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竹美書評 監督Vivek Agnihotri著『Urban Naxals: making of Buddha in a traffic jam』

前回は、ボリウッドでアグニホトリ監督がキャンセルカルチャーを体験した映画作品『Buddha in a traffic jam』を取り上げた。今回は、そのおいしい解説本、監督のボリウッド恨み節満載の著書『Urban Naxals: making of Buddha in a traffic jam』について話してみたい。


そもそも本著を是非今取り上げる必要があると思った理由は、左翼・リベラル陣営による監督と同作への露骨なキャンセルと攻撃が、そのまま今の世界の状況と同期していると考えたからだ。


アグニホトリ監督自身は、2014年、つまり本作を完成させた頃、モディ政権成立の際にボリウッドの多くの映画人が懸念を示したのに反旗を翻したことで、ボリウッドから総スカン=キャンセルを食らった。

元々、アグニホトリ監督は、映画監督としてはヒット作に恵まれず、当時はやや落ち目だった。しかしながら、自分の信じる真実と言論の自由のために動いた結果、友達を失い、仕事も減り、ツイートやブログで支持者を広げるも、手元にあるのは己が作った映画『Buddha』のみ。映画を引っ提げて全国の大学で上映を続けていった。
著書後半では、各地の大学の学生団体に呼ばれて上映会をしたときのエピソードが綴られている。彼の作品は、観に来た多くの学生たちに支持されたが、大学当局や左翼学生によって随分と抵抗に遭っていた。印象的なのが、著書冒頭と最後に出てくる、コルカタの大学での騒ぎだ。学生たちは、彼の乗った車をぐるり囲んで野次ったり暴れたり車を傷つけたりしたらしい。ある学生の叫んだこんな言葉が引用されている。

別の物語=narrativeなんか必要ない!!

今の時代を象徴する一言である。

『真実』と彼は繰り返し言及する『別の物語』、つまり、『現実のもう一つの側面』について描いた映画が、誠に激しい抵抗に遭ったということは、逆説的に、そこに何かがあることを強く示唆している。

アグニホトリ監督の綴る左翼主義者の特徴は、これがもうすべて納得できるものだった。彼らには、ロジックとファクトが無いので、そこに触れると暴れだすのである。彼は上映後の質疑応答で暴行されかかっている。どこまでも彼の『真実』だから差し引いて考える必要はあるが、なんか、やりそうなのだ。左翼は。

同作が正式に上映されたのは2年後の2016年のことだったそうだ。賛否両論あったそうだが、何より印象的なのは、観てもいない人から猛非難を受けていたというのが、何ともキャンセルカルチャー的だ。


それを言えば、2022年、アーミル・カーン主演『Laal Singh Chaddha』も、誰も観てもいないうちから非難を受け、興行的に失敗した。アグニホトリ監督は同作についてはむろん批判的だったものの、彼の立場から適切に批評していたのではなかろうか。もう一度彼の批評を読み返してみたいが、彼の理想とする価値観が、アーミル・カーンのそれと違っている、という批評に過ぎなかったのではないだろうか。上記の経緯を考えると、彼がキャンセルに加担するとは思えない。が、キャンセルしようという人たちを止めなかったのも事実である。ここが難しい。

日本のツイッターを見ててもしばしば見かけ、なんとも言えない気持ちになるのはそこだ。

発信者には案外差別だの誹謗中傷だのの意図が無いのだが、それを受信した普通の人たちが撒き散らすものは大概汚い。発信者に責任はないが、発信者がそれを止めない。何せ支持者を失うわけにいかないから。それは結局…何を意味するのだろう?

強者の論理

アグニホトリ監督の考える理想のインドは、資本主義によって皆が豊かになっていくことによってのみ実現され、貧困や不公平の問題は、公正な形での経済成長以外の方法では解決され得ない…と前回書いた。

これは、高いカーストのブラフミン出身、インテリの中流階級の家に産まれ、米国で学んだこともある秀才兼ブルジョワの観点だと言えよう。しかしながら、低いカーストから這い上って今やインドの頂点に君臨しているモディ総理の方向性と一致しているのだから妙に力強いのだ。

モディ政権は、アイデンティティ政治で掬いきれない部分を経済成長と国家主義でチャージしようとしている。公共空間のマナーと一般的信頼感の増大は経済成長には相関性がある。ミクロレベルでの不正や暴力が映画などで、ある種「過去の物語」としてどんどん暴露されること(インド各言語の映画がこれをやっている)と、全体的発展志向は決して矛盾しない。

