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【書評】「学校教育の論理」と「家庭教育の論理」との不一致について

大学では、教育学部でした。

といっても、学校の先生になるための勉強をするわけではなく、教育哲学・教育行政学・教育心理学など、テーマが「教育」ということだけが共通する、カオスな学部でした。

その原理で考えれば、「家庭学部」「交通学部」「恋愛学部」(!)があってもおかしくないとも言える中、「教育」が学部として成立していることの意味を重く受け止める必要がある一方、文系いらない!という風潮で真っ先につぶされそうな気がしないこともありません。

……話が逸れましたが、きょうはその中のひとつ「教育社会学」の先生による単著『<ヤンチャな子ら>のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す』の中から、印象に残ったひとつのエピソードを紹介します。

この本は、著者がいわゆる「ヤンキー」の高校生を参与観察し、卒業後の進路までを丁寧に追った研究の成果。ヤンキーについてはいろいろな場面で語られる(マイルドヤンキーも話題になった)のに、調査に基づいてその存在を読み解いたものはほとんどない、という問題意識から研究を始めたそうです。著者は知りたいことを教えてもらうために、高校で授業のサポートをしながら教室に溶け込み、フィールドノートをつけていきました。

私がいちばん考えさせられたのは、「学校教育の論理と家庭教育の論理との不一致」について。まずは本から引用します。

ヤンチャな子らは、家庭教育の論理を学校教育の論理に対置することで、自らの行為に正当性を与えようとする。とりわけ、喫煙に対する<ヤンチャな子ら>の考え方に、それを垣間見ることができる。(p.83)
学校は「喫煙行為それ自体をしてはいけない」から停学にしているのに対して、彼らの親たちは、喫煙行為それ自体は「自己責任」であり、学校で「ばれる」こちゃ、それによって「親に迷惑をかける」ことがいけないのだという。家庭と学校の教育の論理にこのような不一致がみられるのである。(p.84)

学校での正しさと、家庭での正しさが違う。

著者によると、子供たちもその不一致を認識していて、それは時に自分たちの行動(喫煙、退学など)を正当化する場合に用いられることもあるそうなのです。

本に書かれているのはここまで。この先は私が考えたことを書きます。


学校と家庭の規範が違う、どちらも「大人」なのに違うことを言っている……その状況で子どもが受けるストレスは、かなり大きいのではないかと想像します。

私の家庭は両親が教育関係だったこともあり、学校と家庭の隔たりを感じたことはありませんでした。そしてこの本を読むまでは、そこに乖離のある家庭が存在するということを、意識したこともありませんでした。

私の知らないところで、そういう矛盾に苦しんでいた友達もいたのかもしれない。

今回の観察対象は高校生なので、その違いは「本音と建前だ」みたいに、うまく処理できているのかもしれません。でも小学生・中学生だと、無意識のうちに負担になっているケースもありそうな気がします。

ヤンキーでなくても「先生の言うことはおかしい」「学校になんか従わなくてもいい」という家庭も増えていると聞きます。

もちろん両者がまったく同じ論理で動くことはありえないし、それが絶対によいとも言い切れません。いろんな考え方を浴びるよさもある。

でも、学校の文脈を知らない(自分の両親のように教育関係に身を置いているわけではない)私が子育てをしようとしたとき、自分の考え方・感情のままに家庭教育を進めると、学校との不一致が子どもを混乱させてしまう可能性もあるのだということを、頭の片隅に入れておきたいと思いました(すごく遠回りした言い方だな)。

また、この本には他にもフィールドノートの会話がたびたび参照されるのですが、そこから高校生が著者に素直な言葉で語っているのがわかって、取材する立場の私はすごいな、と思いました。

データでわかることがどんどん増えていっているからこそ、こういう質的調査で知りたいことを的確に(狙い通りに)すくい取れる技術を持つ人は、逆に重宝される時代になりそうです。

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