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【短編小説】 サラマンダー広田 

 幼い頃、夕方のテレビ画面に映るトカゲマスクの巨体を見るたびに僕は震えていた。
 鉄パイプや鋏攻撃、相手選手への複数名でのリンチなど数々の反則攻撃。極悪非道の限りを尽くすトカゲマスクの「サラマンダー広田」は国民にとっての悪の象徴だった。

 時は流れて僕は彩夏と出会い、恋に落ちた。そして互いに働き始めて結婚が見えて来た矢先。僕は彼女からとある秘密を打ち明けられた。

「拓斗。近いうち、うちのお父さんに会ってみる?」
「うん。そろそろ、ちゃんと挨拶しないとな」
「実はね……うちのお父さんね、サラマンダー広田なんだよね」
「え? 似てるってこと?」
「ううん。似てるんじゃなくて、本人なの」

 彼女は線が細く、華奢なタイプだからまるで点と点が線で結ばれなかったけれど、彼女の苗字は確かに旧漢字の方の「廣田」だった。
 そして、彼女の父が実際に僕を連日恐怖に陥れていたあの覆面レスラーであることは、実際に会ってみるとマスクなしでも本人であることがひしひしと伝わった。

 百九十を越える巨体。甚兵衛から伸びた丸太のような腕には無数の傷跡があり、胡坐を掻いた脛には子供用のバット程もありそうな傷跡が見えた。

「拓斗くん、遥々来てくれてありがとうな。彩夏が世話になってるね」

 散々ビビってしまったけれど、いざ話してみるとサラマンダー広田こと義徳さんはヒールの印象とは真反対で、物腰が柔らかくてとてもおおらかな人だった。
 だけど、彼女のお母さんからどうぞどうぞと勧められた酒を呑むスピードは尋常じゃなかった。この辺はさすがレスラーだと思わざるを得なかった。

「自分で言うのもアレだけど、彩夏は本当に俺のことが大好きな娘でさ、巡業に行く時なんかは「いやだ~」っていつまでも泣いちゃって泣いちゃって……そんな大好きなオヤジがテレビで暴力沙汰起こしてるなんて知ったらよ、娘に嫌われるんじゃないかと思ってさ。それで、覆面被るようになったんだよ」

 酔いが回ると義徳さんは饒舌になってそう話してくれた。僕を恐怖に陥れていたマスクは娘への愛情からなんだなぁと思っていると、彼女がすかさず「今でも大好きだけどね」と楽しそうに笑い、立ち上がって義徳さんの背中に抱き着いた。
 まるで子供みたいな彼女の姿が微笑ましかったし、それを喜ぶ義徳さんも素敵だと思った。

 母子家庭で育った僕には彼女みたいに頼れるお父さんは居ないけれど、本当に羨ましい親子だなぁと感じた。
 飲み過ぎることを見越していたように義徳さんとお母さんから泊って行くように勧められ、僕は一晩世話になることになった。

 かつて彼女の部屋だった洋間で布団を並べ、彼女から夜通し義徳さんとのエピソードを沢山聞いた。
 本当に大好きな自慢のお父さんなんだと、彼女は嬉しそうに語っていた。

 それからわずか一ヶ月後の桜の季節。
 義徳さんの死を僕は朝のテレビニュースで知った。急性脳梗塞で、自宅から搬送後すぐに死亡が確認されたと聞いた。
 彼女が心配になって電話を掛けてみると、涙声ではあったものの話は出来た。
 これからバタバタするけど、お父さんに会ってくれてありがとう。
 そんな風に言っていたけど、気丈に振る舞っているのは声で分かった。
 出来ることがあれば何でも言って欲しいと伝えて、僕は葬儀へ顔だけ出す形にして時間が彼女の痛みを和らげるのを待った。

 葬儀が終わった頃から、サラマンダー広田の試合DVDをレンタルして観る機会が増えた。
 小さな頃は反則技ばかり繰り返す極悪非道なトカゲだとばかり思っていたけれど、リングでの試合運びはプロレス素人の僕が観ても感心してしまうほどだった。