一方、ダリットや部族民の貧困の問題をどうやって解決するのか、と考えたとき、これは日本のインド映画ファンのほとんどに共通している観点であると思うのだが、「差別反対」というアイデンティティー政治からのアプローチを取ることが多い。アイデンティティ政治において、アグニホトリ監督のような人は、強者であるからして、『黙ってろ』と言われて当然の立場に立たされている。

ここで、差別や搾取の問題に限り、同じ問題に、アイデンティティ政治とは異なるアプローチをとることを主張するということは、様々なレッテルを貼られ、大きな挑戦を受けるようである。監督は、SNS上では保守で極右で反ムスリム、尚且つヒンドゥー至上主義者だと思われている。

しかし、それはどこまで、どのように、客観的に有効だと判断しうるのだろうか。

監督自身はアイデンティティ政治の脈絡では何一つ自分の意見を言えないし、弱者にある人の意見、言い換えれば、 『弱者アライの意見』に反対意見や疑念を挟むことは、受け入れられない。

彼のアプローチは明快だ。経済成長とイノベーションを阻むものをすべて無くし、力強い社会に生まれ変わろうというのだ。それは過去のことを如何に位置づけるか、とはほぼ関係ないはずだ。

監督も著書の中で何度も書いているが、お金もうけは悪いことなのだろうか。

インドにおいて、現状、差別の問題が無いとは思えないし、少数派とはどういう風に扱われるべきかについて何も思わないわけではない。

池亀彩『インド残酷物語』にあったような、数千年に亘る(もしくは英国式に忠実にやった結果、と言った方がいいのかもしれないが)差別や搾取から生まれた「傷」はどうしたらいいのだろう。ミクロレベルの問題として、誰がどう向き合っていけるのだろう。

一方で、経済成長によって皆が自立し、偉大なるインド国家のもとで皆で輝いて生きようという意見、つまりはアイデンティティー政治よりも経済成長を優先する考え方が劣っていると言えるのだろうか。

ブルジョワらしく、アグニホトリ監督は資本主義をソリューションとして提示した。インドにおいて、暴動から中間搾取まで問題が山積していることは自覚しつつ、そこだけ観てても仕方ないだろう。生まれた時点からほぼ勝っているアグニホトリ監督においてそれは真実だ。


また、監督は、インド国家の統合に、「ヒンドゥーの価値観」を用いることに対する挑戦も受けている。ちなみに、アメリカは、多数派である白人キリスト教徒主体の体制から「理想」へ移行しようという虚構を巡って、様々な紛争が起きている。


インドにおいては、「多数派であるヒンドゥーの価値観にどのような「多様性」なり「寛容さ」があり、それが機能し得るか?」ということが問われるべきだが、問われる前に批判を受けている形である。アグニホトリ監督は無条件にヒンドゥーの価値観の包容力を信じているようであるが…。


「弱者」とは、ブルジョワのように動き考えられないからこそ弱者だ。『Buddha』で描かれるように、一見アイデンティティー政治によって擁護されているかのようでいて、リベラルメディアから極左テロ組織にまで利用され、搾取されてしまうのだ。そこに、リベラル・メディアやアカデミズムの無意識の(映画はそれは意図的だと言っている)共犯関係がある。


ところで、最近ずっと思っているのだが、アグニホトリ監督の視点は、九州のインテリ・ブルジョワの家で何不自由なく育った私のそれと、何か違うのだろうか。本当は近いのではないだろうか…。


今日本では、インドブームが来ている。皆、いかに繫栄するインドの「おこぼれ」に預かるかに汲々としているように思える。


と同時に、同じメディアが「モディ政権は極右政権で危険だ」という論調を、エビデンス無しに、主に憶測に基づいて併記し、繰り返しているのは、一体どういうことなのだろう。まるで、そのように書いておくことが一種の免罪符か魔除けになると分かっているのだろう’。


英米メディアの書き方は、アグニホトリ監督の洗礼を受けた私にはもはや、「インドの隠れた敵」の言葉にしか読めなくなってしまった。


アグニホトリ監督の思想内容に、外国人の私としては支持するもしないもないのだが、共感はする。それを認めなければ、私は嘘つきだ。


私だって生まれは監督のようなブルジョワで、社会的には強い立場に立っているから。そして、繁栄するインドのおこぼれに預かって生きようとしている日本人の一人だから。


最後に、監督について、どうしてもわからない点がある。著書の中で彼は、自分自身、学生時代には左翼的思想を信奉していたと書いている。が、そこから如何にして反左翼に回ったのかの経緯が抜けている。そこにこそ、監督の真実があるように思うのだが。いつか、話を聞けたりはしないだろうか。



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