書いたシマクレスへの手紙がここにある。これが奴の罪を確定する証拠になるはずだ」

シロンはカルスの両肩に手を置き、黒い瞳でカルスの緑の瞳を覗き込んで言った。
「カルス、死ぬな。いくら、おまえの姉さんの仇と言っても、死ぬことはない」

カルスは肩に載せられたシロンの左手を握り、シロンの瞳を見つめて言った。
「もう決めたことだ。俺の死に場所はアルカディアでいいんだ。元不良少年にしては上出来だ」

「考え直せ」

「手を放せ」
カルスはシロンの両手を払いのけた。
「これがペンダント。これが手紙の入った封筒」
そのふたつをシロンに手渡すとカルスは数歩下がって言った。
「シロン、そしてここにいないライオス。おまえらは俺の幼い頃からの親友だ」

カルスはそう涙声で言ってくるりと背を向け、パンテオンのほうに走って行ってしまった。

 

 

二、コロッセオ

 

 ホバークラッシュの試合当日、コロッセオは数万人の観客で埋め尽くされた。上には青空が広がっている。

この円形闘技場は昔は剣闘士が戦うため平らな地面の周りを壁が丸く囲み、その外側に階段状の観客席があった。しかし、現在はホバークラッシュ用に改修されていて、巨大な中華鍋のような形になっている。鍋の縁に低い壁がありその外側にすり鉢状に観客席が周囲を囲んでいる。

 北側の十段目にある貴賓席きひんせきには三権の長が座っていた。行政長官オクティスと立法長官シマクレス、それから司法長官。シマクレスの隣にはアイリスが座っていてその周囲に護衛官が座っている。オクティスの周囲にも護衛官がいるがライオスの姿はない。ライオスは選手としてホバークラッシュに出場するからだ。シロンは一般席の最前列、貴賓席が左の離れた所に見える位置にいた。

 選手紹介が行われた。ライオスが登場すると観客席は割れんばかりの歓声に包まれた。シロンはライオスの人気に驚いた。こんなにスターになれるなんて、もしかしたら自由市民になることよりも価値があるんじゃないか、と思ったりもした。

 カルスが登場した。今年の金メダリストと紹介されると会場はおおいに盛り上がった。

 出場者は十人だった。同時に滑走するサバイバルの一発勝負。最後まで残った者が優勝だ。選手たちはやはり安全のために防具を着けている。

 ホイッスルが鳴り、試合が始まった。すり鉢状のコロッセオを選手たちは回り始めた。

 ライオスが集中的に狙われた。スターだからだ。が、そのライオスを狙う選手を横からクラッシュした選手がいる。カルスだ。クラッシュされた選手は倒れホバーボードから落ちた。これで残りは九人となった。

 カルスは貴賓席のシマクレスを見た。シマクレスは軽蔑するような眼で会場を見下ろしている。

 と、カルスを攻撃してきた選手がいた。カルスはその攻撃を避け、逆に攻撃し倒した。その選手はナイジェリア出身の選手だった。残り八人となった。

 ライオスもロシア出身の選手を倒した。残り七人。

 シマクレスは貴賓席で隣を向いて言った。
「アイリス、君はこんなものが楽しいと思うのか?」

アイリスは答えた。
「今は楽しくは感じないけれど、下界にいた頃は興味はありました。ライオスは幼馴染で彼の試合はよく見ました」

シマクレスはライオスに少し嫉妬し、前を向いたときには、選手は六人に減っていた。

 観客席最前列のシロンは祈っていた。
「ライオス、カルスを倒してくれ。あいつはシマクレスを殺して自分も死ぬ気だ」

シロンは事前にライオスにカルスの企みを明かさなかった。護衛官であるライオスに言えば責務として事前に通報してしまう可能性があったからだ。もしそうなれば、シロンはカルスを裏切ることになると思った。だから、試合でライオスがカルスを倒すことを祈るしかなかった。

またひとり、インド出身の選手が倒れた。それを倒したのは中国出身の選手だったが、その中国出身選手をカルスが攻撃し、残る選手は四人となった。

 カルスは常に貴賓席を伺っていた。カルスの目的は試合に勝つことではない。シマクレスを殺すことだ。そんなカルスに攻撃したブラジル出身の選手をカルスは逆に倒してしまった。残り三人。シマクレスが狙いならば、カルスはチャンスを伺うために他のプレイヤーを倒すべきではなかったが、カルスの体にはホバークラッシュに忠実に動く感覚が染みついていたし、他のプレイヤーのレベルが高かったのも倒さねばならない理由にあった。

 アルゼンチン出身の選手とライオスがやり合っていた。ふたりが貴賓席のある位置から遠く離れていくのを見たカルスは、「いまだっ!」と思った。

 カルスはシマクレスに向かって斜面を猛スピードで上がって行った。シロンはついにこの瞬間がやって来たと思った。カルスは鍋底の斜面から飛び出て、一度観客席前の低い壁よりもはるかに高くチックタックフライを使って跳び上がり、貴賓席にいるシマクレスに向かって滑降して行った。

