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伝統の技とアートのコラボで、他にない新しい価値を。

前回取材記事の「庵治石の職人になるには、どんなに短くとも10年ほどはかかる。10年続けても一人前になれるのは才能あるごく一部の人たちだけ」という言葉がとても印象に残っています。

どうも!たぶん、加工。です。

石の上にも3年、なんて言いますが、3年じゃ到底身につくものじゃないし、ゆえに道半ばで挫折する人も多い。そんな厳しい世界で、修行に、留学にと石の魅力を伝えるために邁進してきた職人がいます。

牟礼・庵治産地の中でも由緒ある太田姓、芸術家AKIHOTATAのもとに生まれ、直系の血筋が石屋をやめるという窮地にいたって石工を目指すようになったという石屋TATAの二代目、太田眞介おおたしんすけ
石工職人になると決心した18歳の頃から数えて約14年、家業を継いだ32歳の若手職人に取材しました。


▼前回取材記事はこちら!


太田眞介(おおた しんすけ)

プロフィール

石屋TATA代表。
技能五輪全国大会で銀・銅メダル受賞歴あり。1級技能士(石材加工・石積み・石張り)。灯篭、彫刻などの加工を得意とし、伝統的な技術を駆使した新たな作品制作にも挑戦している。
石屋TATA&AKOHOTATA→https://www.ishiya-akihotata.com/
▼好きな食べ物
鶏南蛮、オムライス
▼趣味
野球、スポーツ観戦
▼必殺技
伝統的な技術を使った石材細工
▼座右の銘
人生楽しんだもん勝ち


1.お笑い芸人になりたかった高校生時代

ー牟礼・庵治の産地には「太田」「和泉」姓が多いと聞きました。太田さんはもしかしてその末裔ですか?

太田さん:
そうです。
1800年代、讃岐東照宮屋島神社さぬきとうしょうぐうやしまじんじゃ建設のために大阪の和泉市から派遣された「太田」「和泉」という2人の石工が庵治石の石工職人のルーツと言われています。この姓が多いのはご先祖さまがこの地に残って、そこから石工の技術が広がっていったからですね。

僕のおじいちゃんはその太田姓の直系と言われています。長男(太田さんの叔父さん)が本家の採石業を継いで、次男である僕の父が新家として石材加工業を始めて、二人三脚でやってきた感じです。

ー由緒ある家柄なんですね。石工になろうと思ったのはそういうところからですか?

太田さん

太田:
うーん、決心したのは太田の流れを残したかったからですけど…小さい頃から石工になりたかったかというと全然ですよ。僕、お笑い芸人になりたかったんです。

高校生の頃は同級生とコンビを組んで色々活動してました。でも地元のイベントで大滑りして、これが結構こたえたんです。
相方は公務員試験受けるとか言い出すし、「自分も何か仕事せないかんやろうなあ…」ってぼんやり考え始めて。

そんな矢先に本家を継いでいた叔父さんが山を下りるって言い出したんですよ。実はその年の春にはおじいちゃんが亡くなってて、代々続いてきた太田直系の血筋が石材業をやめてしまうという話になったんです。
叔父さんで9代目、いとこで10代目というところでした。

いやいや、太田が石屋やらんで誰がやるんやと思って。やっぱり太田がやらないかん、僕がやらないかんと思って。
決心したきっかけは、正直ほとんど義務感でしたね。
それが高校3年生のときのことです。


2.苦しい修業期間を支えたのは、根っからの「負けず嫌い根性」。

ー高校卒業後、愛知県岡崎市の上新うえしん石材店に修行に出るんですよね。

太田:
そう。「やるなら中途半端なことはするな」と父親に言われて、日本三大石材産地の一つである愛知県岡崎市の上新石材店に弟子入りすることにしました。

▼上新石材店さん

製品を作るとき分業する人が多い中で、親方は「石のことなら全般なんでもやるよー」って人だったので、そこが父親と同じだなと思って。

あと、弟子入り前に上新石材店の展示場を見せてもらえるタイミングがあったんです。
親方が展示場のスイッチをポンポンポンって3つくらい付けたら、もう一気に展示場がぱあ~っと明るくなって。それ見た瞬間に、もう、ほんとにすごい、うわあ~!ってなったんですよ。

色も形も模様も質感も、僕が知ってる石と全然違ってて、ずっと表情豊かで、「石ってこんなに色んな魅力があるんや!」って感動して。

ただ作るだけじゃない、こうやって色んな技、色んな表現、色んな想いを乗せて新しい価値を生み出すようなものづくりができたらいいなあと思って…それがたぶん、初めて石の魅力に目覚めたタイミングだったと思います。

「ここだ!」と思って、親方に何度も直接頭を下げに行きました。最初は突っぱねられてたんですけどね(笑) なんとか受け入れてもらえて、そこから住み込みで昼は修行、夜は職業訓練学校に通う生活を始めました。

ーすごい行動力ですね。それがあればもう怖いものナシな気がします。

太田:
いやでも、修業期間中は正直めちゃくちゃきつかったですよ。「帰れ」ってずっと言われ続けたし。修行も「石工はのみ使えんと話にならん」って、最初は手加工で真っすぐな面を作るのを延々とやってました。

苦しかったししんどかったし、当時はいつでもやめたいと思ってましたけど…修行の3年間とお礼奉公の1年間、この4年間だけはと思って必死に歯を食いしばった期間でした。

ーそれだけしんどかったのに頑張れた原動力はなんだったんでしょうか?

