見出し画像

周回遅れの回転木馬。

2017年から三年間。
 僕はとあるソーシャルプロジェクトに熱中していて、仕事以外の、いや仕事を犠牲にしている面もあったかもしれないが、ほぼすべてのプライベート時間をそのプロジェクトに使っていた。
 そのプロジェクトには、二十歳前の若者もいれば、年金暮らしの老人もいた。何かしらの不自由を抱えている人もいれば、日本以外にルーツをもつ人もいた。これから何かになろうとしている人も、何かであったかもしれない自分を棚卸ししようとしている人もメンバーだった。
 三か月間(だったと思う)の基礎講座を毎週のように受ける中で、徐々に顔と名前を一致させ、先輩たち、マネージャーやスタッフの話からプロジェクトの姿かたちを自分なりに掴んでいく。
 三年間の任期だということで、しばしば中学や高校のように捉えられるのだが、このプロジェクトは、学校教育の三年間のように、進学や就職といった明確な出口があるわけではないし、何が正解なのか、そもそも正解があるのかもわからない点で異なっていた。もちろん学校教育がそれだけのためにあるのではないことは承知しているが、出口設計なるものが存在していることは確かのように思う。
 だが、このプロジェクトのことをくどくどと紹介する目的でこの文章は書かれてはいない。最近ではかなり有名なプロジェクトでもあるので、調べていただければ、これかなという見当がつくかもしれない。
 とにかく、僕にとってこれはとても重要な期間だったということをまず言いたい。だけれども正直に言えば、僕は実は決して優秀なメンバーではなかった。僕の中の天の邪鬼が徐々に顔を出し、それを抑え込んでも斜に構える意味のない振る舞いは徐々に増えていった。そもそもいろいろなことを継続するのが苦手で、なにをやっても最長三年間が関の山の人なのである。メンバーの任期はちょうど三年。もうギリギリなのだ。
 ところが、まるで反対のことを言うようだが、実に意味のある三年間でもあった。思いもよらぬバックボーンをもった人たちと知り合い、意気投合し、相反し、酒席をともにしたりしなかったりした。知る由もなかった広大な地平を眺めたような気にもなれた。高みを目指すのではなく、地中深く分け入っていくアプローチも知ったように思う。世の中にはいくつものレイヤーがあって、異なるレイヤーにそっとはしごを掛ける方法も、身についたとは言えないが、教わった気がする。
 ここで知り合った人たちと、任期満了後にグループを結成したりもした。それは変容する組織体を目指していて、果してそんなものが組織としての輪郭を維持できるのかという大いなる懸念とともに、一応今でも続いている。なかなか人目につくような大きな動きはできていないし、仕事でもないので、しょっちゅう滞る。その主な原因は僕自身なのだけれど。


