見出し画像

【縄文人】縄文人はイヌが好き?弥生人はネコが好き?いろいろ比較してみた【弥生人】

どーも、たかしーのです。

今回は、『縄文人』と『弥生人』について、書いていきたいと思います!
この2つの時代を生きた人たちの生活や習俗を比較してみたら、意外と面白かったので、まとめてみました!


まずは時代をおさらい

学校の歴史の教科書でも、最初に登場する時代であることから記憶に残っている人も多いと思いますが、あらためてさらっとおさらいします。

縄文時代(約1万3000年前~2300年前)

縄文人たちが生きた縄文時代は、今から約1万3000年前~2300年前まで(※)、約1万年間も続いた時代のことを言います。
※いつからいつまでかについては、研究結果によりバラツキがあります。

なぜ、この縄文時代を1万年間も長い期間で区切ったかというと、
この時代の日本には文字がなく、後世の人たちへ知識を伝達することができなかったため、縄文人たちの生活があまり変わらなかったから、とされています。

また、これより前の時代区分として「旧石器時代」がありましたが、この時代との違いとしては、縄文人が土器や弓矢を使用していたことが挙げられています。

なお、縄文人たちが、目のような様が描かれた土器を使っていたことから、この時代のことを「縄文時代」と呼んでいます。

深鉢形土器 縄文中期 東京都あきる野市草花出土 東京国立博物館蔵
by I, Sailko(wikipedia)

ちなみに、戦後まもなくは、縄文時代より前の時代には土器が発掘されなかったことから、まだ人間は生活していなかったというのが定説でしたが、これを相澤忠洋氏の発見によって覆り、現在では「旧石器時代」が日本の歴史のはじまりとされています。

弥生時代(約2300年前~250年)

弥生人が生きた弥生時代は、今から約2300年前~250年まで(※)、約2500年間続いた時代のことを言います。
※こちらも、研究結果によりバラツキがあります。

東京にある弥生町遺跡で見つかった土器を「弥生土器」を呼び、この土器の名前がそのまま「弥生時代」として採用されました。

板付1式土器 板付遺跡出土・前期(wikipediaより)

縄文時代と弥生時代との最大の違いは、稲作です。
諸説ありますが、朝鮮半島からやってきた渡来人により伝えられ、以後、北海道や沖縄を除く日本列島に稲作が広まるようになります。

そして、この稲作の伝来によって、縄文人と弥生人の生活や習俗が大きく変わることとなるのです…。

くらべてみよう!縄文人VS弥生人

彫りが深い顔の縄文人、のっぺりした顔の弥生人

平均的な縄文人の顔(左) 平均的な弥生人の顔(右)

まず、出土された人骨から、縄文人と弥生人で身体的特徴が異なることが明らかとなっています。

これは「日本人の起源」を書いたときにも触れましたが、縄文人と弥生人はどちらも日本人ではありますが、見た目が異なるのは、それぞれルーツが異なるためとされています。

縄文人のルーツは、旧石器時代に大陸から日本列島へと移動し、そのまま移住をした人とされています。
旧石器時代は、氷河期で海面が下がっていたこともあり、のちの縄文人たちが大陸からマンモスやナウマンゾウを追いかけ、日本列島へとやってきたと考えられています。

縄文人は、髭や体毛が濃く彫りが深いのが主な特徴です。
なので、沖縄県に住む人に、このような特徴を持つ人が多い印象があるのは、縄文人の身体的特徴を色濃く残しているため、と考えられています。
※筆者自身も顔が濃く、掘りが深い顔立ちなので、縄文人の特徴のほうが強いかもしれません。

一方、弥生人のルーツはというと、日本列島に北東アジアから渡来して、そのまま移住した人、もしくは縄文人と結びついて混血した人とされています。

弥生時代は、縄文時代と比べて、大陸との交流がさかんとなり、後期には卑弥呼が魏の王朝から金印を授かるなど、日本からも積極的に大陸へと向かうようになりました。

また、中国では、ちょうど弥生時代と重なるころに、春秋戦国時代であったことから、戦火を逃れてきた難民たちが日本列島へと大量に移動してきたとも考えられています。

弥生人は、彫りが平坦な顔で体毛や髭が薄いのが主な特徴です。
最近の研究では、稲作が伝わった本州の人たちよりも、稲作が伝わらなかった北海道のアイヌの人たちや沖縄県の人たちのほうが、縄文人の特徴をより継承していることが発表されています。

東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

日本経済新聞『縄文人の起源、2~4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析』より

稲作が伝わった=渡来人との交流があったということなので、このような身体的変革があったということでしょう。

言い換えれば、稲作が広まったことにより、日本人の姿も変わっていったと言っても、あまり過言ではなさそうです。

余ったモノを共有する縄文人、余ったモノを所有する弥生人

次は、生きていくために必要な食料についてです。

縄文人は、集落を作り、そこを拠点として、狩猟採集に出かけ、ゲットした食料をみなで共有して、生活をしていました。
縄文時代にも簡単な栽培は行われていたそうなので、少しは食料を生産しながら暮らしていたとは思いますが、やはり安定的に食料を得ることは難しかったようです。

