無限遠の雑踏、さえずり。

晴れ。
昼からバイト。
今の店は商店街を自転車で3分行けば着く。
大学の頃は、わざわざ20分電車に乗ってバイトに出ていた。
なんとなく、学生をやる場所で働きたくなかった。
それとは別の理由がないわけでもないが、些細なきっかけ程度である。
今度は駅の裏に住んでいるのに全然電車に乗らなくなった。
あいにくの世の中になったというのもあるけれど、もともとバイト以外では、しょっちゅう電車に乗るわけではなかったから自然と言えば自然にそうなった。

今も網戸の向こうからうっすら「鳥のさえずり」が聴こえる。
この録音は、視覚障がい者にホームの階段を知らせるために鳴らすらしいが、この音だけはバイトで電車に乗っていた頃より、よく聴くようになった。
盲導鈴と言うらしい。
駅が営業している限りは鳴っているから、夜中でも鳥が鳴いていることになるわけだが、当の鳥たちはどのように思っているのだろう。

バイトのために電車に乗る20分の時間。
今から考えれば、あの間に色々なことを感じた。
通学や通勤の人の多い時間に利用することがほとんどだったから、私はいつもドキドキしていた。
ドキドキというのは、上手く言いきれないけれど、人混みの恐怖と人生の凝縮の驚きと暗黙の無関心の面白さと、(スマホの画面や単行本による)漫画の大人気と、席を譲る人と譲らない人の唇の乾き方と、世の中に電車の姿や運転席から見える世界に夢中な青年やおじさんがたくさんいることや中学生のカバンの重量感等など。
そういう外的なものもいくらでも挙げられるし、自分の内的なドキドキというのは、もっと色々でもっと言葉にしづらい。
例えば私は、いつも酔わないかと心配で、体調の悪い日はほとんど青ざめてホームと電車の隙間を越える。
落ち着くために指先のツボを必死に押すが、これは結構効く。
あるいは、気分の良い日は、乗り合わせたすべての人の顔が面白く、床に落ちる車窓の影がiPhoneの形に似ていることや、小学生が他のどの大人より鋭い眼差しを持っていることに驚いてニヤニヤしたりする。
また、女子生徒のイヤホンを見つめながら、私が予想している音楽と、実際にこの生徒が聴いている音楽とは、どれくらい解離しているかとか気持ちの悪いことも考えてしまう。
もしもバッハや落語だったらどうしよう、と勝手に楽しんでいるのだ。
言葉にすると非常に不気味だ。
全然寝てないまま乗り込んで、満員の車内、窓際でガクっと膝から落ちかけて周囲を脅かしてしまうこともあったが、すべてはなかなか面白かった。

なかでも特別に思い出すのは、ちょっと内省的になって、普段より自分の存在の深いところにいるとき、周りの人間も揺れる車体も、目的地も気にならなくなって、窓の外の景色ばかりに気を取られることが、しばしばあった。
窓の外に広がる街や電線や山々が、すべてまったく不思議に感じられて、どうして世界はこうなるようになったのかと思う。
つまり、この電線やら電柱やら家々やら工場やら建物やら寺社やら橋やら何もかも、この自分のいる電車も含めて、こういう当たり前の人間の作った全部が、まったくなかった頃、この車窓はどんな眺めだったのかと、そればかりが無性に気になりはじめて、それを見ることができないのが非常に不自由に思われる。

ひとたび電車に乗り込めば、目的地までは一方通行である。
私の電車はUターンしないし、目的地に迷って乗っても、その電車の向きに行ける場所のすべては目的地だ。
すぎる風景の素早さと同じように時間がすっ飛んで、気がつけば違うホームの階段を、違う時刻に違う人間とすれ違いながら降りる。
一体何が実際に起こっているのか、はたして分からないが、人はものすごいスピードで動いているように見え、またものすごい静けさで止まっているようにも思われる。
とにかく何事かが、あるxに向かって、脇見もせず前進しているような気だけはする。
そうして着いたその場所で、ほとんど反射的に駅の外まで歩いて、私は、働きにここに来たのだと思い出す。
それはほとんど懐かしいくらいに奥底から込み上げてくる感覚に思えるが、さっき私はどこにいたのか、ということは、ここに来てまったく不明瞭になっている。
しかし、それでは仕方ないので、とりあえず人の流れに紛れて動く。
動くけれども、動くとは、さて誰が誰を動かしているのか。
このように突然にして、私の歩く雑踏は「宇宙の眼」のようなものに釘付けにされる。

ここで何が起きているのか。
このことがまったく不可解であることに気づいて、私はまた、鳥の鳴き声に現実を探すような気持ちになる。