「死ね!シマクレス!」

シマクレスは青ざめた。

 そのとき、シマクレスの前にアイリスが両手を広げ立ちはだかった。

カルスは言った。
「どけぇ!アイリス!」

アイリスはどかなかった。

 アイリスを避けたカルスは護衛官たちのいる場所に突っ込んでしまった。そして、すぐ後ろ手に縛られた。

「ちくしょう、アイリス、おまえが一番大事なところで邪魔するとはな」

アイリスはカルスを無視してシマクレスに言った。
「ケガは?」

シマクレスは言った。
「ない」

そして、シマクレスは叫んだ。
「やっぱり、ホバーボードは野蛮だ。テロリストが出た。すぐに死刑にしろ!」

縛られたカルスは言った。
「ちくしょう、ちくしょう、アイリス、俺はなぁ、俺はおまえのことをずっと前から・・・」

カルスは口に猿轡さるぐつわを 噛まされた。それでも、う~う~、と唸っていた。

 コロッセオはもう試合どころではなかった。三権の長は闘技場を抜け出しそれぞれの公邸に引き上げた。カルスはアゴラで裁判を受けることもなく、エンペドクレスの飛び込み台に連れて行かれた。町は厳戒態勢になり、三権の長はエンペドクレスの飛び込み台のある野原に多くの護衛官と共に現れた。テロリストの処刑を見届けるためだ。オクティスには、まだホバーボードの防具を着けているライオスが付いていた。シマクレスの側にはアイリスがいた。シロンも現場にいた。多くの市民がカルスの処刑を見に集まった。カルスは小さな凱旋門をくぐり、エンペドクレスの飛び込み台から飛び降りるのだ。もちろん飛び降りたら死ぬ。

 

 

三、カルスの告白

 

 カルスは小さな凱旋門の下で足の縄を解かれ、立たされた。手は後ろ手に縛られたままだ。そして、猿轡を外された。途端に彼は大声でまくし立てた。

「シマクレス。おまえは最低の人間だ。俺の姉ちゃんを不幸にした。家政婦の俺の・・・」

「歩け」

三人いる死刑執行官のうちひとりが槍の先でカルスの腹を小突いた。シャツに赤い血が滲んだ。カルスは一歩、後ろ向きに小さな凱旋門の外側に出た。地面には短い草が生えていて飛び込み台の全体は緑色をしている。

「シマクレス。おまえは俺の姉ちゃんを手籠めにした」

「弁明の余地はない。歩け」

死刑執行官が再び槍で小突いた。カルスはまた一歩後ろ向きに飛び込み台の先端に近づいた。

「俺の姉ちゃんを犯し、妊娠させ、毒を飲ませ、流産させ、発狂させた。今、姉ちゃんは下界で・・・」

「進め」

死刑執行官は槍でカルスを小突いた。カルスは数歩後退し、飛び込み台の先端に近づいた。

「そうだ、シロン!証拠を見せてやれ」

カルスはそう言ったが、シロンは動けなかった。

死刑執行官はまた槍でカルスを小突いた。カルスはまた、数歩飛び込み台の先端に近づいた。

「シロン、どうした?証拠を渡したろ?」
カルスは泣きそうな顔で言った。

シロンは答えた。
「すまない、今は持ってない。家に置いて来た」

カルスは絶望的な顔をした。

 死刑執行官はカルスを小突いた。カルスはよろめいた。

「シロン、今から家に取りに行き俺を助けてくれ。頼む」
カルスは哀願した。

「わかった」
シロンは走って家に向かった。

 カルスは言った。
「シマクレス。これでおまえの運命は終わりだ。おまえの過去の罪が暴かれる。ざまぁみろ」

「歩け」

死刑執行官は槍で小突いた。カルスは一歩下がった。残り一メートル。

 シマクレスは言った。
「その男に弁明の余地を与えるな。押して落としてしまえ」

三人の死刑執行官は槍の柄でカルスの体を押した。カルスは後退した。残り数十センチで落ちる。カルスは覚悟した。シロンが戻って来るのは時間がかかる。カルスは涙を流して言った。

「ライオス!おまえは出会った頃から俺の親友だった。いいライバルだった。ありがとう」

ライオスは驚いた。親友?ライバル?ライバルはわかる気がするが、親友という実感はライオスにはない。

 カルスは言った。
「俺には悪友は多かったが、おまえみたいないい奴はおまえの他にはシロンだけだった。それからアイリス・・・」

「落ちろ!」

死刑執行官が槍の柄で押した。カルスは飛び込み台のふちで後ろにのけぞった。もう踵は出ている。はるか下には青いエーゲ海。

「アイリス、俺は出会った瞬間からおまえに惚れていた・・・ずっと憧れていた・・・」

アイリスは目を丸くした。出会ったとき?カルスは開口一番、「おまえブスだな」と言ったのだ。それがすべての始まりだった。カルスが自分に惚れていたなどアイリスは思いもしなかった。

 死刑執行官は槍の柄でさらに押した。カルスはのけぞり涙声でこう言った。

「さよなら、みんな」

カルスは落ちて行った。

 

 

四、善の王国

 

