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【試行の価値】ホモ・サピエンス生存の歴史から学ぶ「試し」の教訓

最近、「倒産」や「新規事業」「マーケティング」「金融の歴史」などに関する本の試し読みをKindleで数冊行なっている。

「事業を立ち上げて伸ばす」という目標を、生きてるうちに一度は達成したい欲望があるからだ。具体的には、教育を今よりもっと良くできないかということで、「WEBメディア」を立ち上げたいと考えている。

小学校から高校の学校教育、部活動とクラブチームでの教育、塾での教育、警視庁警察学校での職業訓練教育など、さまざまな教育をこれまで受けてきたが、自分が心から満足できた教育は残念ながら一つもなかった。

「生徒を複数に対して先生1人が教えてるけど、教えてる内容もうだいたい分かるから、そんなに何度も言わなくて良いのにな…」、「よく分かってないところあるのに分かる前提で話進められるのストレスだな…」、そして何より、「この内容、本当に今教えられる必要あるのかな…」。
そうして、どの教育にも常に何かしらの違和感を持ちながら私は日々何かを教わってきた。

ただ、完璧な教育など存在しない。どれだけ改善を行なっても、完全無欠の完璧な教育が行えることなどあり得ないと思っている。なのでどんな教育にも何かしらの違和感なり不満があることは別に悪いことではない。それだけ、改善の余地があると言うことだから。

ところが、日本という国では「問題があると分かっていながら放置する」歴史が何十年も続けられてきた。別に教育に限った話でもないが、政治家や学者をはじめとして「日本のここに問題がある」という話はどこでも行われていて、それに関する解決策も、思いの外、具体的だったりする。

例えば教育であれば、学校で採用されるカリキュラムはスマホとインターネットで繋がれる今の時代に合ってない。だから今までと違う教育システムを考えて提案していかなければならないが、実行している機関はまだまだ少ない。

私の知る限りで、今までの路線とは違う教育を提供している機関で言うと「ゼロ高」「N高」くらいしか真っ先に思い浮かばない。

この2つは、オンラインによる通信制にして、教える内容は必要最低限にしつつ、現場で仕事している経営者や職人などとの交流の機会を増やしたり、お金やビジネスを学ぶことに時間を割いたり、自分が興味を持った内容だけ学んでそれを定期的にメンターと共有したり、といった新しい教育システムを提案している。
実際の成果がどうなるかまだ不透明なところは多いものの、新しい試みをしている点でとても面白いとおもう。


他にも政治で言えば、「選挙で政治家を決めて、当選した人が多い政党が与党になって、政権運営していく」今のシステムも、有権者一人ひとり実行してほしい政策が違うのに、なんとなく近い考えを持ってる政治家や政党を選んで投票するという雑さがあるために、実際の政策がなかなか進まない。

それを改善するために、有権者からアンケートした意見を集計・分析して、アルゴリズムで政策を決めていくというやり方も学者によって提案されていたりするが、それも試してみようとする人が今の政治家からは現れる気配はない。

問題を指摘し整理する力は相応に持ち合わせていながら、実行する人が誰もいない。これが続いたことで、「問題があると分かっていながら放置する」今の状態が出来上がった。

私にはこれをどうにかしたいと言う気持ちがあって、その中でも貢献したい分野が「教育」なのである。

最近読んだ世界史の本に面白い記述があって、それは、人類の祖先であるところのホモ・サピエンスは、今から約12万年前に地球が寒くなり大型動物が少なくなったことを受けて、それまで住んでいたアフリカの地を出始めた。
それは食料の確保を求めて、勇気ある者たちが「アフリカを出て新しい大陸に行けば、捕まえやすい動物に行き着けるかもしれない」と思い立ち旅立ったからである、と。

つまりここで言われていることは、「危険かもしれないことをとりあえず試してみた人がいたから、我々人類は今日まで生き延びられている」ということ。

今まで通りのやり方・過ごし方でいれば危険はないかもしれない。しかし環境変わった時、それに対応しきれず場合によっては命を落とすことがある。
だから自分なりに社会の変化を知って、それに対応できる策を考え、それが上手くいくかどうか試してみることは、危ない綱渡りのように見えて実は一番堅実な生存戦略かもしれないということが、歴史から読み取れるのだ。

これを学んで以降、事業を立ち上げたいという欲が湧いて、それを続けていくために何が必要なのかや、失敗してもどう対処すればいいかをもっとよく知りたいと思い、新規事業や金融史・マーケティング・倒産した時の話に関する本を読んでみたくなった。

もちろん、教育事業そのものに伸び代があるかどうかでいうと、正直分からない。
今はChatGPTを使ってAIになんでも聞ける時代なので、今さら教育に乗り出してもしょうがないんじゃないか?もっといいアプローチがあるんじゃないか?という不安はある。

ただ、それも含めて盛大に失敗したならば、その経験がまるまる教訓になる。「ああ、ChatGPTで十分だな」と。
逆に、不合理で身体的にも結びつける人間だからこそできる教育があるのだとしたら、それが社会に必要がどうかも含めて貢献してみたいと私は考えている。


以上。
全ての知に「幸」あれ。

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