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【掌編】ネクサス

「やりたいことがあったんです、たくさんね」
 彼は生気のない目を横にして、ベッドの隅と壁の間の、何でもない空間を見やりながら言った。窓から差す陽光が、漂うほこりや糸くずをきらきらと照らした。
「でもそれらは、本当に僕がやりたいことだったのかどうか、今となってはよくわからないんです」
 僕は静かに何度か頷いた。彼は音なく、わずかに首を回して僕の手の指のあたりを見た。
「終わってみなければわからない。それはその通りかもしれないけど、終わったときには、僕はもうここにはいない。僕には何も語ることができないし、考えることも、感じることだってできない」
 僕はスツールから腰を上げて、窓際に歩く。午後二時の眩しい光が窓の隅に拭き残された白い曇りを露わにしている。
「すみません」と彼は言った。
「僕はこうして、またあなたを困らせてしまう」
「謝ることはないよ」と僕は言った。彼は今度は自分の足の方をぼんやり見ている。
「言いたいことを言えばいいんだ。僕に対してどうとか、考える必要はないぜ」
 彼は口元に小さな笑みを浮かべて頷いた。
「あんまり暇なんでいろんな人の伝記を読みましたよ。wikipediaですけどね。ベートーヴェン、アンネ・フランク、マハトマ・ガンジー、ヘレン・ケラー、エジソン、伊能忠敬」
「イノウタダタカ?」
 僕が聞き返すと、彼は嬉しそうに笑った。そしてようやくこちらを見た。
「とても好きな人です」
「歴史の教科書以来だよ、地図を作った人だっけ」
 彼は頷き、意味ありげに微笑んだ。
「そうです。この国の地図を作った、この国を作った男です」
 僕はなんと返していいかわからず、肩をすくめた。彼は楽しそうに笑った。
「納得してないみたいですね」
「いや……まあ……、うん」
 彼は突然大きく咳き込んだあと、すみません、と言ってサイドテーブルに置いてあったペットボトルの水をひとくち飲んだ。それからゆっくりとキャップを回して栓を閉じた。当たり前の動作、いつもの行為。でもいま彼の指を通して行われると、それはひとつの記念碑的な儀式へと変わる。あと何回、彼がペットボトルの蓋を締める光景を目にすることができるだろうか。あと何回、彼の喉は水を飲み込むことができるのだろうか。
「でも誰も知らなかったんですよ。彼を含めて、この国がどんな姿をしているか。それを、経度に関して無視できない誤差はあるにせよ、いまの我々が知る形として初めてこの国にもたらしたのが彼なんです。彼がいなければ、誰も……」
 彼は再び苦しそうに咳き込んだ。しばらくしてやっと息が整った頃には、またひとまわり体が縮んでしまったみたいだった。僕はその間ベッドの端に座って、ずっと彼の背中をさすっていた。
「すみません、冗談です」
「冗談?」
「忠敬の前にも赤水という男がいました。彼は内陸部の詳細を載せた本土の地図を忠敬の四十年以上前に完成させています。いまではほぼ無名ですが」
「はあ」我ながら気の抜けた声が漏れ出た。
「歴史なんて人の手が作ったものに過ぎません。僕たちが知っているのは、誰かが残し、誰かが選んだものだけです。そして誰かが残し、誰かが選んだもの以外のものを、僕たちは決して知ることがない。この世界はそうした、目に見えない者たちの足跡で満ちてるんです。自伝だって同じだ。当人にとって好ましくない情報を、わざわざ会ったこともない後代のために残そうとする物好きはいないでしょう。もちろん、包み隠さずすべてお話ししようと言う人だってあるかも知れない。でも自分のやったことをすべて記憶・理解している人間なんているでしょうか。この世界は様々な情報に満ちているが、たとえどれだけ多くを手に入れても終わりはないし、真実はわからずじまいです。無限を前にしては、手にしているものが一だろうが百だろうが同じです。そう考えると少し慰められるんです。宇宙を眺めて、自らの矮小さに気がつくみたいなものです。僕はあなたより少しだけ早くこの世を去ることになりますが、それは大した違いじゃない。問題なのは、どれだけ多くを手にしたかでも、人と比べてどれだけ自分の生が優れていたかでもない。当人が歩きたい道を歩いたかどうかだ。違いますか?」
 彼は僕の目をじっと見ていた。僕も彼の目を見たまま、その漆黒の奥に燃える炎の煌きを見つめたまま、何度も小さく頷いていた。
「だからお願いがあるんです。僕を連れて行ってほしいんだ。伊能忠敬は地図の完成を見ることなくこの世を去った。だけど彼は後悔などしてはいないでしょう。GoogleMapがあるから彼の地図はもう不要だとか、本当は赤水が先に優れた地図を作っていたとか、どうだっていいんですよ。彼はやりたいことをやったんだ。僕はもう自分の足で歩くことができない。自分の力だけでは、どこにもいけない。でも、あなたにはあなたの人生があるし、僕の願いを叶えることで、きっといろんなことが起こる。あなたは面倒に巻き込まれることになる。僕はそんなことは望んでいない。だけど僕には、あなた以外に頼れる人がいない」
 彼はやっと一呼吸おいて、目を伏せ、それからもう一度僕を見た。
「まったく、人生はままならない」
 彼は口元を緩めながら、目は決して笑ってはいなかった。僕も同じようにして唇を歪める。馬鹿なことを考えている自分に気がつく。引き伸ばされた時間の中を、太陽の光だけが変わらぬ速度で僕たちの間をすり抜けていく。頭蓋の底からいろいろな言葉が浮かんできて、うたかたのようにはじけて消える。
 二つの相反する意志が僕の中で交差する。時間は止まったまま、光の糸が繭になって、僕たちを包み込んでいく。僕は目を閉じ、大きく息を吸った。

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