 シロンが戻って来たときには、すでにカルスは落ちたあとだった。もう三権の長は帰途についていたし、周りを取り囲んでいた群衆も散り散りになっていた。

 仕方なくシロンは憂鬱な気持ちと共に家に帰った。

夜、キングサイズのベッドで目が覚めたまま天井を見上げていると、ドアを叩く音がした。シロンは誰だろうと思ってドアを開けようと近づくと木製のドアを突き破って剣が刺し込まれた。

「うおっ」

シロンは避けたが、わき腹を掠った。パジャマが血で赤く染まった。シロンは痛みに堪えて状況を考えた。これはシマクレスの放った刺客だ。目的はシロンを殺すこととシマクレスの過去の罪の証拠隠滅。ドアの外に数名。窓の外、二階のバルコニーには誰もいないがその下には人数がいるだろう。逃げようか、どうやって?ホバーボードに乗って、二階の窓から外へ出てバルコニーから飛び出れば、敵が待ち構えていてもなんとか逃げられるだろう。だが、それからどうすればいい?シロンは考えた。すると、バルコニーに人の気配がした。考える時間はなかった。ドアを斧で叩き割る音がする。シロンは血の付いたパジャマのまま、あのペンダントをポケットに入れ、封筒を懐に入れてホバーボードに乗り、二階の窓ガラスを体当たりで破って外へ出た。やはりバルコニーには刺客がいた。が、シロンは刺客を蹴散らし、バルコニーの柵を飛び越えて下へ降りた。下にも人数がいたがシロンはそれらの者の頭を飛び越えていた。シロンはホバーボードを走らせた。

「俺をかくまってくれそうな人は?ライオス?あいつは下部のビルの住居にいる、遠いし、安全が確保できるかわからない、ダメだ。オクティス?行政長官公邸、こんな夜中に入れてくれるだろうか?ユラトン教授?そうだ、あの人ならば」

シロンはユラトン教授の家を目指した。街灯の灯る学生街を滑走した。後ろを見ても誰も追って来なかった。だが、油断はできなかった。シロンは猛スピードでユラトン教授の家を目指した。

 ドンドンドン。

 シロンはユラトン教授の家の木の門を叩いた。門番が覗き窓を開いた。彼はシロンの顔を覚えていた。シロンは何度もこの家に歴史を学びに来ていたからだ。門が開きシロンを入れると門は閉ざされた。

 玄関に円錐状の先の垂れたナイトキャップを被ったパジャマ姿のユラトン教授が出迎えてくれた。
「どうしたのだ?」

シロンは言った。
「俺、狙われているんです」

「誰に?」

「たぶん、シマクレスです」

「なぜ?」

シロンは全てを話した。

ユラトン教授は言った。
「では、明日、アゴラでホバーボード制限法の議論がある。そのあと、司法長官に裁判を依頼しなさい。シマクレスは失脚だ」

 

 

 翌日、晴天の下、アゴラで議会があった。ホバーボード制限法案についてだ。

シマクレスはどこか不安げな表情をして演説台で言った。

「昨日の事件、あのようなテロ事件が起きた以上、ホバーボードは制限しなければなりません。ホバーボードは市民の足として大変日常的に使われている乗り物です。だが、悪用されるととんでもない凶器になる。そこで、わたしはホバークラッシュのみを禁じる法案をこの議会に提出しました」

 そして、投票があり法案は賛成多数で可決された。ホバークラッシュはアルカディア下部市民の一番人気の娯楽だったが、投票権のある自由市民はそれを禁じる法に賛成票を多く投じた。

 これにはライオスのようなホバークラッシュのメダリストは不満だった。なぜなら自分たちがアルカディアにいるのはホバークラッシュがあればこそだからだ。だが、多数決でホバークラッシュは禁止された。

 で、議会は解散かと皆が思ったとき、司法長官が言った。

「今から、立法長官シマクレスの裁判を行います」

 アゴラはざわめいた。

 シマクレスの裁判?シマクレスほどの聖人君子はいない、それが市民の常識だった。

司法長官は起訴状を読んだ。

「シマクレスはアカデメイア在学中の頃、ネオ・アテネより来た同い年の家政婦と肉体関係を結び、彼女が妊娠すると事の発覚を恐れ、毒を飲ませ下界に追い返した。彼女はその後流産し発狂した」

司法長官はシロンを見た。シロンはユラトン教授に借りた古代ギリシャ風の白い服を着、足首をベルトで固定した革のサンダルを履いて司法長官席を正面に見上げる位置に立っていた。

「起訴人、シロン、あなたは偽りを言ってはいませんね?」

シロンは答えた。
「はい、真実です」

司法長官はシマクレスに言った。
「被告、シマクレス、これは事実ですか?」

シマクレスは動揺した様子で答えた。
「わたしにそんな過去があるわけがないでしょう。わたしは善の王国を作ろうとしている徳を重んじる人間です。自分にそんな不道徳があっては善の王国など実現できないでしょう」