太田:
やっぱり牟礼・庵治っていう日本最大の石の産地から来てるっていうのと…石屋である父親の顔に泥を塗りたくなかったからです。
石屋の息子が修行途中で尻尾巻いて逃げ帰ったってなったら、父親の株を下げてしまう。それになにより、僕自身も嫌だったんです。

負けず嫌いなんですよ。やるからには絶対一番になりたいし、極めたい。なにがなんでも負けたくない。小さい頃からそうなんです。


3.石の魅力を世界へ。先を見据えてシドニー留学へ。

ーその後は実家に帰ってきて、家業を手伝っていた感じですか?

太田:
そうですね。2年半くらい父親と一緒に仕事をしました。でもその後すぐに単身でシドニーに行くんですけどね。

父親の海外の展覧会にアシスタントとしてついて行ったことがあるんです。そこでオーストラリアでの日本の文化に対するリスペクトのされ方を知って、改めて日本の伝統工芸・伝統技術の可能性を感じました。

そこで「海外にももっと石の魅力を伝えていけんかな?」って考えて「そしたら英語話せないかんわ!留学しよ!」と思って。

ーえええ展開早すぎませんか!?

太田:
思い立ったが吉日って言いますからね!24歳になる年だったと思います。
現金50万だけ握りしめて渡豪したんですけど、まあ足りないですよね。

やば!と思って偶然見つけた日本人の経営するお店に突撃して、バイトしながら現地の語学学校に通って英語の勉強をしました。

途中からは現地の石屋さんで働き始めて、だいたい2年半くらいいたのかな。ワーキングホリデービザが切れるタイミングで帰国しました。

ーど、怒涛の20代ですね…。

太田:
駆け抜けたーって感じでしたね。帰国後すぐ「じゃあもう世代交代な」って言われて、元々両親の作家名「アキホタタ」でやってたのを、翌年元旦に屋号を「石屋TATA」に変えて、晴れて世代交代。27歳でした。

さすがにその頃にはもう、満身創痍でしたね。


4.石そのものの魅力を活かす技

ーとにかくがむしゃらに頑張ってきたんですね。(※)全国技能五輪大会では銀メダル、銅メダルも獲得していますが、専門は石材細工になるんでしょうか?

(※)全国技能五輪大会とは…都道府県ごとに選抜された23歳以下の技能者が、各職種で技能レベルの日本一を競う全国大会。

太田:
大きくはそうですね。
その中でも得意なのは伝統的な手作業での細工と、物で言うと灯篭が一番作り慣れてるかな。

機械でぴゃーんって切れば真っすぐな面は作れるけど、それじゃ石らしくないじゃないですか。極端な話、自然な肌にあんまり手をかけたくないというか、僕はあの石らしいごつごつした肌がやっぱり好きなんです。

これなんかも、この表面の質感は全部のみと石頭せっとう(※手加工の際に使う金槌の一種)を使って手で打って作ってるんです。この石肌は伝統的なやり方・手作業でないと絶対に出せない。古き良き手仕事ゆえの味わいです。

<金閣寺型水鉢の模型サイズ>
本来は模様の入った面が4面揃うが、あえて1面だけごつごつした石の肌を残した。

今は売れちゃって手元にないんですけど、小さい坪庭を作ってて。それもすごく印象に残ってます。

<坪庭>

太田:
今、庭を持ってる家庭ってどんどん少なくなってるじゃないですか。だからみんな庭に灯篭置いて、池や堀があって、ってこと自体なかなかできないと思うんですけど、それでも「灯篭ってほんまは家にあったら和風でオシャレで、癒しになるんですよ」っていう提案をしたくて。
どうしたらいいだろう、と考えたときに、「場所をとらずに日本庭園ができたらいいよね」と思ったんです。

「1m四方で日本庭園ができる」っていうコンセプトで、小さいししおどしや灯篭を作って、それがひとつの坪庭になるような作品を作りました。もちろん一つひとつ手作業で細かく彫って、妥協なく作っています。スイッチを入れるとちゃんと明かりもつくし、ししおどしに水を流して循環させることもできます。

でも、小さいほど加工がしにくくてすごく手間がかかるので、価格としては決して安いものではないんですよ。それでも作っていれば定期的に売れていく。過去に4つほど作ってたやつはみんな売れちゃいました。

石って別に、生活必需品じゃない。それでもこれには価値を感じて買ってくれる人がいるから、自分で考えた中では「付加価値をつける」っていうのがうまくいったものなのかなあと思ってます。

ーこうして精力的に活動されてるのは、こういう石の魅力を伝えていきたい、っていうところからですか?

