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【小説】 誰が為に、 【ショートショート】

 三十五歳を過ぎた頃から、人と関わりを持つことが極端に億劫に感じるようになった。
 一円にもならない同僚達との世間話、聞くだけで実感のない友人達の平凡な生活の話、時折電話が掛かってくる母親から聞かされる愚痴の数々。

 それら全てに興味のあるフリはいつの間にか限界を越え、俺の心はその形を少しずつ少しずつ、溶かして行った。
 産業医に相談したら「鬱病ですね」と言われ、心の麻痺の原因かもしれないと思い始めていた営業の仕事を辞めることにした。
 それから友人達の連絡先を削除して、誰とも連絡を取らなくて済む生活を営むことにした。
 いざ金に困れば仕事なんかなんだって良いと思っていたものの、丁度流行り病が起きたせいでアルバイトすら見つからなかった。

 いや、たった一度だけ試しにファミレスのバイトに就いてはみた。しかし周りは大学生を中心とした若者ばかりで居心地が悪く、三日も持たずに辞めてしまったのだ。

 今の俺の生活には、何もない。目指すものも無いし、やりたいことも無ければ見つける気すらない。
 ただ貯金を食いつぶして日々を凌いで、いつの間にか朝がやって来て夜が過ぎて行くだけの日々。
 そんな日々を「とても平和だな」と、俺は感じている。
 誰かと挨拶を交わすことすらこの半年した覚えがないけど、それでも俺は生きている。
 生き甲斐なんて本当にどうでも良くて、なんで誰でもない状態で生まれた人間が無理にでも「何者」にならなきゃいけないのか、こんな生活をしていてより強く思うようになった。

 貯金が目に見えて減り始め、そろそろ働かなければマズいと思ってから動き出したものの、どうやら遅かったようだ。
 とりあえず何処かの会社の正社員になろうと思って面接を受けるものの、先方からビジョンや目標を聞かれるたびに、俺は躓いた。

「君、本当に何もないの? 例えば、結婚したいとか、車を持ちたいとかさ、なんかあるでしょう?」
「いえ、あの……放っておいてもらえる生活がしたいです」
「そんな、仙人じゃあるまいし」
「あの、仙人みたいに偉くはないんですけど」
「だったら、何のために働くの? 生活のためだけ?」
「まぁ、そうですね」
「そうなんだねぇ。そういう君はさ、何者なの? 怖くないの?」
「何者……でもないですけど、別に生きてて怖くはないです」
「へぇ……合否はまた連絡しますんで。お疲れ様でした」

 こんなやり取りが数回続いたが、二度目のお疲れ様を言える機会は与えられずにいた。目標のなさに加え、現実に「年齢」の壁も実感し始めた俺はとにかく働かなければならないと思い、手っ取り早く派遣の求人に応募してみることにした。
 求人案内には随分と魅力的なキーワードがあちこちで踊り狂っていた。

「日払い・週払いOK」
「電話なし・カンタンもくもく作業」
「未経験者歓迎! 社員登用あり!」
「あなたのケイケン、活かせます!」

 そんな広告を載せた求人を乱発していたある一社に応募し、電話で軽く実際の仕事の話しを聞いてみた。
 都内に近い場所でパソコンを使ったデータ精査の仕事だと言われ、俺は二つ返事でOKを出した。ところが、そのわずか十分後に掛かって来た電話でこう言われた。

「溝口さん、大変申し訳ございません。実は先ほどの求人は先方から既に充足してしまったと連絡がありまして」
「あー、そうなんですか。分かりました」
「代わりと言ってはなんですが、別件のお仕事でしたらすぐにご案内可能です! すぐにでも、明日にでも入れます!」

 そう言って案内されたのは『冷凍倉庫で紙の指示書を見て棚から商品を集めるピッキング』の仕事だった。
 どうしたら「パソコンを使ったデータ精査」の代わりが「冷凍されてガチガチに固まった商品を集める作業」になるのだろうと思ったが、とにかく一日だけ頑張って耐えてみることにした。

 冷凍倉庫の中はとにかく寒くて、耳あてをしていても耳たぶは千切れそうなほど痛くなるし、掻いた汗が次から次へと凍っていくから身体の熱も動けば動くほど奪われた。靴の中はぐしょぐしょになり、半日を終えた頃には足の指先の感覚が無くなった。それでも何とか耐えて、七時間の作業が終わった。
 倉庫事務所で取っ払いで受け取った給料は六千八百円で、何度見直してみてもそれ以上でもそれ以下でも無かった。

 仕事が終わって冷凍庫の外へ出てみると、外気温とのギャップに脳が浮くような感覚に陥った。高い山へ登った時のように耳が詰まり、左に右に景色が揺れた。
 駅まで歩いて七分ほどだったが、ぐしょぐしょと音を立てながら晴れた夕方の夏空の下、歩道に濡れた足跡を点々と作るのが恥ずかしかった。
 駅の近くまで歩いて行き、喫煙所で煙草を吸っていると電話が掛かって来た。
 誰かと思って画面を見てみるとそれは母親からの電話で、また長話を聞かされると思うと心底うんざりしてしまい、俺は出るのを止めた。
 電話が切れてから数分後、母親からこんなショートメールが届いた。

