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記憶の貯蔵庫(エッセイ)

 棋士も、20代~30代が棋力のピークと言われる。40代を過ぎれば少なからず衰えが出てくるものである。
 私は、己の脳のスペック(言うほど特別高いわけではないが)を一定程度保つために無意識に行っているのかもしれないが、車の運転時等に、学生時代に暗記した鳥肌実のネタを2~3本暗誦してみたり、同じく以前暗記した白水社の語学書『ニューエクスプレス』(イギリス英語)の全スキット20課分を口ずさんだりする。先日は、それらに加え、幼稚園の時に暗誦していた宮澤賢治 『雨ニモマケズ』を思い出しながら唱えたり、ありきたりではあるが、平家物語の冒頭を諳んじてみたほか、百人一首から「田子の浦に……」、「大江山……」、「花の色は……」、「久方の……」の歌をそれぞれ久々に口ずさんだ。ただ「……ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」の出だし五文字がどうしても思い出せず、後で正解を調べ、不甲斐なさを憶えたものである。

イスラームの暗誦文化

 イスラームでは、クルアーンは「声に出して詠まれるもの」という意味があるが、長大なクルアーン全てを暗記する者(ハーフィズ)はムスリムにとって大きな名誉の1つとされる。特に、啓典や預言者(ムハンマド)の言行録等から厳格に論理を突き詰めていくイスラーム法学の世界では、その性質上、暗記が絶大な意味を持ち、その伝統はイスラームが興って以降変わっていない(元々、アラブ文化では暗記が尊ばれ、記憶力の優れた者を知力の優れた者とみなす傾向があったようである)。クルアーンは、6,236節からなる全114章で構成され、書籍にすれば約600ページにもなることから、これを暗記するというのは並大抵のことではないのだが、イスラーム世界では10歳くらいまでに全て覚え終わるということもままあるようだ(勿論、小さな子どもであれば、文字ではなく耳と口とにより音で覚えるのである)。
 イスラーム法学では、クルアーンに加え、さらなる法源としてハディース(預言者言行録)がある。このハディースは、概ね次のような形をとるそうである。「ムハンマドが『…………』と語ったのを聞いた、と〇〇が言った、と△△が言った、と◇◇が言った」、つまり、ハディースは伝聞者を次々に数珠つなぎにしていくのである。ハディースは、ムハンマドが語った『…………』のみを記憶していてもハディースにはならず、必ず「伝聞者の連鎖部分」まで全て含めて知っていなければならないらしい。となると、一見すると同じようなハディースがあったとしても、伝聞者の連鎖部分のうちの1人が異なっていれば全く別のハディースとなり、その異同も含めて何千ものハディースを記憶するのは至難の業である。
 そもそも、長大とはいえクルアーンが分量的に有限であるのに対し、ハディースは無限定である。というのも、ムハンマドは「これがハディースである」と指定して言動を行ったわけではないためである。クルアーンもムハンマドの口から語られたものではあるのだが、アッラーからの啓示である旨を彼が都度指定しているために、容易に区別化され、その範囲を限定することができる。対して、ハディースは、ムハンマドの日常的な言動から拾い集められたものであるがゆえ、そうはいかぬ。かかる事情であれば、故意による捏造や過誤による混同が起こるのが世の常であり、実際にその両方が生じたそうである。
 ハディース学者が真贋を識別する方法は、「内容そのもの」に関わるものと「伝承経路」に関わるものとに大別されるようである。このうち、内容そのものについては、当然ながら、クルアーンの定めと明らかに対立するものや、合理的に考えてあり得ないこと、歴史的事実に反すること等が排除されていくのだが、不可視世界に関するもの等、容易には判別し得ないものもある。一方の伝承経路については、本当に実在したかどうかが疑わしい人物や、物理的に会うことが不可能であるはずの人物からの伝承が除外されることは勿論、一度でも礼拝を怠ったことがある人物であれば信仰心に疑義ありとしてアウトにされたりと中々手厳しい。ほかにも、信仰心が確かで誠実に伝承したとしても晩年に記憶力が低下した人物であれば、若い頃の伝承も全て採用されない等、この狭き門をくぐるための要件はかなりシヴィアである。これらの峻厳たるフィルターによって篩にかけられ残ったもののみが真のハディースとして認められるが、ハディース学者の歴史の中で最高峰とされるムハンマド・アル=ブハーリー師は、16年をかけて90万ほどのハディースを蒐集し(うち約60万を記憶したとする説がある)、その中でも自分が本物であると確信したハディースを厳選し、それらに「良好」又は「真正」のタグ付けをした。その真正の約2,700のハディースを収録したものが『真正集』として9世紀にまとめられた。これは、クルアーンに次ぐ権威を持つハディース集の筆頭として現在のイスラーム法学においても決定的に重要な位置を占めている。
 なお、先述したクルアーンを全て暗記した者「ハーフィズ」は各地に多く存在するが、ハディース学において「ハーフィズ」を呼称される者は10万というハディースを記憶する者であり、世に登場することは滅多にないとされる。膨大な数のハディースを、その内容とともに伝承経路も含めて覚えるというのは眩暈も通り越すほど気が遠くなる話である。