太田:
そうですね。
あと、石って何百年、何千年と残っていくじゃないですか。ピラミッドなんてその最たる例ですけど、こんなに残っていくものって正直他にないと思うんです。

いいものを作っていればきっとそれは後世に残っていくし、もしかしたら語り継がれていくかもしれない。僕らの仕事はそういうものを作っていける、数少ない仕事だと思っています。
そう思うとすごくワクワクするし、すごく力が入るというか。中途半端なものは作れないなあと思いますね。

ただ、すぐに誰でもなれる職業じゃないし、一朝一夕で身につく技術でもないので、そこは難しいですけどね。ここをこう作るにはこっちを削って、みたいな職人としての感覚、感性を磨いていくのにだいぶ時間がかかるので。

ーリーダーの古市さんも全く同じことを言っていました。一人前になるまでにはどんなに短くとも10年ほどはかかる。むしろ10年で1人前になれるのはごく一部の才能がある人だけだ、って。

そうですね。本当にそうですよ。
僕も職人としては丸14年くらいになりますけど、正直上達したな、上手くなったなって実感することってほとんどないです。納得できなくてたまに作り直すときもあります。

いつも「まだまだやなあ」って思ってしまう。作り上げたものに100%満足できたことはないですね。

<その他の作品たち>


5.伝統の技とアートのコラボで、他にない新しい価値を

ー今、墓石産業は苦しい局面を迎えています。業界として、今後どう舵を切っていくべきでしょうか?

太田:
石にどれだけ付加価値をつけられるか、っていうところは模索していかないといけないと思います。

そもそもお墓を建てるっていう文化風習自体がなくなりつつあるのに、そこにしがみついてたら確実に足元掬われるだろうなっていう危機感はかなりあって。仕事が0にはならないとしても、100あったものが10に減ったらほとんどの石屋がやっていけないだろうから。

だから、原点回帰でいかに石に付加価値をつけていくか。これを本当は個人じゃなくて、業界全体としてやっていかないといけないんじゃないかと思ってます。
「石買わなくても生きていけるんで」って言われてしまったらもう、ね。終わりなんで。

でもたとえば、結婚指輪なんかは別に天然石である必要はないし、何ならアクセサリー自体無くても生きていける。けど、みんな欲しくなりますよね。
綺麗だから、とか、記念に、とか、色んな付加価値がついてるから。石も同じで、そこに色んな想いや技やコンセプトが乗っていけば、物質以上の意味と価値がつくと思うんです。

ただ、小さいものをたくさん作るのだと、たぶん仕事としては上手くいかない。というのが、庵治石の加工自体がそんなに簡単にできるものじゃないし、結果的に手の込んだものを作れば加工単価は上がってしまうから。
だから多少高くても「これだったら」って思ってもらえるようなものを作っていけるかどうかだと思います。

ー太田さん個人としては、今後どんなことをやっていきたいですか?

太田:
TATAの流れを組んだ伝統的な技術とアーティストの感覚を組み合わせた作品で、石が持つ可能性をもっともっと世の中に伝えていきたいですね。

たとえば庭造り一つとっても、石だけじゃないんです。コンセプトを設定して、空間づくりから提案する。アイデアだったり、アートの力だったり、伝統的な技術だったり、色んな要素とそれぞれの良さを取り込みながら「これはなかなかないよね」「斬新で面白いよね」って言っていただけるような提案をしていきたいと思っています。

それに、たぶん、加工。も「石工職人の加工技術の価値を広める」っていうコンセプトで活動している。石工のアイデアと技術でそういう提案ができたら、きっと石工の価値を広めていくところにも繋がっていくと思うんです。

たぶん、加工。とは?

水晶と同程度を誇る硬度と、唯一無二の模様“斑(ふ)”や繊細な石質による品格、そして希少性。すべてを兼ね備えた香川県高松市東部の牟礼町、庵治町でのみ産出される世界一の銘石「庵治石」。
たぶん、加工。は、そんな庵治石の里の石工たち、讃岐石材加工協同組合 石栄会所属の超石工アーティスト集団。アート、プロダクト、グルメ、グラフィック、テクノロジーなどの様々なクリエイターとコラボレーションすることで、新たな「加工」の価値を生み出す。
「うわ~これすごい!」「かっこいい!」なぜかって?
それ、たぶん、加工です。

たぶん、加工。ブランドサイト

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