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幻を書き記せ


――
幻を書き記せ。
走りながらでも読めるように
板の上にはっきりと記せ。
定められた時のために
もうひとつの幻があるからだ。
――



私の無二の友は、去る初夏の昼下がりに死んだ。

その最期は病室でではなく、彼が長らく交際を断っていた生家の小部屋の畳の上にあって、眠るように死んだそうである。

我が友は逝くにあたって、なんという言葉をも遺さなかった。

だから彼が最後にどんな思いを胸にしていたか、もはや知る由もない――

と思っていた。


つい昨日のことである。

友が終生憎み、忌み嫌っていた彼の肉親から連絡があった。

いや、正確には、彼の死んだという報せをもらってこの方、私は彼らとはただの一度たりとも口をきいていない――ききたくもないし、別段彼らにたいしては、はたすべくなんという義理や約束のあるはずもないから。

それでも私はつい昨日の昼下がり、ほかならぬ彼が「肉親」から、私のところへ言伝を届けられたのだった。

その肉親とは、私の家のささやかなバルコニーを訪った、一匹の蛙のことだった。


あらかじめ断っておきたいことに、私はこれからなにかしら奇異の、奇怪の、不可思議の小話のひとつでも披露してみせようというのではない。

ただ、

我が友が今わの際にあって横たわった病床から、ふと眺めやろうとした庭先の、その手前の軒先のその上に、さながら猫のように香箱座りをした一匹の蛙が友の顔を見つめ返していた――そのような「幻」を、私がこの目で見たものであると、ここにはっきりと書き記しておきたいだけなのである。

だからこれは、純然たる幻であって、それ以上でも、以外でもない。

私がこの目をもって見つめた嘘偽りない、正真正銘の幻ではあっても、幻である以上はそれの夢でもあり、幻想でもあることを知る。あるいは我が脳がいたずらに見せた譫妄や仮想現実ですらあるやもしれぬ。

さりながら、

これだけは言っておくが、

私の友は生前、己の死を悟り、それに向き合い、見つめつづけた日々にあって、生家の庭先で軽快に跳ねまわる一匹の蛙を認めた――そうして、まるで罪のない幼子のようにひた遊ぶその姿を眺めるともなく眺めながら、なにがゆえにか私の顔を思い出し、私の顔が蛙に似ているとひと言つぶやいて、笑ったそうなのである。


…はじめて訃報に接したその時、私はそんな話を、彼が「肉の親」の口から、聞き及んだ。

その時は、日本史の”穢れ”ともいうべき「団塊の世代」に属する一人のクソババアにあって、いったいなにをさかんに電話口にてだべっているのか、まったく理解できなかった。

理解できなかった以上に、その時の私の心は、ひたすらに言いがたき怒りと嘆きと呻きと哀歌とにとらわれて、何一つまともに聞くことも、考えることもできないでいた。

それゆえに、

それゆえに、この私をいつもいつでもいかなる状況下にあっても強め、力づけ、雄々しく、勇ましく戦わせる”霊”によって、私は『友よ、我が霊とともに…』という一連の文章を書き飛ばした。

まさにその文字の表すとおり、書いて、打って、殴って、飛ばしたのだった。

それゆえに、

それゆえに、わたしの神イエス・キリストと父なる神の”霊”によって、ここにはっきりと確言しておく、

私が書いて、打って、殴って、飛ばした文章のひとつひとつとは、不可視の教会をその心に持たぬがために、可視の教会によって身も心も支配されるしか手立てのなくなった、この世のユダヤ教だのキリスト教だのいう……

ああ、こんな下等すぎる議論なんか、アルファからオメガまで、どうだっていい話であった。



かつて、正岡子規という歌人は言った。

人の希望は初め、漠然として大きく後、漸く小さく確実になるならひなり、と。

私は、この者の詠んだ数多の詩歌については、あれやこれやと、愛と情熱がゆえにケチをつけたくなるのだけれども、同じ彼の生き様については、まったくその限りではない。

この、「六尺の病牀が余には広すぎるのである」と血反吐を吐きながらみまかった愛すべき祖先もまた、我が無二の友のように不治の病にその身を冒された口だった。

だから私は、

遠く歩行(あるき)得ずともよし、庭の内だに歩行き得ば……という彼の願望が、

やがて、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん……というふうに削られて、

さらには、立つ事は望まず坐るばかりは……となるまでに小さく刻まれ、

とうとう、坐る事はともあれせめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥(ふ)し得ば如何に嬉しからん……と、、、

