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自分の生活に溺れる

自分を俯瞰してみるということ

『私らしい』とはなにか

「それって、私らしくないから、やらない」
こんな言葉を聞いたことがあるかも知れません。

しかし、そもそも『私らしい』とは何かと、考えたことはありますか?
「考えたことあります」という人の方が少ないかも知れませんね。

私らしいということは、自分で決めることではないのかも知れません。

なぜなら、自分自身のことはよく見えないものだからです。
そのため、「それって、あなたらしくないよ」と人から言われると忽ち困惑する事態に遭遇する。

「え?それって、どういう意味?私らしいってどういうこと?」
となります。
そんな経験、誰でも一度や二度はあるのではないでしょうか。

自分自身が自分から離れて、自分を俯瞰してみることができたら、『私らしい』ということがもっとわかりやすくわかるのではないか、そう思ったこともありました。
幽体離脱、というと、飛躍した話として受け止められがちですが、意外にも誰でも経験している事なのかも知れないのです。

読書をするとき、『いま、その本を読んでいる自分』というのはどこにいますか?
そう言って質問してみて、初めて考えた、という方もいらっしゃるかもしれません。

私の場合で言うと、『その本を読んでいる自分』というのは、読んでいる最中は存在しません。どこにいるのかは不明ですが、その読んでいるときは自分が自分ではなくなっています。
自分は『本の中の世界を見ている誰か』になっていることが多いのです。
つまり、『誰でもない誰か』になっています。

だからこそ、読書の時間というのは内省が深まるのかも知れません。自分という人間から、自分を引き剥がすことができる、簡単な手段であるからです。

自分から離れるから、自分がよく見えるのかも知れません。

『白い、猫のようなもの 』
ペーパーバック – 2022/12/31 
梅本 龍 (著)
本書の中で語られていることは実に興味深いものです。

『もし本当にあいつが僕だとしたら、今の僕は何なのだろう』
物語の主人公、高橋聡賢(たかはしとしたか)が、猫に憑依した場面です。
この場面を見て、私は幼いころの自分の記憶が蘇った。
猫ではないにしろ、自分は自分の身体から自分自身が離れる瞬間というものを経験したことがあるのです。
その時は、何が起こったのか知る由もなかったが、私は実際に自分の身体の真上から見下ろすような形で、自分の姿を自分の目で見ていました。
しかし、自分の意志で動かすことや、言葉を話すことができたのです。

この体験が、今でも夢だったのか幻だったのかは、わかりません。
しかし、本の中の人物や、登場人物の一人となった自分が生きている本の中の世界では、このようなことが起こるのです。
大なり小なり、このような経験をするものだと思うのです。

『白い、猫のようなもの』の中で、自分自身の姿を猫となった自分が見ている場面というものが数多く存在するのですが、このどの場面にも関らずと言っていいほどに出てくるのは『自分自身に対しての感想』というものです。

聡賢の身の回りで起こっている数々の出来事にも、客観的に見ることで、実際に生きている自分の目には見えなかったものが見えています。
そのような出来事の中で、自分がした行いや発した言葉に関しても、実に冷静に、第三者的に考えることができているのです。

これは、なぜ、このように客観的に見ることができるのでしょう。
自分を俯瞰しているからですよね。

では、自分を俯瞰してみることは、日常生活では難しいのでしょうか。
やっぱり難しいですよね。
なぜ難しいのでしょうか。
それは、日常生活に溺れていることに他なりません。

日常生活に溺れること

日常生活に溺れている人が多いのです。

日常生活というのは、『自分の力ではコントロールできないもの』として私たちの前に現れます。

日常生活は、自分の人生における生活であるため、『自分でコントロールできる』と思いがちです。

『自分の人生を生きている』と思っている人がほとんどであるのですが、実はそうではありません。
『人生の選択』というものを、『すべて自分で決めてきた』と思っていること、それ自体が間違っているのです。

日常生活には、自分だけで生活しているわけではありません。
家族や、友人、職場や仕事、お金の問題や、時間的制約など数々の者に縛られて生きています。
それらを加味したうえで、今の自分というのが出来上がっているのです。
つまり、自分の周りの環境次第では、今の自分ではない、全く違った自分になっていたということが言えると思うのです。

例えば、日本人ではなくて、アメリカ人だったら。
性別が逆だったら。
天涯孤独で生まれてきたら。
文字が読めなかったら。
歩くことができなかったら。

そんなことを考えると、自分は『今できる選択の中で選択してきた』と言えますよね。
『英語が話せたら、海外で活躍したかった』
という人は多いでしょう。
『子供がいなかったら、外国で生活したい』
と考えたこともあるでしょう。

ですから、『私らしい』というのは、『私一人が作り出すもの』ではないことがお分かりになると思います。
『私らしい』というのは、自分ではなくて、自分の置かれた環境に対して、自分の役割は何か、ということを理解したうえでこなしている『役割』に他ならないのです。

『私』一人では生きていくことができないし、『私』一人では『私』という存在自体に意味がなくなってしまいます。
『私』というのは、『他者』によって生かされているのであり、『私』というのは、『他者』によって『私という存在になることができる』ものなのです。

ですから『私らしい』とは何か、ということ自体が、自分一人で考えてもわからないものとして、『永遠の課題』として、壁となって私たちの前に立ちふさがっているように感じるのです。
しかし実際には、壁など立ちふさがってなどいないし、『永遠の課題』など存在しないのです。

『私らしい』ということを本気で考えたとき、必ずしなければならないことは、『私ではない私』になって、俯瞰してみる。
それが一番大事のなのです。

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