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【小説】 遠くの箱庭 【ショートショート】

 列に並ぶ人の顔はどれもこれも、杞憂を塗りたくったような蒼ざめたものだった。
 コンクリート造りの市民センターには窓はないが、建物は見上げなければならないほど巨大なものだ。
 その正面の入口から正門までおよそ五百メートルもの距離に、押し黙った人々が静かに並んでいる。
 その一人一人の様子をじっくりと眺めながら、私は列の横を歩いている。
 中央まで来ると、ある老人が私の腕章を掴んで訴えた。

「お願いです、私をどうか先に行かせてはくれませんか? ここに並ぶ誰よりも長い間この国に尽くし、そしてこの国を誰よりも愛して来ました。お願いです!」
「列の順番に年月は関係ない。あるのは平等だけだ」
「いや、聞いて下さい! お願いです!」

 下らない。この老人は、国が長きに渡り築いて来た平民の為に作られた思想のユートピアを否定する気だろうか?
 平民の誰か一人が突出することなど、有り得ない話だ。
 しかし、今日も空の色が悪い。鬱屈した塊のような雲は晴天を嫌い、この土地に冷たい雨季をもたらす。
 先へ行こうとすると、老人は私の腕章を力任せに引き千切った。
 人間の私よりもよほど優秀で日頃から訓練されているベスが、その狼の血を残すDNAを反応させた。
 老人は腕を噛まれ、血を流した。
 その手に握られた腕章よりも濃い赤が、腕をつたって布切を染めて行く。

 すぐに泣き叫ぶだろう。喚くだろう。そう思っていたが、腕から血を垂れ流す老人は真っ直ぐに私を見つめたまま、動こうとしなかった。

「……話しくらいは、聞いてやろうか」

 興味深かった。ここまで自らの意思を通そうとする者は、この国では珍しい。
 加減を間違えれば、それは即ち死を意味するからだ。
 老人は自らの血で濡れた腕章を握り締め、私の顔の前へ突き出した。

「なら……この腕章がなぜ赤いのか、わかりますか?」
「なぜ? それは、決まりだからだ」
「違う。なぜ、この色になったのか。まだお若い身分のあなた様に分かりますか?」
「……さぁ。そう決まっているから、だろう」
「この腕章のデザイナーは、私です」
「ほう、それは驚いた」

 なんと。この老耄がまさか私の制服についた腕章のデザイナーだったとは。意外だった。
 この制服になってから五十年余と聞いているが、まさかデザイナーがまだ生きているとは。 

 敬意は存分に払うが、かといって列を出し抜かせる訳には行かない。
 それがどんな理由であっても、だ。
 老人は腕が痛み出したのか、苦悶の表情になりながら呟くように腕章の物語を私に伝えた。

「人間はみな、豊かさも、その愚かささえも、平等なのです。赤子も、若者も、我々老人も、皆等しく。あなた様が生まれる遥か昔に、その平等の礎を築く為に血を流した者達が、多くいたのです。私の家族、友人も沢山いました。私は彼等の熱意と、想いを、この腕章に込めました」
「……そうか。それで?」
「それでとは……本気で、聞いているんですか?」
「そうだ。だから、どうしたと聞いている」
「……もういい、あっちへ行ってくれ」
「どうした? 話しがあるんじゃなかったのか」
「もういい! 婆さんが死にかかってるんだ! だから少しでも先を行きたかった! だがな、おまえみたいな無知な人間が蔓延るこんな国なら、さっさとくたばっちまった方が楽だ! もういいから、あっちへ行け!!」
「…………」
「行けと言っているんだ!」

 老人は血を流しながら、私に侮蔑のこもった目を向けながら列へ戻った。

「さっさとくだばるんだろ? なら、なぜ並ぶんだ?」
「……うるさい! あっちへ行け!」
「貴様。口応えをしたな」
「したさ! そうさ、こんな腐った国に理想なんか抱いていた俺がバカだった! 歴史を知らないおまえもバカだ、大バカ野郎だ!」
「そうか。では、連行する」