そのように、しだいしだいに、確実確実に、着実着実に失われていく希望をば、のたうちまわりながらも最後の最後まで捨てることのなかった、子規なる男の死に様に、我が名もなき友のそれをも重ね合わせるものである。


それゆえに、

それゆえに、誰しもこのような私の哀哭に向かって、それひっきょうセンチメンタルな妄想ばかりにして、あるいは自慰のごとき、あるいは自己憐憫のもたらしめたる甘美な、ナイーブな、どこまでも弱り切った自我にのみ優しき「幻」に如かんだなどと、のたまう者があるとすれば、

はっきりとはっきりと言っておく、その者の誰であっても、とこしへに神に呪われよ。

くだんの、いっぺんの憐れみもかけられずに滅ぼし尽くされるべきこの世のユダヤ教キリスト教の世界に巣食う偽預言者や偽りのユダヤ人たちととともに、わたしの神イエス・キリストと父なる神によって、とこしへに呪われよ。

それに、

いやしくも事実たるものの、そんな滅びの子らののたまう通りであったとして、なおのこと、それがなんであろう。

かつて『憐れみの器』にいみじくも書き記しておいたように、私は、我が内に与えられたる信仰によって、私の真の同胞であり、先祖であり、家族であるところの戦没者たちにそうしたように、真の友の死を思い、悼み、今なおもって喪に服しているばかりではないか。


…我が家の縁側を訪れた、いずこからまかり出て来たやも知れぬ一匹の蛙は、ただじっと、ぽつねんと、うつけたように座っていた。

斜を向いたまま、あるいはもうすでに死んでしまっているかのように、赤子のような可愛らしい手足の先もしだいに干乾びつつあるがごとくに、微動だにしなかった。

私という巨大な霊長類が近づいていこうが、精悍な若草色をその背にとどめた矮小なる爬虫類は、さながらなにかに向かって一心に祈りを捧げているがごとくに、意に介さなかった。

意に介さないような粋がったかんばせと、どこを見つめるともないようで、そこはかとなく鋭い光を宿した大きな目玉を、時たま細めたり、細めてはまたぐりつかせたりをくり返しながら、きぜわしそうに、顎の下らへんを始終ヒクつかせていた。

私は、長かった夏も終焉を迎えてなお、実りの秋にはほど遠い、狭間の日のもの静かな昼下がりに、小さな木製のバルコニーの上に過ぎ去った暑熱の置き忘れたような一掬の”翠”を、眺めるともなく眺めていた。

と、その時――

雲間から差し込んだ、斜陽のような、曙光のような、そのどちらでもないような一条の光にさらされて、蛙の背の半分が、燦然とした。


やがて、美々しき光をほしいままにしたその背中によって、私は満身を激しく揺さぶられながら、我が心に、あの書きかけの小説のことを思い浮かべた。

いや、それはいまだ一文字とさえ書き出したことのない、見果てぬ物語だった。

にもかかわらず、それはまたすでにもってものされ、仕上げられ、書き下ろされた、完全無欠の芸術だった。

それゆえに、

それゆえに、神が、名もなき一人の小説家のために授けた天稟の想像力なぞによってもたらしたものよりも、それははるかに克明で、はるかに精細で、はるかに――

ああ、そうだ、

まるでまるで天蓋に置かれた須臾の虹にも勝るほどに佳美しくして、それゆえに、それゆえに、それはかつてあらゆる預言者たちを通して語られた託宣のように荘厳な、「幻」だったのだ。


