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子どもは誰が育てる?

高校生の娘との会話で何気なく、
「将来、子ども欲しい?」
という話題になった。

娘「いや、別に。
 ていうか、結婚に興味もない」

私「え。。。
 子育て楽しいよ!
 産めるなら、一人ぐらい産んでみたら?」

孫の顔見たさにとっさに口をついて出た言葉だけど、
たぶん、いや間違いなくこれは私の本心ではない。。

娘「子育て大変だし、お金かかるし、
 産みたいと思う動機がみつからない。
 子どもが欲しいなんて言う友達も見たことない。」

へー…
ちなみに私が高校生の頃は、よく友達とは
「子ども何人欲しい?」
なんて会話をしたのを覚えている。
結婚したくない、子ども産みたくない、と高校生の頃から言う人は少数派だったように思う。


一体何が変わったんだろう。


私の母は団塊の世代で、専業主婦だった。
学校から帰れば家には常に母がいて、PTAや学校行事にも積極的にかかわっていた。
そんな当時の出生率は、2.0人を超えていた。

私はといえば、ノンストップのフルタイム共働き。
娘はゼロ歳から保育園にお世話になった。
実家のそばに住み、実母にも孫の面倒を見てもらった。
有給休暇を取りながらのPTA活動は、必要最低限でこなした。

そんな共働き世帯が増加している現在、
21年の出生率は1.30人。

「子育ては楽しかったか?」

と聞かれたら、

「楽しむ余裕なんてなかった。
常にギリギリの生活を送りながら、気づいたら今」

というのが正直な感想だ。
もちろん、楽しんでいる人もいるだろうとは思うけど。


それにしても子育てって、本当に大変だと思う。

精神的に一番辛かったのは、
学校という「社会のルールを学ぶ場」において、不適合を起こした子どもに対し、その責任の追及が親に向けられてきたこと。

なぜ、子どもの社会不適合に対して、
親が責められるのか?

社会のルールに適合させる責任は、
親が負うべきなのか?

確かに産んだのは親だけれども、
育てる主体は親であることは認めるけれども、

社会の一員となるべく育てていることに関しては、
社会全体でその責を負うべきではないのか?

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話題は変わって介護の話。

痴呆を患った祖母と障害のある父の介護を、
70代の母が一人で担っていた。

特に痴呆が進行した祖母の介護は壮絶で、
母は精神的にも体力的にも限界なのは明らかだったが、
私も姉も、子育てと仕事を言い訳に手助けができなかった。

しかしようやく先月、祖母が施設に入居できることになった。
介護保険のおかげで、入居費用も年金の範囲内で納まった。
施設の方々の細やかなご配慮により、祖母は施設で笑顔で過ごせているようだ。

もしこの介護保険制度がなかったら、
今ごろ母は倒れ、祖母も父も生きてはいられなかったかもしれない。
大げさではなく、祖母・父・母の3人の命が救われたのだ。

介護保険によって、介護の責任が家族から社会へと解放された意義はとても大きいと、心から実感する。

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子育ても、その責任を親から社会へと解放できれば、
子どもを産むことに不安はなくなるのではないだろうか?

例えばもし、小学校から全寮制で、週末だけ子どもに会えるなら。
親は一週間分の成長を心から喜び、学校職員に感謝し、
貴重な週末を充実させることに全力を注げるのではないか。

例えばもし、成人までの養育費がすべて無償なら。
子どもは貧困の連鎖を断ち切り、持っている能力に応じて学び、
それらはいずれ、社会全体に豊かに還元されていくのではないか。


「そんなの理想論だね」
と笑われるだろうか。

実現のハードルは高いかもしれないが、
そんな世界があったらいいなと、私は心から思っている。

もう、家庭にかつての「家族の面倒を見てくれるお母さん」はいないのだ。
そこに正面から向き合わなければ、出生率は上がらないだろう。

いや、そもそも出生率を上げる必要はあるのか?
という問いはある。
(地球規模で考えれば、人口減少はむしろ喜ばしいことだし…)

出生率が上がらなければ、
社会保障システムの破綻に備え、我々は自力で健康を維持し、定年レスで死ぬまで働く覚悟を持てばいいだけだ。

うーん。

出生率の話は置いておいても…

子どもを産むことが喜びである社会をつくりたいと、私は思う。

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