 老人は抵抗の素振りを見せたが、手錠を嵌めると急におとなしくなった。
 もうどうにでもなれ、という心境なのだろう。
 冷たい雨が降り出した。空から落ちる雨粒に人々は傘もなく、押し黙ったまま並び続けるしかないのだ。

 列に並ぶ人々が、虚な目をこちらに向けている。
 あぁなってはしまいだ、そんな風に囁き合う声が聞こえて来そうで、目眩がする。
 私は老人を連れて市民センターの入口まで進み、その脇にある公人用通路から建物の中へと入った。

 豪華絢爛な飾りが輝く建物の中では、優美な音楽に合わせて職員達が始業前の余暇としてダンスを踊っていた。
 私が入ると、彼らはピタリと踊りを止めた。
 それは私が来たからではなく、老人の見窄らしい姿を至近距離で目にしたからである。

 駒使いの男の職員が鼻をつまみながら私の所へ駆け寄って来て、ヘラヘラと脂の滲んだ笑みを浮かべる。

「あのぅ、そちらの乞食は処分ですか? なんなら、ここまで連れて来なくてもぉ、すぐに手配」
「客人だ」
「はい?」
「この方はこの国の英雄であり、私の客人だ」
「英雄? えっと……どう見ても三等国民……」
「腕に傷を負っているので至急の手当を。それと、この方の妻に今出来る最善の治療を施すんだ。いいな?」
「はい……わかりました」

 駒使いが如何にも面倒そうに、だらだら動き出す。私は老人の手錠を外したのだが、なぜ、こんなことをしたのだろうか。
 自分でも、わからない。
 ただの平民だと言うことがわかれば、私も拘束されるだけでは済まないだろう。
 身分を利用した嘘や勝手か真似は重罪だ。下手をしたら、命もなくなるかもしれない。
 駒使いが手配を済ませて戻って来るのを待っていると、老人は私に言った。

「先ほどのご無礼を、どうかお許しください」
「いや……歴史を知らずに、恥じていたところだ」
「ならば、私を今すぐにあの列に帰して下さい。お願いです」
「……どうして?」
「どうしても、です」
「……いいのか?」
「構いませんから」

 外の雨は強くなるだろうか。それとも、音も立てずに厭らしく降り続けるだろうか。
 私は駒使いを再び呼びつけ、パンを二つ持って来させた。それくらいなら、何かの罪に問われる心配もなかった。

「貴様。先ほど、私に対して反抗したな」
「それは、本当に……ご無礼を……」
「これを貰いに来たんだろう? 受け取れ」
「え? いや……私は」
「受け取らねば、投獄だ。受け取れ」
「……ありがとう、ございます」

 時間がやって来た。深々と頭を下げる老人の背後で、入口の扉が開かれた。
 それと同時に、列に並んで様子とは一変した人々が一気に押し寄せる。
 絢爛な音楽に合わせて踊り続ける職員は、必死に手を差し伸べる人々に気まぐれにパンを手渡している。
 狂気めいたその光景がいつの間にか、私の日常となっていた。

 老人は血濡れのパンを抱きながら、こう言った。

「いつか、我々も共に踊れる日を待ち望んでいます」
「…………」

 老人は荒く息を吐きながら、蒼ざめていた。
 しかし、それは杞憂を塗りたくったようなあの色ではなかった。
 恐らく、パンは家に届かないかもしれない。

 老人が去ってからもしばらくの間、私はパンを求める人々が伸ばす垢が媚びた朝黒い無数の腕と、気まぐれに配られるパンの行方を眺めていた。
 その誰からも私は遠いような気がしていたし、多くの人々を目にしながらも、そこには最早誰もいないような気もしていた。

 まるで限界まで遠くに置かれた、小さな箱庭を眺めているようだった。
 たった一人だけ傍にいたと感じられていたのだが、その姿はもう建物にも外にも、何処にもなかった。  

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