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ひみつ道具の原理原則|映画『オッペンハイマー』

昭和の日を前に、クリストファー・ノーラン監督の最新作『オッペンハイマー』を観てみれば、3時間を超える伝記映画にもかかわらず、すっかりと没入させられます。本当に恐ろしいのは原爆ではなく人の心だという深いテーマは、自然を介してテクノロジーと向き合う私たちに、ひみつ道具の原理原則を改めて突きつけるものだと思うのです。

 米国から遅れること8ヶ月、今年のアカデミー賞を盛り上げた映画『オッペンハイマー(Oppenheimer)』が日本でも公開された。原爆の父として知られる稀代の物理学者が、なぜ今また取り上げられたのか。ロシアによるウクライナ侵攻が止まず、とうとう核兵器利用の可能性まで疑われる中、やはりこんなものを作るべきではなかったという歴史批判なのだろうか。それはそのまま、現代に突如現れ、私たちを混乱させている生成AIに対する警告とも捉えることができる。コンピューターだって、インターネットだって、そもそもは軍事目的で開発されたものだ。国家の関与も珍しくないサイバー攻撃において、昨今はAIファジングや、機械学習ポイズニングなどのAIを活用した手法が増えている。しかし、クリストファー・ノーラン(Christopher Nolan)監督は今回の作品とAIとの接続性を否定した。

 雑誌「WIRED」のインタビューにてノーラン氏は、オッペンハイマーのストーリは長いこと考え続けていたものだと語っている。2020年に公開された前作『TENETテネット』のセリフにはすでにその名前があったそうだ。物理学に傾倒し、時空間をテーマとする作品が多い監督らしく、良くも悪くも量子力学の実用を叶えた最重要人物を描くことは、必然だったのかもしれない。一方で、だからというべきか、必ずしもデジタルテクノロジーを好んではいない。「オッペンハイマー」でもCGの利用を最低限とすべく、撮影には大判のフィルム・カメラを使い、モノクロシーンを残すために専用のフィルムまで作らせたという。そして、インタビューにおいて、原子力とAIとの間には「根本的な違い」があると答えている。核分裂は自然の摂理であって、人間が生み出したものではない。対するAIは、もちろん自然界には存在しない。

 作品が公開されると、原爆投下のシーンが描かれていないことに多くの日本人が不快感を示した。全編がオッペンハイマーの視点で描かれる本作品において、実際に本人が見ていないであろう惨事が省略されたことについては違和感がないものの、原爆の恐ろしさを語り継いできた私たちには、やはり残念な気持ちが残る。アラモゴードでの核実験の成功を物語のクライマックスに位置付けて良いものなのか。実際の投下候補地から京都が外される場面がわざわざ差し込まれたのは、何らかの擁護のようにも思えてしまう。陸軍将校がハネムーンに行った場所だというセリフを聞いて、当時から京都は欧米人にも魅力的な古都だったのだと気付かされる。豊かな自然の中に溶け込む町並み。木や紙で作られた建物は内と外の隔たりを曖昧にする。そこには物理的な強度を求める西洋の街とは全く違う美しさがあったはずだ。

 戦争を体験している比較文学者・平川祐弘氏の著書『西洋人の神道観』(河出文庫、2024)によれば、西洋人の視点において、いわゆるアミニズムは土着の思想としてキリスト教よりも下位に置かれてきた。日本の神道もそこに位置付けられる。いや、それどころか、明治の頃には宗教として認められないという見方が主流だったようだ。滅びゆくはずの土着信仰。これが明治後期から大正にかけて、国教としての色合いを強める。そして、天皇主権を補強する。第二次世界大戦において、アメリカ軍が明治神宮を焼き払ったのは、日本のナショナリズムを宗教的熱狂と捉えたためだと言うのが平川氏の解釈だ。未熟な宗教の主導者が率いる日本軍は、さぞかし不気味に思われたことだろう。それでも京都を中心とする日本文化は守られた。原爆の圧倒的な力で制する対象は軍事工場の集まる小都市に限定された。キリスト教的な解釈によって、神が創りし自然を破壊するのは躊躇われたのかも知れない。映画では、最後まで世界を破壊する可能性を排せないままに実験に向かうオッペンハイマーが印象的だった。

 マンハッタン計画を成功させたオッペンハイマーは、さらに強力な水素爆弾の開発に反対する。これをきっかけに公職から追放されてしまったというのは有名な話だけれど、それがいかに不当な手続きだったかを訴えるのがクリストファー・ノーラン氏の本作の主題だろう。オッペンハイマーが水爆推進派からの個人的な恨みによって失脚させられる様子をモノクロ映像で丁寧に見せられれば、本当に恐ろしいのは自然ではなく、人が作った原爆でもなく、人それ自体であることに気付く。テクノロジーの作り手と使い手の分離が世界を誤った方向に導くのかも知れない。なるほど、そう考えると、ノーラン氏がアナログなテクノロジーにこだわる理由もわかってくる。自分には理解し切れないデジタル技術に作品制作を委ねることには不安が伴うのだろう。AIなんて尚更だ。戦後を生きる私たちはひみつ道具に振り回されるリスクを、のび太から十分に学んできたはずだと思うのだ。


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