 そんな活動をしてしまうようになるほど、僕自身に影響を与えたプロジェクトなのだが、この期間に失ったものが二つあった。


 一つは、物理的なものとして、財布。この当時は長財布にほぼすべてのものを入れていた。キャッシュカードやクレジットカードの類い、免許証、健康保険証、どうでもいいようなポイントカードたち。それから数万円の現金。
 ある日。その長財布を革のリュックの袖ポケットに突っ込んで、そのままトイレに入った。そのトイレには、手洗い場の鏡に向かって髪の毛を、ビジネスホテルに備わっているプラスチックの櫛でとかしている浮浪者がいた。彼のギラついた目がこちらを一瞬睨んだ。だが、私はためらうことなく排泄をはじめた。しばらくそれに集中していると、何かちょっと嫌な予感がした。彼はいなくなっていた。私はさして気にもせずトイレを出て目的の場所へと歩き出した。途中、ドリンクを買おうとしてはたと気づいた。財布がない。リュックの中をまさぐって探し、ジーンズのポケットに一つずつ手を突っ込んだ。そうしながら、歩いてきた道をたどり、道端をくまなく見ながらトイレまで戻った。その頃には、あの嫌な予感の正体を確信していた。だが、せめて現金だけ抜き出して他のものをほっぽり捨ててくれてはいないかと探し続けた。
 このできごとの唯一の救いは、その日の朝、大喧嘩をした家人と、危機管理共同対策本部を結成することができたことくらいである。無一文になったわけで、どう帰宅するかが問題だった。当時はまだ僕のSuicaはICカードだった。スマホがあっても電車には乗れなかった。
 実は歩いて帰ろうと思っていた。家までは15kmほどで、このくらいの距離は歩いたり走ったりしたことが何度もあったからだ。でもなんというか、気力がなかった。早いこと手を打たなければいけないという焦りもあった。
 そこで交番で交通費を借りることにした。が、これが不愉快極まりなかった。その交番には取り締まる意識があふれるほど漂っていたが、人を助けようとする気持ちなど微塵も感じられなかった。JRの運賃しか貸せない。バスに乗る行程は歩いて帰れるだろうと。しかも明日、必ず返しに来いとまで言われた。160円をである。もちろん、こんな人たちに借りがあるなどという状況は一刻も早く脱したいので、そのためだけに何倍かの交通費を使って返しに行ったことは言うまでもない。
 この不愉快な対応にさらされた唯一の救いは、危機管理共同対策本部の結束が強まったことくらいである。
 この後に待っていたのは、いくつもの連絡業務である。いったいいくつのクレジット会社に連絡しただろう。それから、銀行の窓口に行ってキャッシュカードの紛失と再発行の手続きをしようとした。すると、免許証の提示を求められた。だからそれもないのだ。それならば住民票だか戸籍だかが必要だと言われ、こんどは役所に向かった。その窓口で言われたのは、本人確認書類が必要だということだった。
「ありません。なぜなら云々」
 あちらに行くとないものの提示を求められ、それではとそれをまず手に入れようとすると、またないものの提示を求められる。そうしたことを何度か繰り返した後、なんと言ってもまずは免許証の再発行だということに気づき、鮫洲に向かう。それから銀行協会に紛失届を出しておく。これは不正利用を防ぐことには役立たないが、犯罪などに利用された場合、この時点で僕の手元からは紛失していることを証明できるものだ。
 このことがあってから、僕は新しい財布に必要最小限のものしか入れなくなった。それはそれで少し不便で、たとえば、免許証をもたずに運転してしまいそうになったり、銀行のキャッシュカードをもたずにATMからお金を引き出そうと列に並んだりする失態もしばしばやらかした。それでも徐々に慣れて、一度にすべてをリカバリーしなければならない事態に陥るよりよっぽどいいと思って、今でもそうしている。


 もう一つ失くしたものが、走る時間である。
 僕が走り始めたのは、アプリの履歴をもとに推測するとおそらく2010年頃。だから十年と少しばかり走ってきたことになるのだが、この内の三年間は、プロジェクトに時間を取られあまり走れなかった。そうなると、体はもう、走っていない人の体に戻ってしまう。それだけではない。年齢が積み重なるごとにそもそもの身体能力は衰え、それがまた気持ちを萎えさせる。
 もともと、スピードはまったくない。道路工事などでよく見かける交通誘導員の人に「歩行者、通りま〜す!」と言われてしまうほど、歩行者と見分けがつかないジョガーである。一応、格好は走るふうではあるけれど、あまりにも遅いので、走っていると認識されないことが多々あるのだ。
 それでも僕の中でジョギングは、飲酒に次ぐ継続性を誇っている。ほとんどのものやことが三年で続かなくなる僕にとって、十年以上継続しているとは、もう自分自身がびっくりである。お酒とジョギング。実はこの二つは密接に結びついている。
 それを一言で言い表したのが、このフレーズだ。
「僕たちのゴールは、酒場だ!」
 もちろん、ジョギング自体が気持ちのよいものだ。天気の良い、湿度の低い朝などに緑の中を走ったりすると、体中が喜んでいることがわかる。走っている人たちには自明のことだろうけど、さしたる心当たりもなく、みょうに快調に走れるときなども、気持ちが弾んでしまう。実は思うようにはしれないことのほうが常なので、こういうときはなおさらだ。
 公園の周回コースを走るときなど、ほとんど抜くことはできない代わりに、夥しいランナーに抜かれ続ける。それももう慣れてしまった。悔しくはない。というより闘争心が沸きようのないレベル差を実感している。
 ウォーキングをしていると意識は外に向かう。ジョギングでは自己の内側に意識のベクトルが向かう。科学的にはどうなのかわからないけれど、経験則としてそう思っている。自分が気持ちよく走れているかどうかがとても大きなテーマだし、僕のようなスロー過ぎるジョガーにとっては、意識の大半は、スピードではなく距離に向けられている。
 ウォーキングとジョギングの境がわからないような走りなので、端から大会などには興味がない。大会に出場できるように練習を頑張るといった意識も皆無である。それでも走り始めた頃は、10kmをこのくらいのタイムで走りたいなと自分なりには思っていたこともあった。それが達成できたりできなかったりだったけれど、いつしかそんなことにも興味を失った。ま、なんというか、走り終わった後の、汗をたっぶりと発散し体中の皮膚がセンサーとなった爽快感というか、身体にまとわりつく汗をさっぱりと流してくれるシャワーを浴びたときのすっきり感というか、そしてそれにも増して、失った水分を肝臓に負荷をかけながら満たしていくときの充足感のために走っているといってもいい。
 つまり僕が目指しているのは、酒場へたどり着くことなのだ。
 こんな僕でも本当にのめり込んでいたときは、月に200kmを走り、150kmを歩いていた。月に200kmというのは、10kmのジョギングを20回、あるいは20kmのジョギングを10回という勘定だ。週末は8日ほどだから、それだけではとても足りない。つまり隙きあらば走るというそんな感じだった。
 が、それがソーシャルプロジェクトに時間を奪われた。この三年間に全く走らなかったわけではないが、身体はどうしても不満を述べる。血液が流れていないような感覚。淀みに足を取られて、足下から腐っていくような不快さがどうしても拭えない。失ったものが大きいことは暗に感じているのだが、それに目を向けようとはせず、新しい世界を楽しむ。そのときは、それが正解だったのだろうと思う。なにせ、身体は一つだし、時間はリニアに去っていくのだ。俊敏性は失われ、次への動きが随分と鈍くなった身としては、それは仕方ないと観念すべきことだ。

