日本における喫茶の始まり③

『日本後紀』にみる喫茶の始まり。

『日本後紀』とは、

『続日本紀』に続く勅撰の歴史書。40巻。「六国史」の第三番目。792年(延暦11)より833年(天長10)に至る桓武、平城、嵯峨、淳和四天皇の時代42年間の記録を編年体でまとめたもの。819年(弘仁10)嵯峨天皇の指示を受け、藤原冬嗣、藤原緒嗣らが編纂を開始した。その後、藤原緒嗣以外の編者に死亡者が多く、作業は次の淳和天皇の代に持ち越され、編者を補充して続けられたが、十分な成果をあげないうちに天皇の譲位が行われ、編集は停滞した。仁明天皇の代には、改めて藤原緒嗣以下数名の編者が任命され、840年(承和7)に至って完成した。散逸した部分が多く、現在は全40巻のうち、5、8、12、13、14、17、20、21、22、24の10巻しか知られていない。内容では、廷臣の人物を痛烈に批判した伝記の記述に特色がある。写本に1524~33年(大永4~天文2)書写の三条西家本がある。「国史大系」所収。

ジャパンナレッジ「日本大百科全書」2023 NetAdvance Inc,
(https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=709,2023年2月28日取得).

『日本後紀』によると、弘仁6年(815)嵯峨天皇は近江の韓崎(大津市唐崎)に行幸。途中の崇福寺、梵釈寺に立ち寄り、その梵釈寺で大僧都永忠が茶を煎じて天皇に捧げたとある。その他嵯峨天皇の時代に多くの喫茶に関する記事が見られ、平安時代の喫茶の風は高揚期を迎え、限られた貴族や僧侶たちの間で最新の唐文化として流行していたと考えられる。嵯峨天皇は近江行幸の二ヶ月後、茶樹を畿内、近江、丹後、播磨などに上させ、献上させている。


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