だから、

だからこそ、私は笑った。

バカめ、蛙に似ていたのは俺ではなく、お前の方ではないか、と。


蛙よ、

佳美しき蛙よ、

お前は昨日、俺のところにやって来た。

愛する人も、お前のことをも失くした俺のところへ、お前は一匹の蛙に身をやつし、会いにやって来た。

病んで、泣いて、狂って、死んで、なお――肉は溶け、骨は溶けてあますところなく、煙と、灰と、塵と、芥に還って、なお――お前の”霊”は、なおさらに、ことさらに、俺を慕い、尋ね、探し求めて、やって来た。

昼となく、夜となく、ただひたぶるに、ぴょん、ぴょん、ぴょんと明け暮れて、、、いったいいずこの果てから、旅して来たのだろうか。


蛙よ、

美々しき蛙よ、

お前は俺を愛していた。

俺もお前を愛していた。

この地上にあって、俺たちは切り分けられて、ふたたび重ね合わされようとする、同じ果実だった。

だから、

だからこそ、お前は俺の祈りを耳にして、俺たちの神のところから俺のところへと、遣わされた。

つい数日前に、俺が俺たちの神に祈り求めた「翼」をば、この俺の背に授けるために、

ただそのためにこそ…。


蛙よ、

俺が祈り求めた「翼」とは、お前のことだったのだ。

お前は俺の心の中心で、俺のための不可視の「翼」となった。

お前のことを思うとき、俺はいつでもこの神々しき若草色を輝かしめた、あの蛙のことを想い起し、

その時、俺の心は鷲のように翼をかって、どこまでもどこまでも、上へ上へと翔け上がってゆくだろう。

蛙よ、

たとえこの世界の片隅で、ご大層ななにかによって踏みつぶされて、あっけもなく殺されて、ぐちゃぐちゃになった臓腑を晒したその上に、無数の赫い蟻の群がたかっても――

それでもなお、誰にも気づかれることなく、一抹の同情さえ抱かれることのないほどに矮小な、あまりに矮小な命であったとしても――

それでも、それでもお前はそれに身をやつし、霊を宿し、想いを託し、神の言葉を携えながら…

蛙よ、

それゆえに、それゆえに、はっきりと言っておく、

俺はたしかに今日、お前に託されたパピルスの巻物を受け取った。


―― お前の信仰のとおりにお前に成れ ―――


お前は俺のための、「山々を行きめぐる美しい足」となってくれた。

お前が、お前自身が、俺の、俺自身のための、「神の言葉」となってくれたのだ。

ありがとう。

案ずるな。

もう休め。

お前の分まで俺が生きてやるから。

だから今はただ、ゆっくり眠れ。

俺のところで、ただとこしへに……。


かの日にあって、俺たちはまた出会う。

かつての懐かしいお前の面影を宿した、まったき姿にされたお前であっても、俺はすぐに、お前を見出すことができる。

海辺の砂の中にもたったひと粒の砂金を掴み分けるように、

満天の星々の中からもたったひとつの特別なかがやき選び分けるように、

俺はお前の姿を見分け出し、馳せ寄っていくであろう。

なぜとなら、

なぜとなら、俺はもうすでに、かの日のお前の姿を見ているのだから――

お前はたしかに、いつだってちょっと滑稽な、ひょうげた蛙のような奴だった、

それでもたしかにお前は、永遠に褪せることのない若草色をかがやかせた蛙のような奴だった、

そんな「幻のお前」を、俺はこの目で見ているのだから。


だから、

だからもはや、なにも言うことはない。

もはやふたたび、俺のところを訪うにも及ばない。

なぜとなら、

なぜとならば、俺はもはや迷うことはけっしてない。

俺はお前を失ってからというもの、魂は路頭に迷っていた。

しかし、俺はもう、迷うことはない。

お前の死が俺を変えたのだ。

お前の死によって俺は生きるのだ。

そして俺の生きることによってお前もまた、永遠に生きるのだ。


だから、

だから今日、俺はお前の名を俺の掌に刻んだ。

走りながらでも読めるように、俺の心の板の上にはっきりと…。

それゆえに、

それゆえに、俺はこれからもお前と共にいる。

いつもいつでもいつまでも、お前と共にいる。


友よ、我が霊とともに…



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