いろは歌の世界観

 私が通勤時等に時々口ずさむものとして「いろは歌」がある。何てことのない、誰にも容易に暗誦可能な馴染み深い歌であるが、七五調四句の「今様(いまよう)」という形式で、かつ、仮名1字を1回ずつ過不足なく必ず使うという制限下にあり、その中で意味の通る、しかも平安時代より顕在化してきたわが国特有の儚き「あはれ」の無常観が見事に表現された類い稀なる傑作であるという思いを、私は兼ね兼ね抱いてきた。

 いろはにほへと ちりぬるを
(色は匂へど散りぬるを)
 わかよたれそ  つねならむ
(我が世誰ぞ常ならむ)
 うゐのおくやま けふこえて
(有為の奥山今日越えて)
 あさきゆめみし ゑひもせす
(浅き夢見じ酔ひもせず)

 これは、『涅槃経』無常偈(雪山偈)で説かれる次の四句に対応している。

 諸行無常
 是生滅法
 生滅滅巳
 寂滅為楽

 すなわち、諸行は無常なり(色は匂へど散りぬるを)、これ生と滅の法なり(我が世誰ぞ常ならむ)、生と滅とを滅し巳え(有為の奥山今日越えて)、寂滅するを楽と為す(浅き夢見じ酔ひもせず)
 しかし、よく見てみると「我が世誰ぞ常ならむ」のほうが諸行無常に、「色は匂へど散りぬるを」のほうが是生滅法にそれぞれ明らかにマッチしていると思われ、ここは今後の研究を要する点であろう。
 この無常偈は、ゴータマ・シッダールタによる四法印と呼ばれる教え

 諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静

の最初と最後に当たるものである。『涅槃経』は大乗仏教中期の経典に属しており、プロト・ブッディズムのオリジナリティにどの程度まで忠実であるかに議論の余地はあろうが、いずれにせよ、いろは歌は無常偈で説かれる教えを日本の感覚で咀嚼し、淡い色彩で見事なインタープリテーションが施されたものである。だが、その作者は今日に至るまで全く判明していないとのことである(弘法大師(空海)が作ったとの説がかつてあったが、今様形式が当時はまだなかったこと等から、この説は現在採用されていない)。
 ところで、いろは歌に出てくる語の中で唯一「有為」のみが大和言葉ではなく漢語となっており、気になるところである。調べてみると、これはやはり仏教用語であり、因果を離れた不生不滅のあり様(無為)に対する因縁により生滅するあり方とのことであった(浄土宗『新纂浄土宗大辞典(WEB版)』)。したがって「有為の奥山今日越えて」とはすなわち「因縁により生滅するあり方を超越して」ということとなり、先の無常偈第三句「生滅滅巳(生と滅とを滅し巳え)」に恐ろしいほど合致する。仮名文字を重複させず1回ずつ使うという制約下、大和言葉で全て成し遂げることは叶わなかったにせよ、漢語の助けを借りてここまで意味のある内容の歌を捻り出すことは尋常ならざることである。
 言うまでもなく「いろは歌」は、現代のような「あいうえお」の配列が一般的となる前に、仮名文字の手習いとして広く用いられてきた。しかし、上述のような仏教思想の日本的解釈による非常に高度な抽出が行われていることを考慮するならば、識字教育のみならず私たち日本人の無意識的な領域における思想形成にも蔭ながら寄与し、その後の日本文化に少なからぬ影響を与えたに相違ないだろう。
<補足>
 なお、いろは歌を7字ごとに区切ると、それぞれの句の末尾が
 いろはにほへ
 ちりぬるをわ
 よたれそつね
 らむうゐのお
 やまけふこえ
 あさきゆめみ
 ゑひもせ
すなわち「咎無くて死す」となり、罪なくして十字架の人となったイエス・キリストとの関連等が指摘されることもあるが、私の勉強不足につき、この観点についての本稿でのこれ以上の言及は措くこととする。