司法長官は例のペンダントを見せた。
「このロケットの写真に写っているのはあなたとその被害者ではないのですか?」

シマクレスは何も言わなかった。

司法長官はその写真をアゴラに集まった市民たちに廻して見せた。市民たちはこれは間違いなくシマクレスであると判断した。

アイリスはシマクレスに囁いた。
「しっかり、こんな出鱈目でたらめが通ってはなりません。あなたは世界一の徳高き者、善の王国の王となる者なのでしょう?」

シマクレスは冷汗が出ていた。

司法長官は言った。
「ここに、被害者の手紙があります。読んでもかまいませんか?シマクレス。読む前に自白すれば少しは罪が軽くなるかもしれませんよ」

シマクレスは狼狽うろたえて言った。
「ミレネが飲んだ毒は脳を狂わせる物のはずだ。そんな手紙を書けるはずがない」

司法長官は口元を皮肉な笑みで歪めて言った。
「ほう、ミレネという女性にあなたは毒を飲ませた。間違いありませんね?」

シマクレスは青ざめた。
「ち、違う。わたしは毒など・・・」

シマクレスはアゴラを見まわした。すべての人が敵になったようだった。

シマクレスは言った。
「ああ、そうだ。わたしは若かった。彼女は美しかった。あんなに美しい女が我が家で毎日働いていたんだ。わたしの性欲は限界に達していた。わたしはある晩彼女の部屋へ侵入した。そして、ことを成した。一度味を占めるとやめられなくなった。毎晩のように通った。そして、妊娠がわかったとき、わたしは将来の名声に傷がつくことを怖れ、彼女に毒を飲ませ下界に帰してしまった。・・・ああ、もうダメだ。わたしの政治生命は終わった。いや、もう、アルカディアにはいられない。それは生きる場所を失ったも同然だ」

司法長官は言った。
「では、自分の犯した罪を認めますね?」

シマクレスは下を向いて言った。
「はい」

シロンは言った。
「司法長官、その手紙を読んでください」

司法長官は言った。
「これは被告本人が読むべきでしょう」

 司法長官はシマクレスにミレネからの手紙を渡した。

 シマクレスはそれを読み始めた。

       

あなたへ

 あなたは家政婦であるわたしにしてはいけないことをしました。あなたは若いけれども人格者として将来が有望視されていました。もし、わたしが世間にこのことを公表したらどうなるでしょう。あなたの人生はおしまいです。わたしはあなたがわたしのワインに毒を入れたことを知っていました。わたしは考えました。これを飲めばわたしの人生はダメになり、あなたは周囲の期待通り出世するでしょう。しかし、わたしが毒杯を飲まずにあなたとの関係と妊娠を公表したらあなたの人生はダメになるでしょう。どちらを選ぶかはわたしの手にゆだねられました。わたしは毒杯を飲むことにしました。わたしの人生などあなたの人生に比べたら価値のないような物だと思って。ただ、わたしは本当はあなたの赤ちゃんを産みたかった。世界で最高の男性の赤ちゃんを産む。わたしはあなたを愛していました。あなたは罪を犯しましたがわたしにとってはそんな罪などどうでもいいくらいに愛している世界一の男性なのです。最近、発作が頻回になってきました。こんな手紙ももう書けなくなるでしょう。わたしは下界であなたのことを思いながら一生を過ごします。天国で会えたら嬉しいです。またお会いできることを祈って。

ミレネ

 


この手紙にはシマクレスの名前はなかった。ミレネの愛の深さにシマクレスは自分の愚かさを恥じて情けなくて涙が溢れてきた。シマクレスは泣き叫んだ。そして、突然走り出した。アゴラに集まった人々はまるで海が割れるように道を開けた。シマクレスはアゴラの外へ出て大きな凱旋門を出た。そこには多くの下部の住人が集まっていた。その者たちの間をすり抜け、泣き叫びながら、都大路を走り、パンテオンの向こうの庭園に向かった。アイリスが走って追い駆けた。シロンも走ってそれに続いた。ライオスはしばらく考えていたが、オクティスにひとこと言って、ホバーボードで追い駆けた。他の人間は動かなかった。目の前で最高権力者の名声が地に堕ちたことを半分理解できていなかったのかもしれない。

ホバーボードのライオスは、走っているシロンとアイリスを追い抜いた。そして、パンテオンの近くでシマクレスに追いついた。

「シマクレス、どこへ行く?」

シマクレスは走りながら言う。
「わたしは死ぬ。エンペドクレスの飛び込み台から飛び降りて」

ライオスはホバーボードを止めた。シマクレスは庭園の森の中へ消えた。ライオスは自分がわからなかった。シマクレスというこの男は自分からホバークラッシュを取り上げた男だ。そして、ライオスから見れば、両親をアルカディア自由市民に持ち、アイリスの婚約者という恵まれ過ぎた人間だ。助ける気になれなかった。ライオスは自分が着ている護衛官の白い制服を見て考えた。

