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リレーエッセイが始まる

リレーエッセイが始まる、長い前置き

「たけしと生活研究会」のnoteで、レッツスタッフのリレーエッセイが始まります。
このリレーエッセイでは、「たけし文化センター連尺町」のシェアハウス&ゲストハウスを舞台に日々繰り広げられる生活の一幕や、そこに関わるスタッフたちが生活や自立やシェアや人生のあれやこれやについて巡らせる思いや思考、それらが極私的にかつ自由で雑多で気ままな文体で――時には4コマ漫画で、なんてこともあるかも――綴られていく、そういったものになるはずです。「はずです」というのは、いまぼくが書いているこの文章がその初回にあたるもので、このリレーがどこへ向かうのかまだ誰も知らないからです。
ところで、リレーという言葉は、バトンをつないでいくような重たい責務を連想させます――ぼくが過剰にそう読み込んで、からだをこわばらせているだけかもしれませんが――。一本のバトンをつなぐリレーではなくて、様々な形状のモノたちが空中を飛び交うジャグリングのようなイメージで、このシリーズを「ジャグリングエッセイ」と(勝手に)呼んでみたいと思います。自立や生活について、声高にもナイーブにもなりすぎずに、できるだけ軽やかに書きたいのです。

何かは、外からやってくる

先日、知人がSNSで紹介していて知った、熊本に拠点を置くシーカヤック工房「WATER FIELD KAYAKS」代表の水野義弘さんのインタビュービデオがある。

このインタビューの中で水野さんが話している、カヤック制作を志すきっかけになったというエピソードがつよく印象に残った。当時、建築事務所で働いていた水野さんに「カヌーやりませんか」とカタログを持ってきた建材メーカーの営業スタッフが、会話の中でふと「水野さん器用だから自分で作ったら」と言ったのだという。思い出すというより、その時の感情がいま再生されているような感じで「ぐーっと、そうだなあと思って」という水野さんのフレッシュな表情に見惚れてしまった。
そうだよな、何かをやりたいと思うことは、こんなふうに自分の外からやってくる。それは自分の中にすでにあったのかもしれないけれど、そこにそんな水脈があったことなど知りもしないところから、突き動かされる。自分が衝動の容器になったように、湧き起こるものによって、それまでとは変わってしまうこと、その快楽。そして、それを開くきっかけは、時には誰かの無責任な一言であったりする。

ぼくにもかつてそういうことがあってきた。中学生の頃、教師たちのような「大人」に対する嫌悪感と、自分もまたそのような「大人」になる道をすでに歩んでしまっているという底知れない恐怖心から、あまり学校に通っていなかった。自由を謳歌していたかというと全然そんなことはなくて、図書館に通ったり、昼間の町を散歩したりする日々は、海沿いの田舎町の閉塞感もあって、不安が魂を食いつくすようなものだった。出口の見えない状況のブレイクスルーになったのは、古着屋の店員のお兄ちゃんが手渡してくれたRAMONESだったり、陶芸をしている友人が教えてくれた世の中には美術系の高校というものがあるということだったりした。

ぼくもまた誰かにとって無責任な他者であれたらいいと思っている。

3Fの様子のコピー

日常の登場人物

昨年「たけしと生活研究会」のリサーチとして、神戸市長田区にある多世代型介護付きシェアハウス「はっぴーの家ろっけん」に行った。

この記事にあるインタビューの中で、ろっけんを運営する首藤義敬さんは、暮らしにとって大事なことは「日常の登場人物を増やすこと」だと言った。

首藤:(前略)人間って、金があって不自由なく暮らしていても、世代や国籍、障害のあるなしに関わらず、孤独に苦しんでいると思うんです。僕らが言う「暮らしをつくる」というのは「孤独を埋める作業」のこと。バリアフリーや介護みたいなインフラ面って人生の2割くらい。その他の8割の部分、好きなことや趣味は一人では出来ないことが多い。関わる人を増やしておけば、選択肢が増えたり実現可能性が上がる。だから、暮らしをつくる上で日常の登場人物を増やすことは大事にしています。

人が高齢になったり、あるいは認知機能に障害があると、その人が生活をするために必要なケアを、多くの場合家族やそれを仕事とする専門職が行うことになっている。限られた人たちが、その人の困りごとや希望を何とか解決しようと一所懸命になる。しかしその時、気づかないうちに、限られた価値観や指向性でその人の生活を取り囲んで、日常の登場人物を減ずる方向に働いてしまうことがあるのではないだろうか。
首藤さんは、日常の登場人物を増やすということは、その人だけのことを考えるのを諦めて、その人に関わる人を増やして、コミュニティ全体の「はっぴーの総量を増やす」ことだと言う。

こういうこと――次に書くようなこと――を書くと、欺瞞ではないかという思いがむくむくとわいてきて手が止まってしまうのだけれど、でも事実そう思っているのだから書く。ぼくがいまこの仕事をしているのは、ぼく自身が他人から手渡されてきたもの、それによって得られた自由を、ぼくが日々関わる人たちも享受してほしい、して当たり前だという思いがあるからだ。けれど、そんな自分も「支援者」という偏った指向性をすでに持ってしまっているのだということに気がつく。昨年から壮さんたちのシェアハウスでの生活実践に関わるなかで、手応えを感じたのは――あくまで、ぼくが感じたということで、たけしはどうなんだろうか――、介助者が自分の属するコミュニティに壮さんを紹介する機会だった。そのことはまた別の回に詳しく書いていきたいと思う。
では、自分はいったいどんな「コミュニティ」に生きているのか、生きていたいのか、壮さんの生活を考えることは、そうして自分の生活のことを考えることになる。いまぼくはそういうことを考えている。

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↑筆者近影(この二秒後に斬られる)

(ササキユーイチ)

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