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「そういう考えもあるよね〜」という甘いフレーズに御用心

【読了の所要時間: 04:00】

「個人主義」が、僕たち周りにも受け入れられはじめてから久しい。僕が大学に入ったころはまさに「個人主義のβ版」が試験運用され始めたころだったような気がする。だけどその前に、個人主義って何なのかをちゃんと考えておかないといけないと思った、ある出来事がある。

世の中の人の生活は多様化した。主婦もいるし、主夫もいる。「転職」に興味を持つ人が増えたし、「スタートアップ」なんて言葉もみんなが使うようになった。LGBTqを認める運動や女性の活躍推進や、高校までの教育における「画一性」に疑問を抱く考え方も、僕の大学では授業内でのディスカッションのテーマになった。

世の中は寛容な方向へ、より良い方向へこれから動いていく。個人の違いを認め、それぞれが自由に幸福を追求する世の中が来る。そういう高揚感が、4、5年前にはあった。

だけどこの動きに対して「ちょっと待てよ」と考えさせられるような意見も、実際あったんだ。それがこれだった。

潜って受けた社会学の授業で聞いた教授の言葉

僕が大学で作った数少ない友人の中の1人が受けていた授業に、潜り込んでいたときのこと。教授が話した中に、個人主義について考えさせられる言葉があった。どんな感じだったかあまり詳細は覚えていないけど、教授が言ったのはこんなことだったと思う。

「そういう考えかたもあるよね〜」という言い方がありますよね。そういう考えもあるんだ、いいじゃん、へえーきみそういう考え持ってるんだ、いいじゃん。というふうに、なんでも個人の主張なんだからいいじゃんとして肯定してしまうケースがあります。
一見このような関係は個人主義者にとってユートピアのように思えますよね。個人の考えが自由に受け入れられる世界。誰もが対等に主張しあえる世界。いいじゃんと。
しかしこれを突き詰めていってしまうと、「そうだよね〜。うんうん。でも私はこう考えてる。これは個人の考え方だから誰にも動かせません」ということになってしまいます。誰の意見も、個人主義の名において他人から口出しできなくなってしまうんです。これって、自分と他人に明確な境界線を置いてしまう、一種の無関心ではないですか。

本当に引用が下手で、ちゃんと伝わるかわからないけど、教授が言ったのはこういうことだった。極端な個人主義は無関心を招く。当時の僕には、これが驚くほど腑に落ちて思えたのを覚えている。

実際その頃の僕の周りには、自分のことばかりで、僕の意見を肯定することはするけど助言や注意をしてくれる人は1人もいなかった。僕が何かをいうと「いいね、きみらしいよ」という人しかいなかった。だれも「それはやめといたほうがいい」「こんなやり方もあるんだよ」と口出しをしてくる人はいなかった。

個人主義と秩序の間のバランス

個人主義はしがらみを断ち切るための手段だったと思う。確かに過去、人々は切実になんども個人主義を求めてきた。政略結婚よりも自由恋愛がしたい、三世代同居よりも核家族で生活したい、転職や就職をもっと自由にしたい。これらは全部個人がより自由な目的と意思で動くために行われる、伝統的秩序からの脱却のプロセスだ。

秩序や伝統という言葉には、現代ではマイナスのイメージが常につきまとっているような気がする。でも伝統や秩序には、それが生まれた意味が必ずあることを人々は忘れがちだ。地域の行事について考えてみよう。

かつて(今でもだけど)地域にはみんなで行う行事があった。夏の祭りは一番わかりやすい例だと思う。この祭りは、若者にとってはある側面においては出会いの場だった。なんの出会いかって、男女の出会いだ。

盆踊りに参加すると、円になって櫓をか囲む。このとき、何重かになった円はそれぞれ反対方向に回ることが多い。これを利用し、その地域の若者たちは円を周回する中で好みの相手がいないか探すことができた。

盆踊りは宗教的な繋がりとも似ている。アメリカの友達は「出会いの場」として最初に教会を挙げた。定期的に集まってお話をする教会は出会いの場になるらしい。伝統的なつながりが機能しているいい例がこれらの地域的・宗教的なつながりだ。

このようなつながりはいい面もあり、悪い面もある。悪い面には当然嫌気がさすこともある。個人主義の社会では、つながりに嫌気がさしたら距離を置くことができるんだ。そして、みんなが距離を置き、意義が忘れられたとき、その伝統や秩序は消滅する。

新しい秩序には金がかかる

新しい秩序も生まれている。SNSは地域に縛られず、個人間のコミュニティを作り上げるのに役立っているし、櫓を囲んだ盆踊りの代用品としては、婚活サービスやダンスクラブ、また出会い系アプリなんてものを挙げることができるだろう。

また、他人から意見を求める機能も、外部化されている。個人間が互いの領域に踏み入ってああだこうだ意見をしあうよりも、「エージェント」や「コンサル」がスマートに聞こえる。新しい、個人主義を愛する現代人に合った新秩序ができて、めでたしめでたし。

でも、そうだろうか。新秩序には、常にお金がかかる。SNSには大量の広告が掲載されているし、アドバイスを得るためにもお金を払う必要がある。

婚活イベントだって、民営のものは運営費を徴収する必要がある。誰のための秩序かといえば、突き詰めたらどれも必ず主催者側の利益のためという単純な理由が浮かぶ。無償の愛は実際これらの中にはなく、それぞれの秩序は参加者のためではなく、主催者の利益のために作られている。

これで僕たちは幸せになれるのだろうか?

アメリカの個人主義は銀河に似ている

「そうだよね〜」といえば、簡単に相手を受け入れることができる。心からそうであれ、表面上だけであれ、同じポーズをすることができ、とても簡単に物事は収まる。でもそれは破綻する。そのいい例が、アメリカだ。

僕がアメリカについて考えるとき、様々な色の星がある一つの銀河を思い浮かべる。それぞれの恒星系と惑星が、それぞれののグループと個人の象徴だ。

アメリカは多様性の国で、本当にいろんな人が暮らしている。でも、実際によく見てみると、それぞれのグループが混ざり合い、手を取りあって頑張っている構図は、都市部を除き、まだ見えづらい。人々は気の合う仲間と固まって、隣の異質な人たちについて、「彼らは彼らさ」という姿勢をとる。もちろん全員がそうというわけでもないけど。

そしてそれらのグループとグループの間には、ほとんど真空の何もない空間が広がっているように見える。グループごとに自由で、それがグループがまとまって国をなしているけど、グループごとの間に広がるのは無関心の宇宙空間だ。僕が間違っているのかもしれないけど、こういう意味で、アメリカは銀河に似ていると思う。

それが正しい個人主義なのだろうか?

「そうだね」の次に踏み込もう

お互いの違いを認めることは、「あいつはあいつだから」と割り切ってしまうこととは違うと、僕は思う。何が違って何が同じなのか、何がいやで何がいいのか、そういうところを言い合ってこそ個人が尊重されるんじゃないかな?

「そうだね」といえば、争いは避けられる。距離を取ればパンチは届かない。でもパンチをしない前提であるのなら、とことん話し合ったほうがいいのだ。

パンチでやり合う時代は、先進国の間では1945年に終わった。だからこれからはちゃんと話し合って、お互いの真空を埋めていく時代だ。「そうだね」を超えて。それは個人にも言えると思うよ。

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1st album「Lovely Litter」 --甘野菜
甘野菜の渾身の「個人的」ファーストアルバム。

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