 こうして一つの新しい世界を得て、二つのものを失い、三年が経った。

 そしてやっぱりもう一度「走る時間を取り戻す」ことにした。コロナ禍でホームと称していたオリンピック公園は、休校や出勤ままならぬ家族連れで溢れていた。見かけたことのないランナーたちもたくさんいた。余談だが、ランナーの顔は殆ど知らない。抜かれるばかりの僕が知っているのは、その人の走る後ろ姿や、手や足の振り出し方に表れるクセ、ユニフォームや息遣いだ。それで、あ、いつもこの時間にいるあの人だなと納得するのだが、ほとんどの場合、あっという間に抜かれ顔を記憶するほどの情報を得ることはできない。
 というわけで、コロナ禍で重症化するリスクが高いとされる類の、いけない数値をたくさんもつ身の僕としては、不特定多数の人と屋外とは言え、空間を共有することを避け、もっぱら住宅街を走ることにした。何度か試行した後、ほとんど信号に遮られることなく10kmを走ることのできるコースを開拓した。車通りも比較的少ないので安全だ。まぁ、本格的なランナーなら満足の行くコースではないかもしれないが、歩きと見まごう走りの僕ならば、住民の方たちにもそんなに邪険にはされない。

 走らなかった三年は相当に大きかった。スピードはもともとないので、僕の指標は距離である。10kmが1セット。それが基本だ。ところがその基本に到達しないことが何度もあった。この落胆は相当なものだ。記憶の中では余裕でクリアできる距離に身体がついていかない。呼吸が苦しいのではなく、足の筋力がなくなって、ダメだ!走れないという気になって止まってしまう。もともと向上心などあまりない人間なので、それを克服して頑張るというようなモチベーションはなかなか生まれない。
 それでも走ることをやめるつもりはなかったので、体たらくを承知で時間を見つけては走っていたら、たまに20kmくらいは走れるようになった。15km程度ならすんなり視野に入ってくる感覚も生まれてきた。が、前進ばかりではない。今日は身体が軽いから少し遠出をしてやろうなんて目論んで走り始めると、とたんに今日はダメかもしれないと身体が訴えてくる。そういうときは、身体が言っていることのほうが正解である。7kmあまりで止まってしまう。何かを背負っているわけでもないし、誰にも怒られるわけでもないので、どこでやめようが勝手なのだが、走りを止めてしまった自分に対するがっかり感は半端ない。

