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[note37]進路サポートのデザイン上から見るか、下から見るか?それとも…

進路サポートのデザイン

進路指導の統括となって最も考えるのが、進路サポートを、どのようにデザインするかである。これを読んで下さる方の中には同じような悩みを抱えている人もいるのではないかと思う。勤務校は中高一貫校であるが、一貫生と同じくらいの数の生徒が高校から入学する。そのため、6年間あるいは3年間の進路サポートという2つの観点が必要となる。7年やって、まだまだ稚拙な域を脱することができていない自分の主な取り組みを振り返ってみた。

  • 進路マップ(3年間版、6年間版)の作成→3年間を俯瞰して見る(高校版は3年版と1学年ごとに詳細を記した2パターンを作成)

  • 卒業生との連携(卒業生人材バンク)→これはまだ道半ば

  • 学校オリジナル手帳の作成(中学対象「今⇔みらい手帳」カスタマイズ)

  • 高大接続(大学模擬講義の実施・大学別説明会の充実)

  • 「学びみらいPASS」の導入で自己理解を深める

  • 模擬試験の見直しとCOMPASSの活用

  • 放課後講習の見直し                    などなど

尊敬する他校の先生からいただいた、ロードマップを参考に自校版として作ったのが2016年

羅列したものの、「色々なことをやったな」と振り返りたい訳ではない。色々なことに取り組んだつもりで、それらがどうにも一本の軸の対して、有機的に繋がっている感覚を持つことができないでいる

進路サポートは上から見るか、下から見るか?

さて、本題。何やら力んで色々やっているが、本来、こうした取り組みについて現場とのすり合わせ、現状分析、出来ることと出来ないことの腑分けが不十分であったのかもしれないと今更ながら感じている。いわば、進路デザインが自己満足の域に留まっているということだ。様々な学校では進路サポートのデザインがトップダウンで降りてくることもあれば各学年が主任などを中心に構成することもある。その中で状況に応じて「進路指導部」が動くといった感じだ。これは学校のカラーによるものだと思うが、勤務校では、もう少し対話を重ねる必要があったと反省するところでもある。
統括にいると、現場感覚(を忘れないようにしていても)との乖離が少なからず生じる。これは、どの校務分掌でも起こりうることだと思う。
私個人というよりはあくまでも一般論であるが、乖離が進むと好ましい結果を生まない。以下のような溝が生まれてしまうことがあるのではないか。
トップダウン型・・・現場の声を聞かずに上が勝手に決めている。「上は何を考えているのか?」といったストレス。特に進学結果を求める私立高校の場合は良くも悪くもトップダウン型が見られることも多い。ただし、それが状況によって止む得ない場合もあるため、一概に悪いとは言い切れない。
ボトムアップ型・・・学年主導の進路サポート。ただし、「そのプランで進学結果は出るのか?」という無言のプレッシャーに直面することもある。逆にきちんとした説明と合意のもとにトップとボトムが合意すれば、この形が望ましいのではないかと思える。なぜなら、そこでは生徒に関わる学年のスタッフ全員が当事者となることができるから。進路指導部はサポート役。

最上位目的を考えているか?

これは麹町中学校や横浜創英で校長として、学校改革をリードし続けている工藤勇一先生がしばしば講演や書籍で指摘していることだ。教師は生徒達がどんな姿で学校を卒業して欲しいと願うのだろう?そして、たった3年(あるいは6年)しか在籍することができない中学・高校時代に、どのようなスキルを身に付けて次世界に勇気をもって足を踏み入れて欲しいのだろう?
この点がまだまだ不十分なのだと感じる。工藤先生も述べているように最上位目標のために手段が存在する。そう考えると、自分個人がやっていることは手段をいじくってるに過ぎない。手段の上に、「何のために、この活動や取り組みがあるのか」という相互理解・相互承認が不可欠になり、それは教員間だけでなく、生徒や保護者も対象となる。
さて、勤務校における「最上位目標」とは何だろう?
少なくとも大学合格実績を出すことだけではないと思っている。「だけではない」と書いたのは、もちろん希望進路を実現することは大事であるから(それは生徒の目標実現のためにも、現実的な学校経営の観点からも言えることだ)。ただ、進路サポートの役割はそれで終わりではない。より、高次の目標があるはずである。個人的には色々と考えたり、イメージすることがあるが、自分の中で留めていても意味はない。色々な先生の想いや生徒の想いを何らかの形で共有していくことが求められる

上からでも下からでもなく、真ん中で議論する

忙しい校務の中でじっくりと学校の方針や進路サポート(実際、進路は学校が目指す姿の一端に過ぎない)議論することは容易ではないかもしれない。しかし、そうした営みを通じてこそ、全員が生徒をサポート(あるいはコーチ)する当事者意識を共有することができる。「誰かがやるだろう」「学年がやるだろう」「主任がやるだろう」は危うい。と同時に「やった気になって、それを現状に無理やり当てはめようとすることも、同じくらい危うい。
最近、学校にはもっと、対話が必要だと感じる。言い換えるならば、現在の学校には対話が不十分であるということだろう。
職員会議のように公式な場でなくても(むしろオフィシャルな場ではない方が良いと思っている)、全員が集まれなくても、「コーヒーでも飲みながら、ちょっと話しよう!」というライトな感じても良い。どうしたら、そうした場面を作れるかな、そんなことを考えている。




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