「かかって来いよ! この前はやられちまったけどなぁ、尻尾を切られたトカゲの恐ろしさ味合わせてやるよ!」

 口汚く相手を挑発するのはもちろんのこと、反則技を繰り出す際に観客を煽る姿はヒール特有の魅力があった。

「今から、このクソレスラーの処刑を始める。死刑に賛成の奴ら、声を上げてみろよコラァ!!」

 左手は相手レスラーの髪を掴んだまま、右手に握られた鋏を振り上げて観客を煽るサラマンダー広田は名役者のように思えた。
 あんなにおおらかな性格だった義徳さんの「仕事」がほんの少しだけれど、垣間見えた気がした。

 酒を酌み交わした時に、僕は義徳さんにこんなことを聞いてみた。

「レスラーって危険なことばかりだと思うんですけど、怖いなって思うことありますか?」

 義徳さんはその手の質問に慣れているのか、ははっと笑いながら腕組みをして宙を眺め始めた。

「実際はね、怖い。すごく怖い。怪我は痛いし、痛みに慣れるなんてことはないからね」
「でもずっと続けてるなんて、凄いです」
「うーん。下手したらさ、死ぬんだよ。そんな奴いっぱい見て来たしさ。拓斗くんはさ、死ぬことは怖い?」
「え……はい、もちろん怖いです。想像も出来ないですし」
「そうだろ? でもさ、死んだヤツって帰って来ないじゃない」
「まぁ……確かにそうですけど」
「だからさ、もしも死んじまった時は死んだ奴らにこれから会いに行くんだって、そう考えてる訳よ」

 そう言って笑っていたけれど、義徳さんは無事に死んだ人達に会いに行けたんだろうか。
 死ぬって、何なんだろう。生きているって、何だろう。
 そんなことをぼんやり考えている間に、日々は過ぎて行った。

 彼女からのメッセージを見た昼休み。
 僕は急な出来事に気が動転してしまった。

『拓斗へ。迷惑をかけます。連絡はしばらく取れなくなります。本当に、ごめんなさい』

 僕は半ばパニックになってすぐに彼女に電話を掛けた。呼び出し音が鳴るばかりで繋がる気配はなく、退社後に再び電話を掛けると今度は呼び出し音すら鳴らなくなっていた。
 義徳さんが亡くなってから三週間が経った頃で、もしかしたら一気に疲れや悲しみがやって来たのかもしれない。
 そうやって自分に何度も言い聞かせた。

 あれだけ大好きだったお父さんが亡くなって間もないから、こればかりは仕方ない。けれど、もしも落ち込んでしまうことがあるなら少しは頼ってくれても良いんじゃないかと思ったりもした。
 けれど、僕がヤキモキした所で何かが解決する訳もなく、もしも彩夏が僕と別れたがってるなら、ちゃんと言葉で伝えるはずだ。
 彼女から再び連絡が来ることを信じて、僕は待つことにした。

 それから三ヵ月、彼女からの連絡は一切なかった。
 僕自身は段々ストーカーじみてしまい、連絡が取れない代わりに彼女のアパートへ様子を伺いに密かに足を運んだりもした。
 アパートはいつ行っても電気が真っ暗で、そこで暮らしている気配すら感じなかった。
 実家に帰ってしまったのだろうか? 僕はさらに彼女の動向が気になってしまい、ついに勤務先の不動産会社に客を装って電話を掛けてしまった。
 怒られる覚悟で緊張しつつ、電話が繋がって「廣田さんお願いします」と伝えてからすぐに、僕は愕然とした。

「すいません、廣田さんに以前お部屋を紹介してもらった棚橋と申します。あの、廣田さんお願い出来ますか?」
「廣田ですか? 申し訳ございません。廣田は二ヶ月前に退職しまして……しかしお客様、お部屋のことであれば私、猪狩がご案内させて頂きます!」
「あ、いえ……結構です」

