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【春宵十話】「情緒」の種は蒔いた。後は育つのを待つ。

オススメ度(最大☆5つ)
☆☆☆☆☆

〜岡潔さん本人の文章に触れる〜

数学関連の本を読んでいると頻繁に出てくる「岡潔」さんというお名前。
日本で最も偉大な数学者と呼ばれ、多変数解析函数論の分野における「三大問題」を解決して世界にその名を轟かせた方である(この問題がどういったものなのかはちんぷんかんぷんである(笑))。

数学する身体」で岡潔さんに関する随筆を読み、「人間の建設」で小林秀雄さんと岡潔さんの対談を読み、遠回りする形で今回この「春宵十話」で岡潔さん本人の文章に触れることとなった。
非常に読み心地の良い文体で、心穏やかに読むことができた。岡潔さんのような精神と心に憧れすら抱いてしまう、名随筆であると感じた。


〜情緒と教育〜

岡潔さんを語る上で外せないのが「情緒」という言葉である。

人の中心は情緒である。
情緒の中心の調和が損なわれると人の心は腐敗する。社会も文化もあっという間にとめどなく悪くなってしまう。

岡潔さんは、日本の文化を培ってきたのは「情操」や「情緒」であり、戦後進む西欧化の中でその伝統と叡智が失われることに警鐘を鳴らした。

それと並行して、教育にもメスを入れる。

学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えられている。

と岡潔さんははじめに語る。人が学問をし、人が教育されるのにも関わらず、人を生理学的に見ればどんなものか、ということはしていない。
それは、「早く育ちさえすれば良い」という教育に問題があり、「人」の中心にある「情緒」を成熟させるという意識が無いからである、と。

この随筆は戦後の時代に書かれたものだが、このような教育の問題に対する指摘は現代にも当てはまる。
スパルタ教育、つめこみ教育、ゆとり教育、そして今では「社会に出てすぐ役に立つ教育を!」とプログラミングや金融を義務教育の科目に加えて反対に不要な科目を挙げていく、なんて場面も見かける。
いずれも、「人」をつくるためではなく「機械」をつくる教育になっている、という戦後からの岡潔さんの懸念は全く解消されていない。
さらに言えば、岡潔さんが本書の中で危惧していた日本がまさに今の日本の姿なのではないか、とすら感じてしまう。
情緒を失った人々は、自分の中心を失ってしまった人々であり、自分が何をやっているのか、また、何をやりたいのかもわからず、ものを作り加工して、マネーのためのマネーを延々と作り出す構造の中でただ生きている。学問が学問でなくなり、教育が教育でなくなり、人が人でなくなり、ほんものが存在しない日本が今なのではないだろうか。


〜「情緒」という言葉〜

人が人として成熟するためには、人の中心にある「情緒」について思いを巡らせることに回帰しなくてはならない。

では、「情緒」とは何なのだろうか?
実は、この点が本書の難しいところであり、「情緒」という言葉がキーワードであるにも関わらず、この「情緒」がどういったものかという説明がほとんど無いのである。

とはいえ、「情緒」の具体例は多く語られている。

例えばそれは、気づきや心の機微である。
例えばそれは、幼い頃に他人に対する悲しみや思いやりなどの感情に気づくことである。
例えばそれは、自分の意思で何かに熱中している時に育まれるものである。
例えばそれは、ある難題に頭を悩ませている時に、ふとその問題から離れた瞬間に発見する喜びである。
例えばそれは、自分の軸となる真善美である。
例えばそれは、学を楽しむ境地の心である。
例えばそれは、自然が人間にさしだしてくれるものを受け取るための心の構えである。
例えばそれは、正しいものを正しいと、良いものを良いと直観で感じ取る智力である。

このように本文の中から挙げれば、枚挙にいとまがない。
おそらく、岡潔さん自身も「情緒」というものに明確な説明をするのは難しかったのではないかと思う。
言葉で説明するのは難しいが、たしかにそれは自分の中心にあるのだ。

岡潔さんの言葉を借りるなら、僕もこの本で自分の中心にある「情緒」の存在を知るための種を巻いたところだ。あとは、萌芽の時までゆっくりと待ちながら育てることにしよう。そして、それが成熟した実になれば、少しでも岡潔さんのような精神と心に近づく事が出来るかもしれない。

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