用意されたチームで、「みんなのために」なんてできない

「チームのために」という言葉があまり好きじゃない。
同調圧力というか、義務感というか、強制力を感じて、苦しくなる。

そもそも、チームのメンバーは僕が選んでいない。ずっとだ。ずっとチームのメンバーなんて選べなかった。

学生だった頃もクラスメイトは選べなかった。「席替え」なんて制度があるくらいだから、もちろん、隣の席に座る人も決められない。

小学校、中学校、高校と嫌いではなかったけれど、どこか息苦しさを感じていた。でも、大学はとても楽しかった。

大学は、全部自分で選べた。友達も、何をするかも、どこで過ごすかも。
大学内の学科で気の合う友達ができなければ、バイト先やサークルや、趣味のコミュニティで友人を見つければいいし、授業だって出ても出なくてもいい。とにかく自由だった(僕が不真面目なだけかもしれないけれど…)

だけど、小学校、中学校、高校ではそうはいかない。
気の合わない友達がいても、我慢して一緒にいないといけないし、仲良しの友達とはクラスが離れてしまうし…かといって、ひとりぼっちでいると、先生が「友達はいないのか?」と本気で心配してくる。

どうして、自分の好きな人と、自分がいいなと思う人と一緒に過ごせないのだろう…

大人たちはよく、こう言った。
「大人になったら、いろんな人と関わることになるんだから、今のうちにいろんな人がいることを知っておくんだよ」

それはたぶん、間違いではなかったと思う。
でも、説明不足(教育不足)だと思う。

大人になって確かにいろんな人がいて、自分に合わない人がいることも知ったけれど、その人たちとの付き合い方は特に教えてもらっていなかった。

だから、我慢するか、その人の近くから去るしか方法はない。でも、きっと、それくらいしか方法がないのだと思う。

「クラス」と同じで会社の「チーム」も用意されたものだ。
だから、そこに帰属意識なんてものは少しも感じられない(思えば、一致団結とか一丸となってみたいな言葉があまり好きではなかった)。

「ひどい!」と思う人もいるかもしれないけど、「チームのために貢献する」なんて、僕はやりたくない。だって、誰のためになるのか、よくわからないもの。チームの顔が見えない。ひとりひとりのためなら、まだ頑張れるかもしれないのに。僕は不器用だから、たぶんひとりにしか、力を注げない。

チームってそもそもなんだろう。

チームのメンバーの、誰かのために。なら、まだわかる。その人が困っていたり、助けを求めていたら、できる限り協力しようとはしているつもりだ。

でも、チームという得体の知れない集合体に対して、愛とか情熱とかを持つことはなかなか難しい。自分の好きな人たちに囲まれて過ごすって、すごく大切で、だからこそ大学は楽しかった。

これって、会社のために、ブランドのために、地域のために、国のために、日本のために…という話と、似ているのかも。

結局、誰のためになっているのか、よくわからない…
国とか、日本とかの顔ってよく見えないもの。

だから、無理にチームのために頑張らなくてもいいのかなって、最近思う。せめて、チームの中の「この人なら」と思うひとりに、力を貸してあげることができれば。

もちろん、その人が「好き」ということが前提だけれど。

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