 電話を切ってから真っ白になった頭で歩き続け、僕はなんとか家に帰った。どうやって帰ったのか、まるで思い出せなかった。
 それから一日一回は繋がらない電話を掛け続け、その次の週からは二日に一回に我慢した。さらにその次の週は三日に一回に……。
 それでも、彼女からの連絡は依然としてひとつも来なかった。

 半年も経つ頃になると、いよいよ彼女の実家に押し掛けてみようかという気持ちになっていた。
 仏壇に手を合わせに……という口実であれば、彼女のお母さんも悪い顔はしないんじゃないかという浅はかな考えも頭にあった。
 とにかく何も言わずに僕の前から消えてしまうことだけは考えられなくて、もしも彼女なりの理由があればちゃんと聞いた上でけじめをつけたかった。

 僕は今も連日電気のついてないアパートに様子を見に行っているし、迷惑を掛けると言われたうえで自分勝手に行動をしているだけだけど、彼女だって勝手に連絡を絶ったんだし、当然だ。

 そんな風に思っていたある日、一枚の封筒が僕の家に届けられた。
 差出人の名前はなくて、中を開くと手紙も何もなくて、一枚のチケットだけが入っていた。
 僕の前から彼女が消えた理由がそれだけですぐに理解出来て、僕はあまりに自分勝手な行動をその時になって初めて、人として恥ずかしいものだと思い知った。

 当日。地方の体育館を借りた会場は二百人ほどのお客さんで埋まっていた。
 僕の席の隣は彼女のお母さんで、久しぶりに顔を合わせると義徳さんのことや亡くなってからのことを二人で沢山話し合った。
 山ほど長かった時間だったけれど、僕と彩夏の関係は何かが変わることはなかった。
 変わったのは彼女の職業だった。試合が始まるとリングアナの掛け声と共に、三回りほども小さくなったトカゲのマスクがリングに現れた。
 トカゲレスラーがマイクを取ると、中指を立てて会場を挑発し始める。

「せっかく生き返ったってのによぉ、なんだよこりゃあ! 女になっちまったじゃねぇかよチクショウ!」

 そう叫んでトカゲレスラーがマイクを床に叩きつけると、会場中から割れんばかりの拍手が湧いた。僕も彼女のお母さんも、自然と手を叩いていた。
 マイクを拾いあげると、悪態はなおも続いた。

「地獄から帰って来たけどよぉ、地獄ってのはとにかくサイコーの場所でよぉ、間違いなく俺の故郷だったぜ! めーちゃくちゃにイイ所だからよぉ、今日の対戦相手も地獄に招待してやろうと思うんだよ! おまえら、いいよなぁ!?」

 会場からは拍手と「やれー!」の声。そして、それと同じくらいの声量でブーイングが上がる。
 その光景に、いつか画面の中で鋏を振り上げていたサラマンダー広田の姿を思い出す。

「今から、このクソレスラーの処刑を始める。死刑に賛成の奴ら、声を上げてみろよコラァ!!」

 最期の最期までヒールに徹していた義徳さんのDNAは、間違いなく脈々と彼女に受け継がれている。
 ブーイングに対して中指を立てて笑うトカゲレスラーが、マイクを投げ捨てる前に呟いた。

「しかしよぉ、この「サラマンダー広子」って名前だけ……どうにかならなかったもんかねぇ」

 うんざりしたように両手をひらひらさせながら、彼女はリングを歩き回る。 
 その間に相手選手が登場し、ゴングが鳴らされた。

 相手選手は幾らか試合慣れしているようで、動きはトカゲマスクより一枚上手だった。序盤は何度か組技を解いたり攻撃を避けていたトカゲマスクだったが、スタミナが切れて来たのか動きが緩慢になって来る。
 この半年間、鍛えたのだろう。それでも肉付きの良い対戦相手と比べたら線が細いトカゲマスクは、なんとリング上で相手に両手を合わせて懇願し始めた。

 当然会場はブーイングが巻き起こり、対戦相手も頭に来たようで聞こえては来なかったけれど文句を浴びせていた。
 両手を合わせて「勘弁してくれ」と拝むトカゲマスクに、対戦相手がにじり寄る。