「自分は行政長官オクティスの護衛官なのだ。この立法長官シマクレスの護衛官ではない。立法長官が自殺しようが自分の職務にはなんの関係もない」

と、ライオスはぼんやりと思い、動けずにいた。

 そこへ、アイリスとシロンが追いついた。

アイリスはライオスに言った。
「シマクレスは?」

「エンペドクレスの飛び込み台から飛ぶそうだ」

「なぜ、止めないの?」

「いや、なんとなく」

アイリスはライオスからホバーボードを奪って乗った。久しぶりに乗ったのでふらふらしながら進んだ。それでも走るより速かった。

 アイリスが森を抜けエンペドクレスの飛び込み台に着くと、ふたりの人間がいた。シマクレスと小太りで頭の禿げた中高年の男性だった。

「ちょっと待った」
禿げた男性は小さな凱旋門の下で飛び込み台のほうにいるシマクレスに言った。
「あなたは若い。死ぬことはない」

シマクレスは言った。
「わたしの人生は、もうおしまいなんだ」

シマクレスは飛び込み台の先に立ち、下を見下ろした。白い雲で下界は見えない。雲の下にはエーゲ海があるはずだ。

アイリスはホバーボードを投げ出して小さな凱旋門の下へ走った。凱旋門のアーチの下で禿げた男性と並んだ。
「戻って来て、シマクレス。あなたが死んだらわたしはどうなるの?」

シマクレスは飛び込み台の先端に立って振り返った。
「アイリスか・・・君は優秀な人間だ。わたしの婚約者だったことは今後、君のチャンスを高めることになる。つまり、悪人シマクレスに騙されていた美貌の才女。君の将来はバラ色だ」

「そんな、わたしはあなたに比べたら下賤な人間です。下界で生まれ育ちました。わたしはあなたの妻になることで本当のアルカディア人になりたいのです。ふたりで善の王国を作ると約束したじゃないですか?」

シマクレスは言った。
「善の王国か・・・。女を犯し毒を飲ませたわたしに、善の王国が作れると思うか?こんな犯罪者に誰が付いて来る?」

「わたしが付いていきます。あなたは罪を犯したかもしれません。しかし、愛している人が罪を犯したことがあると知って、その愛がなくなるなど本当の愛と言えるでしょうか。わたしはあなたを本当に愛しているのです」

アイリスは毅然とした態度でエンペドクレスの飛び込み台の上を、先端にいるシマクレスのほうへ歩み寄った。

「アイリス!」

シマクレスは言った。そのとき、ようやく小さな凱旋門の下にシロンとライオスが到着した。

 ふたりはちょっと待ったおじさんの隣で飛び込み台のほうを見た。

「アイリス!」

シロンの声にシマクレスのほうへ歩いて行くアイリスは振り返った。

「シロン、ライオス」

ライオスは言った。
「アイリス、どうする気だ?」

アイリスは言った。
「わたしは、シマクレスと結婚します。シマクレス、あなたはわたしにとって理想の男性です。わたしは幼い頃から理想の島、アルカディアを下から見上げ、憧れて育ちました。そのアルカディアで最高の男性がシマクレス、あなたなのです。そんな理想の男性と共にあるのがわたしの幸福なのです」

「だが、わたしはもう君の理想なんかじゃない。破滅した男だ。もうアルカディアで今までのように暮らすことはできない。それはわたしにとって死を意味する。わたしはここから飛び降りて死ぬ」

シマクレスがそう言うとアイリスは言った。
「では、わたしも共に死にます」

「え?」

驚いたのはシマクレスだけではなく、シロンとライオスもだった。

「アイリス、わたしとここから飛び降りてくれるのか?」

そうシマクレスが言うと、アイリスは言った。

「わたしたちはふたりでひとつ、この世に善の王国を作れずとも、死後の国の王となり、あの世に善の王国を作りましょう。そこは理想の国、アルカディアよりもずっと完璧な国」

 アイリスはついにシマクレスの手の届くところに立った。

シロンは叫んだ。
「アイリス!」

アイリスは振り返ってシロンを見た。

シロンは言った。
「おまえが死んだら、俺たちの未来はどうなる?」

「俺たちの未来?」
アイリスは首を傾げた。

「アイリス、俺は四年前、おまえがアルカディアに行き自分が地上に残った、その後に気づいたんだ。俺はおまえを愛していると」

「シロン・・・」

アイリスは悲しい目をした。ライオスも驚きの表情でシロンの横顔を見ていた。シロンは続けた。

「アイリス、俺と結婚してくれ。死なないで、生きて俺と結婚してくれ。おまえこそ、俺の理想なんだ。いや、ただの理想じゃない、現実を共に生きるパートナーになって欲しい」

アイリスは首を横に振った。
「ごめんなさい。わたしは理想主義者です。あなたはわたしの理想ではない。かけがえのない幼馴染ではあるけれども、わたしの理想の男性はこの人、アルカディアで最高の男性シマクレスただひとり」

アイリスはシマクレスを見つめた。シロンは言った。

「アイリス!目を覚ませ!人生は理想だけじゃない。そうだろ?そう思わないか?たしかに俺たちはずっとアルカディアを見上げて生きて来た。でも、俺たちの人生は理想だけじゃなかったろ?」

アイリスはまた、シロンを見て言った。
「シロン、あなたの人生がどうかは知りませんが、わたしにとってアルカディアに来てからの四年間の暮らしは理想そのものでした。シロンはアルカディアに来て日が浅いからまだ愚者の香りが抜けていないようですけど、アカデメイアできちんと学べば、理想、善の王国を理解できると思います」

