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虚構と事実、歴史を理解するには。。〜CHAIN チェイン〜

CHAIN チェイン

あらすじ
新選組終焉の象徴とも言われる油小路の変を背景に、激動の時代を生きた無名の人々の生き様を描いた群像劇。幕末の京都。鎖国により国際的に長く孤立状態にあった日本を変えるため、若者たちはさまざまな主義主張をぶつけ合い、血を流し争っていた。会津藩を脱藩した無名浪士の山川桜七郎は、ある事件をきっかけに近藤勇率いる新選組と伊東甲子太郎率いる御陵衛士の対立に巻き込まれる。

本作は京都芸術大学の学生とプロの製作陣がタッグを組んだ作品で、これまでも「嵐電」や「のさりの島」など様々な作品を輩出しており、これらの作品群を”北白川派”と称している。

嵐電は数年前に鑑賞しており、まさか同じ流れにある作品だったとは思いもしなかったので驚いている。

私は嵐電の大事な軸として「時間」があると思っている。

嵐電という電車は過去から現在にかけて変わらずに走り続けており、私たちは物理的には今あるその瞬間しかそれを見る事ができない。過去をかえりみるには記録媒体を介してしかそれを確認することはできないのだ。

それを記録する媒体にスーパー8ミリフィルムを用いた現代の学生が記録しているという構図に過去と現在が交差しているようなメタファーを感じ、刺激的な映像体験であったように思える。

今回のCHAINも、まさしく「時間」や「空間」がモチーフとして挙げられる。

時代劇の常識が根底から覆る映像表現を観ることができる。

現代の京都の中に、時代劇の物語が入り込んでいるのだ。この言い回しで伝わっているのかどうか不安であるが、要は現代と幕末が入り混じる形で映像が作られているのだ。

それが話の中でちょくちょく挟み込まれてくる。

これが何を指し示しているのか。物語に関係しているというよりも、京都という土地と時代と時代のつながりを表していると思われる。

「嵐電」という作品では嵐電という電車が時代を越える存在として描かれていたように思える。

今回は京都という場所、それ自体が時代を超えて形を変えながらも現代にまで繋がって私たちは観光したり、そこで生活する人がいたりするわけだ。

チェインの舞台は幕末。幕末はこれまで200年続いてきた江戸時代がまさに終わる時代である。激動の時代。革命が起こる時にはたくさんの殺人が繰り広げられてきた。

坂本龍馬をはじめとした暗殺事件は歴史の授業でも記憶に残っている人は多いことだろう。

そんないつどこで誰が殺されるかわからないような時代、現代でも悲惨な殺人事件はあとを絶たないが、自分の知らないところで、時代で、誰かが血を流している。

現在繰り広げられている戦争では悲惨な状況が毎日のように報じられているが、日本でもかつては国内で戦争していた時代があったわけだ。

そんなことは時間の経過とともに忘れ去られる。現に今歩いてるその道で遠かれ近かれ、人が殺されているかもしれない。そんなことは知る由もなくその道を歩いている。

そんなことなんて自覚のしようがないであろうに。

東京駅に時の首相、原敬が暗殺された場所に目印があることはご存知だろうか。

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あんだけたくさんの人がいるにも関わらず、特に気にすることもなくその現場を踏みつけている人たち。ここまで溶け込んでしまうと果たしてそんなことが本当にあたのだろうかとさえ感じてしまう。

博物館や資料館でも、そこに展示されているのは遺産と呼ばれているもの。それは時代を超えて存在する物体。私たちは脳内変換でそれが過去から現在にかけて存在し得ている、ここにあることで存在かちが付与されているものとして目の前にあるということを理解した上でようやく入館料の元を取ることができるのだ。

何を言っているのでしょうね。


時代劇というものに魅力を感じない若者は多いと思う。それはどう考えてもリアリティのなさにあるのではないだろうか。それをあえて、モチーフとして扱い、現代の京都にわざと丁髷の武士がいるという設定を大学生たちが考え、制作したという背景は非常に興味深い。

この作品は現在の京都、そしてそこに住む人たち自身をうつす鏡としての機能があるのではないだろうか。この作品を見たときに何を思うだろうか、考えた上でどう行為するだろうか。

自分に期待しているところと期待なんてするわけないという気持ちが拮抗している。所詮人1人の人生なんて長い歴史から見れば点みたいなものだから、気楽に生きようという思いもあるが、せっかくならいい人生を次の世代に送ってもらいたいと考えるならある程度利他的に振る舞いたいと思う今日この頃である。

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