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ことばで日常を彩りたくて


noteを始めて1年と8ヶ月。


便宜上、自分が書くものを「 #エッセイ 」と読んできたけれど、私が書くものは自分の頭の中でおこなわれている脳内会議を文字起こししたようなものが多い。自分を伝えるための文章で、「#議事録」・「#意見文」・「#思い出記録」・「#頭の中」、などと呼ぶ方が適しているような気がしていた。


「#エッセイ」はもっと穏やかで、やわらかくて、日常や感情を言葉や表現で魅せるもの、詩的な目線で書かれるものだと思っていたのだ。(今も思っている。)


はじめはそれでもよかった。

アイデアを出す人になってから、自分の脳内会議を考えっぱなしで放置するのは勿体無いと思えるようになり、議事録を残しておくことがnoteのモチベーションだった。


だけど徐々に日記のようなものを書いたり、思い出を綴ったりするようになって、もっともっと感情を、まわりの景色を、事実としてでなく空間ごと閉じ込めたような言葉を紡げるようになりたいと思うようになった。


ずっと#エッセイに憧れていた。

ほんとうは#小説も書いてみたかったし、好きな音楽の#推薦文 や#食レポ も書いてみたかった。

だけどそのどれもが必要とする描写力、それを可能にする観察力、月並みな言葉で言うならば感性と言われるものが、私にはどうも備わっていないようだった。


だからはじめたのだ。

目に映るものを、耳に聴こえてくるものを、頭の中で言葉に置き換える練習を。

今この状況をnoteにエッセイとして書き起こすとしたらどういう言葉で伝えるだろう、どんな言葉で紡げたら美しいだろう。

そう考える癖をつけた。



この夏は小説とエッセイをたくさん読んだ。

プロの描写力を知って、その描き方にひきづられそうになることもあったけれど、それは悪いことじゃないと思う。私にはそれが心地よかった。


マハさんのおかげで、アートに目覚めた。


絵画、という芸術を鑑賞することで世界の解像度が少し、上がった気がした。



そんなことの繰り返しで、日に日に頭の中が描写のための言葉と思考で埋め尽くされていく。


「1本指を構えて、1個ずつ、1個ずつ、ボタンを押す。あ、(を2回押して)い、(を3回押して)う、というように。おかげで2〜3行の返事を打つのにも、10分すぎくらいかかる。実にたどたどしいのだけれど、不思議とイライラせず、むしろ愛らしい。」


LINEを返信する祖父の様子をみていて、自然とnoteに綴ることを考えて、この言葉が頭に浮かんだ。嬉しかった。私も言葉を紡ぐ人の一員になれたような気がした。


最近は、イヤホンをつけずに外を歩くことをおぼえた。ほしい服の色を「青色」ではなく「ロイヤルブルー」と適切な色名で考えてみることをおぼえた。「風が心地よい」とか、「肌がジリジリと日差しに焼かれていく」とか、「纏わりついてくる空気」とかって感覚を意識して言語化することをおぼえた。




学生時代、1番力を注いだことは何ですか?


先日、就活面接のこの答えとして、はじめてnoteの話をした。


続けるモチベーションはどこにあるんですか?


今は、適切な言葉や表現を追求することです。


私は、アイデアを出すことが得意でその背景にはどんな場面でも自然と行う脳内会議があります。そのことに気づいてから、どんな些細なことでも頭に浮かんだことは書き留めておきたい、忘れるのが勿体無いと思うようになりました。はじめはその、脳内会議を記録することがモチベーションでした。

ですが、色んな方の文章を読んだり、小説を読むことが増えたり、とさまざまな表現に触れるうちに、私もそんなものを書きたいと思うようになりました。そのために、今は描写したい空間を表すための適切な言葉や表現を追求しています。




noteをはじめるまで、余暇やスキマ時間といえばスマホやテレビをただ眺めるだけ、本を読むだけ。今ではもう思い出せないような過ごし方だけど、そんな時間さえ大事なひとり時間で、どんなものにも邪魔されたくないと感じていた。