アイリスはシマクレスの手を取った。
「さあ、シマクレス。わたしはどこまでもあなたと共に行きます」

シマクレスはアイリスを抱きしめた。そして言った。
「ああ、わたしはすべてを失ったが、今、すべてを手に入れた。アイリスは世界最高の女だ。わたしはこの女と共に死ねるのだ」

アイリスはシマクレスの胸に顔をうずめて言った。
「ああ、嬉しい」

シマクレスとアイリスは抱き合ったまま空中へ体を倒し、そのままシロンたちの視界から消えた。

「アイリス―!」

シロンとライオスはエンペドクレスの飛び込み台の先端に行き膝をついて下を覗き込んだ。下は雲があって真っ白だった。

 

 

第四章    白いピラミッド

 

一、神のつるぎ

 

 シロンとライオスはエンペドクレスの飛び込み台の上で地面を叩いて悔しがった。

「ちくしょう、なんで死ぬんだ。死んだらおしまいじゃないか」

ライオスは草をむしり取って泣いた。シロンは涙を流して言った。

「バカだ、バカだ、バカだ、アイリス、おまえはバカだ。頭が良すぎるんだよ。育ちが良すぎたんだよ。でも俺はそんなアイリスが好きだった。初めて見たその日から」 

「俺もだ、シロン。俺もアイリスに惚れていた。アイリスはおまえと結婚すると思っていた。だから俺はマリシカと付き合おうかと思ったこともあった。だが、本当の気持ちは常にアイリスにあった」

「シマクレスの言ったようにアイリスは世界最高の女だ。シマクレスはそれを手に入れた。俺たちの目の前で」

「俺たちはアイリスの心を掴むことはできなかったんだ。しょせんは下界人だ。罪があるとはいえ、シマクレスのようなスーパーエリートこそがアイリスの望む男だったんだ」

シロンは泣きながら自分を笑った。

「俺たちは昔からバカな理想主義者だったな。アルカディアに憧れて生きてきた。そして、ここアルカディアで理想よりもっと大切な物を失った。その大切な物、それはアイリスだ。理想の女?いや、違う、ただの理想じゃない。理想の女なら条件が揃えば、代わりはいくらでもいるだろう。だけど、アイリスはひとりしかいない。アイリスがアルカディア人でなくとも俺はアイリスを愛していたはずだ。人を愛することは理想を愛することとは違う。でもアイリスは俺の理想の女だ。なんだ?俺の言ってることは支離滅裂だ」

ライオスは呟いた。
「俺はこのアルカディアを破壊したい」

「え?」

「操縦席があるんだろ?」

シロンは驚いた。
「なぜそれを知っている?アカデメイアの学生しか知らないはずだ」

「シロン、おまえも単純だな。俺は行政長官オクティスの護衛官をやっていたんだ。その程度の知識は入ってくるさ。操縦席はあの白いピラミッドの中だろ?」
ライオスは涙を流しながらニヤリと笑った。

シロンは驚いた。
「え?それは俺も初めて聞いた」

「あのピラミッドの中の操縦席をぶっ壊せばアルカディアは墜落する。アルカディア人はこのふざけた理想郷と共に死ぬんだ」

ライオスは走り、自分のエンジ色のホバーボードを拾ってそれに飛び乗った。

 シロンは言った。
「おい、ライオス、待て」

ライオスは猛スピードで去って行った。

 
シロンは走ってライオスを追いかけた。走りながら考えた。
「俺はどうしたいんだ?ライオスの破壊行為を止めたいのか?いや、そもそもライオスはどうやってあの白いピラミッドの中に入って操縦席を破壊しようというのだろう?俺はアルカディアをどうする?破壊か?守るか?なんのために俺は走っているんだ。目的もなく走っているのか?ライオスはアルカディアを破壊するためにホバーボードを走らせている。俺はどっちなんだ?いや、まず大事なのはこのアルカディアにいる人の命だ!とりあえずホバーボードだ。俺のホバーボードはユラトン教授の家にある。ユラトン教授の家に行こう。そうだ、ユラトン教授にあのピラミッドの秘密を訊こう。あの人なら何か知恵を貸してくれるかもしれない」

 

 

その頃、ライオスはホバーボーダーの仲間たちとその支持者を率いて大きな凱旋門の北側になだれ込み、白いピラミッドに通じる神殿を襲撃していた。ライオスは人々に呼びかけていた。

「俺たちホバーボーダーは、シマクレスの残した法律によって排除される。そんな法律を決めてしまうこのアルカディアの政治システムなんかくそくらえと思わないか?この聖域を占拠し、革命を起こそう。アルカディア人と下界人の区別さえ失くしてしまおう」

すると、それまで既存の政治システムに不満を持っていた、下部の住民たちの一部が立ち上がり暴徒となった。

 ライオスは思った。
「そうだ、それでいい。そして、アルカディアはエーゲ海に沈む」

 ライオスはひとり、白いピラミッドの前に出た。後ろの神殿では戦いの騒音が聞こえている。ライオスは表面がツルツルの大理石でできたピラミッドの頂点を見た。

 

 