 そんなことを繰り返しているときに、『走ることについて語るときに 僕の語ること』を手にとった。もちろんこの本の存在は前から知っていた。が、村上春樹氏の本から少し離れていたこともあって、読んではいなかった。
 なので、本当に魔が差したように、ふわりと手にしたとでも言うしかない。この本に書かれている村上氏の走りは、僕のそれとは全く別次元のものだ。厳格な自己管理。周到に構築された走るための身体。そしてタイムや走っている場所も僕とは無縁だ。が、読み物としてはすこぶる面白かった。久しぶりに村上ワールドに浸って楽しんだ。

 とくに惹きつけられたのは第二章「人はどのようにして走る小説家になるのか」だ。でも、正直に言うと走りの話に夢中になったのではない。この章で、村上氏は、国分寺に開いていた店を引き払い、千駄ヶ谷に新しい「ピーター・キャット」(本の中では村上氏は自分の店をジャズ・クラブのようなものと言っている)を開いたあたりの話をしている。その話が当時の記憶とシンクロして蘇ってきたのである。
 その頃、僕は早稲田の文学部の学生で、『風の歌を聴け』でデビューした村上春樹氏は実に刺激的な、遠い先輩だった。僕自身は単なるその他大勢の学生だったけれども、キャンパスのあちこちでいつも話題になっていたような記憶がある。
 なので、六大学野球を見に行った週末のある日、「ピーター・キャット」を探し出して、友人三人といってみることにした。野球の結果など覚えていはいない。天気も記憶にない。が、雨は降っていなかったと思う。ビルの二階にあった店に上がっていく階段の風情をよく覚えている。
 その時間帯の店は生演奏などはなく、キャパが大きめのジャズ喫茶という感じだった。
 そしてカウンターの中には、村上春樹氏本人がいて、食器を洗っていた。僕らはアルバイト君におそらくコーヒーを頼んで、注文を受けた彼が下がったあと、密かにそれぞれの気持ちの中で興奮していたのではないかと思う。
 そのとき、僕は小型のフィルムカメラをもっていた。おそらく神宮球場の学生応援席で友人たちとスナップを撮りあったりするために持ち出したのではないかと思う。当時は今と違って、写真は日常的に撮るものではなかった。何かの機会に、そのことを記憶しておくために撮るものであって、カメラを持ち歩くなどということは、旅先でもなければ滅多なことではなかった。
 もっていたコンパクトカメラは、記憶が正しければ、35ミリの24枚撮りネガフィルムを入れて48枚の写真が撮れるという、いわゆるハーフサイズの撮影が可能な、素人向けのカメラだった。
 ここはやっぱり記念写真を取るべきだと思って、そうっとコンパクトカメラを取り出した。店の中で写真を撮るなんて、なかなか気がひけることだった。そして向かいに座った友人二人に向けてシャッターを切った。その瞬間、オートの設定になっていた小さなフラッシュが光った。まるでこっそり撮ったことにはならなかった。
「びっくりしたぁ」とカウンターの中の村上氏がこちらに目線を向けて言っていた。僕も内心同じようにびっくりしていた。
 このとき、数枚撮った写真のどれかには、カウンターの中の村上氏が写っているものがあったかもしれない。しかし、この写真のプリントもネガフィルムも今となってはその所在はわからない。
 『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』以降、新刊を必ず初版で買っていた僕の村上春樹熱も、『ノルウェイの森』あたりから徐々に冷めていく。なぜだかはわからない。
 余談だが、いや、このテキストのすべてが余談のようなものだから一々断らなくてもいいような気もするが、のちに僕は講談社に出入りするようになり、村上春樹氏を見出したとされるM部長さんや担当編集者のKさんなどと知り合うことになる。
 走ることを取り戻そうとしたとき、なぜか久しぶりに村上春樹ワールドと再会することとなった。誰も彼もに抜かれ続け、周回遅れとなって再び出合う。そしてまた抜かれていく。デッドヒートは無理だと知ってはいるものの、僕自身は回転木馬から降りた感覚はない。誰にも気づかれない小さくて静かな発見を続けているうちに、天空の法則に支配されているが如く、さっき僕を抜いていった人とまた出合うのだ。やあ! そう考えると抜かれ続けることもあながち悪いことでもないのかもしれない。

 そう、戻ってこない財布より、よっぽどマシなはずだ。

この記事が参加している募集

振り返りnote

サポートしていただけたら、小品を購入することで若手作家をサポートしていきたいと思います。よろしくお願いします。