「ナメてんのかてめぇ!」

 その次の瞬間だった。射程距離に入った対戦相手の首を目掛けて、トカゲマスクの延髄斬りが炸裂した。
 クリーンヒットした対戦相手が膝を崩し、首を抑えながらその場に蹲る。
立膝で「汚ねぇぞ!」と叫ぶ対戦相手に、彼女はマイクを要求するとこう叫んだ。

「誰が相手だと思ってんだこの野郎!」

 マイクを投げ捨て、顔面目掛けてキックを食らわせる。
 あまりに汚い試合運びに、喝采の拍手とブーイングの嵐が送られる。
 僕は気が付くと、泣いていた。泣きながら、叫んでいた。

「頑張れ! サラマンダー広田ぁ! 頑張れぇ!」

 彼女のお母さんも、会場であのトカゲマスクを応援する人達も、叫んでいる。

「行けぇー! 広田ぁー!」
「広田ぁ! 地獄を見せてやれぇ!!」

 それに合わせるように、こんな叫び声も聞こえて来る。

「地獄に帰れぇー!」
「成仏しろよこの野郎!」 

 グッズ販売されていた「サラマンダー広子」のタオルを握り締めながら、僕も彼女のお母さんも声援を送り続ける。
 死ぬって、何なんだろう。生きているって、何だろう。
 そんなことをばかりぼんやり考えていたけれど、僕は生きている。
 生きて、叫んでいる。あのトカゲマスクも、必死に生きている。
 負けるな。頑張れ! 頑張れ! やっちまえ!

 血が騒いだのだろうか、ヒートアップしたお母さんは「殺しちゃえー!」と絶叫していた。僕は少し驚いてしまったけれど、きっと義徳さんのこともこんな感じで応援していたのだろう。

 熱に湧く会場。リングの上で跳んだり跳ねたりする線の細いトカゲマスクを「偽物」だとか「本物じゃない」なんて言うヤボな人は誰もいなかった。
 レスラーも観客も、その場に居た全員がしっかりとプロレスをしていることが伝わった。

 白熱した試合だったけれど、よろけた隙を狙われたトカゲマスクがスリーカウントを取られてしまい、対戦相手が勝利を収めた。
 切った額から血を流しながら、対戦相手はマイクを握る。勝利コメントが会場に響き渡る。

「サラマンダー広田……いや、広子! そんなに地獄が好きならなぁ……次は絶対に送り返してやるよ!」

 負けじとマイクを握ったトカゲマスクは息を切らしながら叫ぶ。

「首までどっぷり地獄に浸かってたからよぉ、まだ身体が慣れてねぇんだよ! 次こそ、殺す!」

 会場からドッと笑いが起きて、次の試合準備が始まった。
 リングから降りて会場から去るサラマンダーに、「ありがとう」と声援が送られ続けていた。

 控え室へ行くと、トカゲマスクを取った彩夏がパイプ椅子に腰掛けて脛をアイシングしていた。
 半年ぶりに見る彼女はなんだか僕よりもよっぽど頼りがいがあるように思えたけど、表情はまるで変わらない彼女のままだった。
 僕とお母さんが来たことが分かると、首をすくめて小さく笑った。

「本気でやったけど、負けちゃった」

 僕とお母さんで労いの言葉を掛けたけど、彼女はとても悔しそうにしていた。
 肩を落として両手で顔を覆い、「情けない」とも呟いていた。だけど、涙は見せなかった。
 少し心配になったけれど、顔を上げた彼女の顔はなんだか晴れ晴れとしていた。そして、自信に満ちた声で彼女は言った。

「うちのお父さん、凄いでしょ?」

 僕はその言葉に頷いた。深く頷いて、やっぱり良い親子だと感じていた。
 聞きたいことは沢山あったけれど、今日の試合と彼女の表情で全てがどうでも良くなってしまった。

 サラマンダー広子から彩夏に戻った彼女は、僕が「凄い」と言うと子供のような顔で嬉しそうに笑って、頷いてみせた。




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