その頃、シロンはようやく、ユラトンの家に着いた。

「先生、俺のホバーボードを取りに来ました」

「おう、シロンか。さっき、ライオスという若者が来てな、いきなりこんな質問をしてきたんだ」

「どんな?」

シロンはボードを抱えて家から出ようとして振り返った。ユラトンは言った。

「アルカディアを沈ませる方法はあるか?と訊いてきたのだ」

「え?それでなんて答えたんですか?」

「わたしは教えてやった。白いピラミッドの北側に操縦席への入り口がある。だが、そこは開かずの扉で閉ざされている。その開け方はわたしにもわからない。だが、アルカディアの沈め方は別にある。白いピラミッドの頂点に避雷針のようにつるぎが一本刺さっている。神のつるぎと呼ばれている。それを抜けば、アルカディアは斥力を徐々に失い、下界へ落ちるだろう、そう教えてやった」

「え?それは真実ですか?」

「うむ、真実だ。わたしは真実しか教えない。真実を教えるのがわたしの務めだ」

「バカ!」

シロンはホバーボードでユラトンの家を飛び出した。大きな凱旋門の北側のアゴラは騒然としていた。人々が殺し合っていた。アルカディアの既成秩序を守ろうとする側と、それを壊そうとする側だ。シロンはそれを見て思った。

「俺はどちらの味方なんだ?俺はアルカディアの沈没を防ごうとしてるから、既成秩序を守る側か?それとも愚者とアルカディア人の境い目を失くしたいから既成秩序を破壊したい側か?いずれにしても、ライオスの行動を止めないと今殺し合っている人々のどちらも全滅だ。命があってこその争いなんだ」

シロンは争う人々を躱しながら、ドーリア式の神殿に入り、その奥にある白いピラミッドに向かった。

 白いピラミッドでは、ライオスがひとり、ホバーボードでそのツルツルの斜面を昇ろうと苦労していた。その傾斜角度はホバーボードで駆け上がるには急過ぎる。ピラミッドの高さは約三十メートルある。ライオスのチックタックフライでは二十メートルは昇れるが、残りの十メートルは昇れない。何度昇っても、あと十メートルというところまで行って、滑り降りて来てしまう。

「ちくしょう、あともう一息なのに」

ライオスは下から頂点を見上げ、額の汗をぬぐった。

 そこへシロンがやって来た。
「ライオス!」

シロンの声は神殿に響いた。ライオスはシロンを見た。シロンはドーリア式の回廊の太い柱の間に立っていた。ふたりの距離は二十メートルある。

ライオスは言った。
「シロン!」

シロンは言った。
「おまえはこのアルカディアを滅ぼすつもりか?」

ライオスは答えた。
「そうだ、俺は神の剣を抜き、アルカディアをエーゲ海に沈める」

シロンは言った。
「おまえはアルカディアが宇宙船であることは知っているか?」

「知っている。故郷の星は愚者ばかりだそうだな」

「愚者ってなんだ?」
シロンは言った。

ライオスは答えた。
「俺のような人間のことだ」

シロンはニヤリと笑った。
「わかってるじゃないか」

ライオスはシロンに言った。
「おまえは自分を愚者と思ってないんだろ?アカデメイアの学生さん」

シロンは言った。
「俺は愚者などこの世にいないと思っている」

「シマクレスは賢者だったと思うか?」

ライオスのその質問にシロンは答えずに言った。

「アルカディアは俺たちの目標、人生そのものだったはずだ。俺は六歳のとき、リカヴィトスの丘で父親とこの島を見上げて誓ったんだ。いつかこの島に来ようと。学問によって。上手く父親に騙されたとも言えるかもしれない。だが、俺はこの人生、後悔はしていない」

ライオスは言った。
「それはおまえが前途あるアカデメイアの学生だからだろ?」

シロンは答えた。
「俺はアカデメイアを退学し下界に帰る」

「なに?」

「でも、アルカディアは沈ませない」

「なぜだ?」

「とりあえず、今、アルカディアにいる人々の命が大事だからだ。それともうひとつ個人的な理由としてアルカディアは俺の理想だからだ。いや、俺たちの。ライオス、おまえの理想ではないのか?アイリスだってこのアルカディアを理想郷と思っていた。そのために美しい絵画を描いて俺たちに見せてくれたじゃないか」

「でも、理想郷なんて実際はただの夢だったじゃないか。違うか?シロン」

「夢でいいじゃないか。その夢があるから人生はおもしろいんだ」

「おまえは、アイリスを失ったのにまだ、夢や理想が大事だとか言うのか?」

「ああ、大事だ。それがなければ生きていてもおもしろくないだろう?」

「俺はその夢と理想を破壊する」

「はやまるな、ライオス」

「もう遅い。俺は騒乱を起こした。このままおとなしく逮捕されたら死刑だ」

ライオスはホバーボードに乗って四角錐のピラミッドの斜面を登り始め、チックタックフライを始めた。

「待て!ライオス!」

シロンもホバーボードでチックタックフライを使って追いかけた。ライオスは二十メートル駆け上がるとそれ以上上がれなかった。そこへシロンが昇って来た。ライオスはシロンに上からクラッシュし、その反動で残りの十メートルを跳び上がった。シロンはピラミッドの斜面を転げ落ちた。