『父さんが言うこと聞かなくて、また釣りの道具買ってきたよ。話聞いてよ』

 それを見て尚更、掛け直す気が無くなった。
 なんていうか、この世界で俺に用事がある奴が全員居なくなれば、もっと俺は生き易いのにな、と感じたからだ。
 どんな些細な用件でも全てが面倒臭く、鬱陶しく、そして不必要だと思えて仕方がなかった。
 靴は晴れ切った夏の空気に抗うように、いつまでも濡れたままだった。

 電車に乗り込むと多くの人がマスクをしたまま、無言で揺られている。
 肌の白いやつも、黒いやつも、若い奴も、ジジイもババアも、マスクをしたまま俯いて、ジッと何かに耐えているように揺られている。
 駅に着くたびに揺られていた人達が降りて行き、次第に人は減って行く。何処かの女子高生達がお喋りを始めて、それにつられたように何処かの男子高生達も話し始める。

 急激に立ち込めた雲が夜の手前で窓を叩き始めると、さらに人はどんどん減って行った。流れる外の景色からはビルの灯りが消え、長い暗闇がしばらく続く。
 何処までも何処までも、いくら目を凝らしてみても、先の見えない暗闇が続いている。
 あの暗闇の先には一体、何があるんだろう。いや、本当に何もないのかもしれない。

 電車はゴトゴト音を立てながら、闇の中を進んで行く。
 あの闇の果てには、何があるんだろう。いや、少なくとも駅があるから当たり前だが電車が進んでいるのだろう。
 そんなつまらないことを考えているうちに、また一つ駅のコマを進め、電車が止まる。
 数人の女子高生とサラリーマンのおっさんが降りて行く。
 ドアが閉まると、車両の中に居るのは俺と病院帰りっぽい婆さんの二人切になった。 

 電車が動くと同時に電話が鳴ったので画面を見てみると、派遣会社からだった。電車内は俺しか居ないようなものだし、まぁ良いかと思い、電話に出てみた。

「お疲れ様です。今日と同じ現場が明日もあるんですけど、溝口さんどうですか? とっても評判が良くて先方から指名も入ってるんですよ!」
「あぁ、それじゃあ……」

 それじゃあ、明日もお願いします。俺はそう言うんだろうか? もう行く気もないのに、二度と靴を濡らして恥を掻きたくないのに、きっとそう言ってしまうんだろうか。
 けど、簡単にそう言うのは、どうなんだろうか。  
 それじゃあ、と言ってから考え直し、思った通りの言葉を口にする。

「やっぱ、ごめんなさい。無理です」
「えー、どうしてですか? 凄く評判も良いので、是非
「いえ。急用が出来たんです」
「でも、明日の作業予約入れてもらってますよね? いつから予定出来たんですか? 予定変わったらすぐ連絡入れるようにって、説明会で言いましたよね?」
「今、出来ました。すいません」
「溝口さん、申し訳ないんですけど嘘ついてます?」
「いえ」
「じゃあ、何なんですか? 現場で何かありましたか?」
「……だって、冷凍コーンの箱を集めたり下ろしたりするのは、データ精査の代わりにならないじゃないですか。アレがデータ精査の代わりだなんて、一体なんのつもりだったんですか?」
「はぁー……溝口さん、そういう感じですか。はいはい。まぁ、このご時世ですし、ご年齢も、ねぇ? ですから、仕事があるだけマシだと思って頂いて、明日からも何日か通っていた」

 話の途中で、俺は電話を切った。
 切った直後、本当に少しだけ、本当に少しだけれど、これで良かったと思う気持ちになれた。
 あと一駅で、電車は俺の暮らす小さな街に辿り着く。
 いつもと同じ毎日に、ほんの少しだけ違うことが起きた一日だった。
 明日からまた、朝が来て夜が過ぎて行く平和な毎日なんだろう。

 何気なく車両の床に目を落としてみると、何故かアサガオの花弁がひとつ、落ちていた。
 花弁はとても青々としていて、無機質な車内では何だか悪い冗談のようにも思えるほど、生きた色をしていた。
 俺はふと、こんなことで今は夏の中に居るんだと感じることが出来た。

 電車が、乗客の気配を失くしたホームに辿り着く。
 アサガオが誰かに踏まれないなことを祈りながら、そのあとすぐに電車を降りた。
 ポケットの中で震えるスマホ。どうせ派遣会社からだろうと画面を見ると、母親からの着信だった。
 数秒迷ったが切話ボタンをタップした。これも、これで良かったと思えた。
 ホームを振り返るとアサガオを載せた電車は闇の奥へと、夜の暗がりを掻き分けながら走り去って行った。

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