文章を書く、という営みに食われる時間ってそれらの比にならない。1つの文章を完成させるのに、早くても30分〜1時間はかかるし、長ければそれを3日とか繰り返したりする。(私のnoteは大抵が2000字超)

その分、本を読む時間やテレビを見る時間は失われているわけだけど、それを構わない、むしろ好ましいと思っている。

それくらい、noteで文章を綴ることは、私にとって立派な、生活の一部で、余暇の過ごし方の1つで、最高の趣味だ。



私はnoteをはじめたことで、エッセイという表現を知った。そのことで日常の中にあるおもしろさや美しさが見えるようになった。それを描写する力は才能ではなく、意識にあるのではないかと思えるようになった。


再び小説やエッセイを読むことをおぼえた。その中で原田マハさんに出会い、アート鑑賞の醍醐味を知って、また私の生きる世界の中に好きなものを増やすことができた。


写真を撮るとき、角度やスマホの構え方や光とかを少し意識するようになった。(iPhone13になって広角ができるようになったのは大きい。)
なにより、おいしいお店とか旅行先の景色とかいう非日常だけじゃなく、「何気なく空が綺麗だなぁ」とかっていうような愛おしい日常も映すようになった。


そして何よりも、206人ものフォロワーさんに巡り合うことができた。何人か、コメントやTwitter、zoomでお話しする機会を経て、仲良くさせていただける人もできた。私の考え方・文章が好きだ、と言われると、世界には自分を受け入れてくれる人がいるのだなぁと幸せな気持ちになる。中学の頃の私に教えてあげたいと思う。


それらの感情も状況も、noteをはじめなければ知ることのなかったもの。見ることができなかった世界。

私はこの世界で生きていきたい。

これからもずっと、言葉で日常を彩ることを楽しんでいたい。



*****


遅くなりましたが、フォロワーさんが200を超えました。いつも読んでくださっているみなさん、本当にありがとうございます。


実は200人超えたら、改名しようと思ってました。ドット、という名前に特段意味はなく、こんなに続くとは思っていなくて、ノリでつけてしまったことに後悔していたからです。次の名前は、大好きな「水」泳(swim)の「すい」(swi)を少し整えて「翠 swi. 」としよう。そんなところまで考えていました。

結局、200人になったときには、みなさんが呼んで/読んでくださった「ドット」という名前に愛着を持ってしまって、変えることはできませんでした。でも、気まぐれな部分もあるので、いつか変えたらそのときはよろしくお願いします。(そのときでも、「ドット」と呼んでいただいて構いません!むしろ、古参感あって嬉しいです。)




さて、私の脳内会議記録のような文章と、表現に少しだけ気を配ったエッセイ(の練習のような文章)、そして読書記録。

おそらく記事ごとに表現のタイプが全くちがうことと思います。統一感、皆無。そのどれかが好きな方にとっては、記事の当たり外れの多いnoteになってしまっているかもしれません。


きっとこれからもどんどん表現の仕方は変わっていくのだと思います。私も、自分の世界観や自分にしかない表現がないな、と少し気にしたこともありましたが、"書きたい時に書きたいことを書きたいように書こう"と思っているので、ぜひこれからもお付き合いいただけると嬉しいです。


「…"1人のユーザーの方"の文から、"ドットさん"が書いた分だから読むという感覚になりました。…」


最近、フォロワーさんからこんなコメントをいただいて、涙が出そうなほど嬉しかったです。同じようなコメントを、Twitterの方でも言ってくださった方もいて、書き手冥利に尽きます。


「この記事が(たまたま)おもしろそうだから」で読んでいただくことも嬉しいですが、「ドットが書いた文章だから(無条件に)読んでしまう」というような言葉を紡げる人になりたいなぁと思います。noteでの私の目標です。


そこら辺にいる女子大生(3回生)ですが、
みなさんこれからもよろしくお願いします☺︎





p.s. 

個人的に自分のnoteの中で、1番納得のいく「#エッセイ」たちです.(2つだけ…)

この数を増やしていけるように、非日常や頭の中だけじゃない、日常を綴ることを習慣化したいなぁと思う日々です.

公開後追加↓


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