そこで、縄文人たちは、集落間で食料や鉱物を物々交換をすることにより、この問題を解決していました。つまりは、交易をしていたことになります。
実際に、縄文時代の遺跡である加曽利貝塚(千葉県)では、この地域では産出されない黒曜石ひすいが見つかっており、この結果から交易があったとされています。

このように縄文人たちは、狩猟採集が安定的に食料を供給できないことから、集落内・外を問わず、お互い助け合って暮らしていたと考えています。

一方で、弥生人はどうかというと、稲作が入ってきたことにより、食料が安定的に供給できるようになりました

また、米は長期間保存がきくことから、余った分は蓄えて、いざというときに備えるようになりました。
こうした米の保存のため、米をネズミから守るべく、高床式倉庫が作られるようになりました。

吉野ヶ里遺跡の復元高床倉庫(wikipediaより)

こうした背景から、集落間で交易をするよりも、稲作の生産性をあげることを重要視するようになり、渡来人によって持ち込まれた鉄のかたまりを農具にするなど、生産性アップに努めるようになりました。

また、こうした稲作が入ったことで、人口が爆発的に増えるようになりました。その結果、ぽつんぽつんと集落があった地域は、いつしかムラになり、そしてクニへと発展していきました。

しかしながら、こうした発展は、平和的なモノではありませんでした。

人類みな家族の縄文人、自分の家族が第一の弥生人

縄文人は、みな家族のようにともに行動をし、集落にいる子供が、誰の子供なのかは意識しておらず、「夫婦」という概念を持っていなかったとされています。
これは、縄文時代の埋葬法であった合葬(2人以上の人を1つの墓に葬る)から見て、夫婦で同じ墓に葬られることはなかったのでは?と考えられているためです。

マインクラフトをプレイしたことがある人ならば、ピンとくると思いますが、村人から新しく村人の子供を産んでもらう場合、多数いる村人にパンをあげても、つがいとなるのは、たいてい別の村人どおしだったりします。
また、新しく生まれた村人の子供を、そのつがいが大事に育てているかといえば、そうではなく、また子供も他の村人のもとにも駆け寄るなど、あまり生みの親を意識をしていない動きを取ります。(ゲームの仕様なのかもしれませんが)

少し話が逸れましたが、当時の縄文人もそうようなカタチで、多数の人たちと生活をともにしていたと考えられています。

一方で、弥生人はというと、稲作により、半永続的に食料が供給可能な田んぼができあがったことによって、この田んぼを次の世代へと継承する必要性が生まれ、その結果「自分の田んぼを自分の子供に継がせる」といったことが起こるようになります。

すなわち、「この子供は自分の子供である」と認識するためには、「私はこの人と夫婦である」という認識をお互いがもつ必要があり、その結果、弥生人は「夫婦」という概念を持っていたとされています。

事実、弥生時代にも同じく合葬が埋葬法として取られていましたが、夫婦の合葬が見られるようになり、この結果からもそう考えられています。

死を受け入れる縄文人、死を受け入れられない弥生人

こうした他人との価値観が、稲作がきっかけで変わってしまったことにより、死生観にも違いが生まるようになります。

縄文人は、常日頃から狩りで動物の死に直面しており、また今と比べて寿命も短かったことから「死は人間にとっても身近なものである」として考えていたのでは?とされています。

その証拠として、死んだ人たちの墓が集落の真ん中に作られ、その周りを囲むように住居が作られ、縄文人たちは暮らしていました。

また、出土された遺骨の状態を見ても、損傷があまりないことから、人どおしの争いはなく、縄文人たちには、命が奪われるといった感覚はあまりなかったのかもしれません。

しかしながら、弥生時代となり、一転して、人どおしが争うようになります。
その原因は、稲作により「所有」という概念が生まれたからです。

稲作により、安定的に食料が供給できるようになったとはいえ、その土地の環境や労働力により、当然のことながら、生産できる米の量は同じ時期であっても異なります。
そうした要因から、弥生人たちの間で、貧富の差が生まれ、その結果、持たざる者たちが食料を求めて、持つ者たちと争いあうことになります。

吉野ヶ里遺跡の外濠
土塁と柵、逆茂木・乱杭で防衛が図られた

これにより、自然と受け入れる対象であった「死」が、争いによって突然起こることとなり、弥生人は「死は怖く悲しいものである」と認識するようになりました。

事実、弥生人の墓は、集落の外に作られていることが証拠としてあり、また頭がないものや殴られた痕があるなど、戦死者とみられる遺骨も発見されています。

こうした争いから、集落はムラへ、ムラはクニへと発展を遂げ、時代は大王(おおきみ)と呼ばれるリーダーが国を統治する古墳時代へと向かうことになります。

おわりに

最後に、ライトなところで言うと、ペットでも違いがあり、縄文人は狩猟のパートナーとしてイヌを飼っていたのに対し、弥生人は米の害獣であったネズミを駆除してくれるネコを飼っていたとされています。

まだまだ違いはたくさんありますが、今回の記事ではここまで。
また、縄文時代弥生時代で気になることがあれば、深堀りをしていきたいと思います!!

このnoteでは、他にも、歴史上の人物神話などをベースに、記事を書いていく予定ですので、是非フォローなどしてもらえるとありがたいです!

それでは!


この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?