 ライオスはピラミッドの頂点の神のつるぎつかを握った。

「これが、神の剣か。これを抜けばアルカディアは落下するんだな」

下に落ちたシロンは地面に倒れた状態で上を見上げて言った。

「やめろ、ライオス!」

ライオスは腕に力を込め、剣を抜き始めた。

「うおおおおお」

ライオスの力で剣はゆっくりとその白刃を現した。

 ライオスは剣を抜き上げ、空にかざした。

 すると、アルカディア全体がゴゴゴゴゴと大きな地響きを立て始めた。沈み始めたのだ。

「やったぞ、これでアルカディアもおしまいだ!」

そう言ったとき、ライオスは下を見た。シロンがチックタックフライで昇ってくる。

ライオスは憐れむような苦い笑みを浮かべて言った。
「シロン、いくらおまえでもここまで昇るのは無理だ」

「ライオス。俺は誰だ?おまえにホバーボードを教わったとき、おまえは俺を天才と呼んだ。その俺だ!」

シロンはなんと三十メートルの上空に駆けあがった。

ライオスは驚いた。
「そんな、バカな」

シロンはライオスに飛びつき神のつるぎつかを握った。シロンの黄色のホバーボードはシロンの足から離れてピラミッドの斜面を滑り落ちていった。シロンはピラミッドの頂点でライオスから剣を奪い取ろうと力を込めた。

「やめろ、シロン」

ライオスとシロンはバランスを崩し、剣を引っ張り合いながら、ピラミッドの斜面を転がり落ちた。下まで落ちたときシロンの手が離れ、シロンは地面に転がった。シロンはライオスを見た。少し離れたところにライオスはうずくまっていた。シロンは驚愕した。ライオスの腹から背中を神の剣が貫いて、白かった制服は赤く染まり、地面は血まみれになっていたのだ。奪い合いの中で剣は刺さってしまったのだ。

 シロンは駆け寄ろうとした。そのとき左足に激痛を感じた。

「くそ、折れたか・・・」

シロンは左足を引きずり、ライオスの傍らにしゃがみ込んだ。

「ライオス、しっかりしろ」

ライオスはうずくまったまま、シロンを横目で見た。

「シロン、俺は愚者か?」

シロンはライオスの死がすぐそばにあることを知って言った。

「心配するな、俺も愚者だ。たぶん、アイリスも」

「そうか」

ライオスは微笑して息絶えた。

 アルカディアは降下し続けている。シロンには時間がなかった。

 シロンはライオスの腹からつるぎを抜いた。これを再び、ピラミッドの上に差し込まねばならない。

 シロンは自分の黄色のホバーボードを拾い、足を掛けた。そして、ピラミッドの頂点をにらんだ。

「さっきはチックタックフライで昇れたけど今は無理だ。この左足では・・・でも、やらないと」

シロンは一度、ピラミッドから離れ、二十メートルの助走を取った。そして、チックタックフライで上空に駆けあがった。しかし、左足の激痛で、十五メートルも昇れなかった。そして、落下しそうになった瞬間、シロンはピラミッドの白い斜面につるぎを突き立てた。そして杖で舟を漕ぐようにして、上に向かって勢いをつけた。すると、少し登ることができた。

「いける」

その方法でシロンはピラミッドの斜面約半分を少しずつ登っていった。

 アルカディアはなおも降下している。

 シロンはピラミッドの頂点まであと五メートルの所まで来た。そのとき、ピラミッドの下から群衆の声が聞こえた。暴徒だった人々もそれを鎮める側だった人々も、そこにいるすべての人々がシロンを応援しているのだ。いや、応援ではない、自分たちの命をシロンに託して叫んでいるのだ。

 シロンはホバーボードを剣で漕いで残りの五メートルを登り切った。

 そして、白いピラミッドの頂点の差込口に神のつるぎを差し込んだ。

 すると、ゴゴゴゴゴ、という音は、グオングオンという音に変わり、どうやらアルカディアが再び上昇を始めたようだ。

 下の群衆の声は恐怖の叫びから歓声に変わった。

 シロンはピラミッドを滑り降りた。人々は彼を取り囲んでたたえたが、シロンは何も言わず左足を引きずって、まっすぐにライオスの死体の所へ行った。そこには行政長官オクティスがいた。

「君は英雄だ。よくやってくれた」

シロンは何も言わず、左足の苦痛に顔を歪めながら、ライオスの血まみれの死体を抱き起こした。

そして、シロンは言った。
「オクティス。ライオスと共に下界に降りたい」

オクティスは目を丸くして言った。
「君はアカデメイアの学生だろう?すでに英雄なんだ。将来は三権の長も確実だろう?なぜだ」

「俺はネオ・アテネの人間だ。俺はアルカディアに来てからよりも、ネオ・アテネで空を見上げているときのほうが幸せだった」

 

 

それから数日後、シロンはライオスの棺と共に空中列車で下界のネオ・イスタンブールに降りた。そこから列車でギリシャ半島の首都、ネオ・アテネに向かった。

 

 

          〇

 

 四年後の夏の終わりの午後、紺碧のエーゲ海の静かな海面をシロンは独り憂鬱な表情でホバーボードに乗って滑っていた。水平線上の青空に空中都市アルカディアが浮かんでいる。    

                             (完)

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