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読書する人だけがたどりつける場所は…さてどこでしょう?

本が好きな人ならこの本のタイトルを見ただけですごくうれしい気持ちになると思う。
わたしはなった。本が大好きだから。

たどりつける場所があるとなればさらに高まる本熱!!

本を読むことの物理的・心理的メリットと、齋藤さんがおすすめする本の紹介からなるこの本。

溢れんばかりに本への尊敬と愛情が滲み出ていた。

大好きなものを語る時のその人の熱量に触れるとき、いつも心地の良さを感じる。

自分までその熱で溶かされ好きだと錯覚をする。
本に限らず熱でほだされ、おすすめされたものはぜひとも体験したくなる。

わたしが本を読むきっかけをくれたのは母だった。

小学生のころ、いつも母の傍らには本があった。
母はとりわけ森瑤子を愛していた。

いまだにわたしにその影響が残っていて、時々森さんの本を読みたくなる。
幼少期の頃に埋め込まれ好きは根深い。

なんとなく本を読む所作を見ること好きで、その佇まいがかっこよく見えていた。
だからかっこいいと思われたくて、自分も本とか読んでる自分のことをかっこいいと思いたくて、思いっきり形から本を読もうと小学生の時に思った。

母みたいになりたかったのもある。

子どもは漠然とだけど確実にその影響を受けるのは母だと、自分が母になった今そう感じる。

母に肯定されたい。母に見ていてほしい。母に…母に…母を起点に感情を走らせてきた。つまり母のことが大好きだった。

我が子3人を見ていても思う。小学生と中学生になっても
ママ~×五万回攻撃を毎日受けている。
幸せな攻撃を受けているとき、それほどわたしに聞いてほしいことが溢れているのかと単純に愛おしい。

おかげでわたしの耳は聖徳太子ばりにずいぶん発達を成した。
もともと女の人はマルチタスクこなし型が多いと思うが、母は然りだ。

わたしは母になってから人間を取り戻したような感覚がある。
それまでが妖怪だったわけではないのだが、昔からなぜ自分は自分なのか?どこから来たのか?なんのために生まれてきたの?理由もなく巡らさずにはいれなかった。

子どもを初めてこの胸に抱いたとき、その理由がこの子に会いたかったからだと2時間涙が止まらなかった。

そして子どもはというと生まれてくる先を自分で決める。
それも母親を選んで生まれてくるなんて抱きめたくなるような説を聞いたことがる。
その理由は様々で、この人笑ってるから楽しそう、何で泣いているのだろう…悲しそう、元気にしてあげたいなんて健気な子もいるらしい…ますます抱きしめたくなる気持ちに圧がかかるじゃないか。

母は子に、子は母に。
なにか深い縁があるのだろう。

と、いうわけで母からのインスパイアと、入り口は思いっきりビジュアルからだったけど、いつのまにか本はわたしの世界になくてはならないものとなった。

時に救いに、時に涙に、時に笑いに、時に感動
数えきれないぐらいの感情の学びがあった。

読書するものだけがたどり着ける場所とはそうところだ。

自分しか思っていないんじゃないと形容しがたい気持ちをすでに言葉にしている人がいる喜び。

どこか自分だけが変なのではないかという絶望にも近い違和感を払拭してくれる安心感。

それはわたしだ!と思わせる太宰治の人間失格なんてのはまさに。私も自分を葉蔵に投影し救われた内の一人だ。
高校生の時、太宰かぶれして男の子が生まれたら葉蔵と名付けようと思っていたほど…今思えば恐ろしく痛い…。

たった千円程度で作者の血肉にまみれた経験を疑似的に味わえるのだから。
本の価値は図りしない。

この文を書いてると、中2の長女が机の上の置いてる本を見つけて
「これおもしろいん? 読書する人だけがたどりつける場所ってどこなん?」

興味をもって話しかけてくれたので、その場所がどこかを熱く語った。

最近は少しずつ本に興味をもつように誘っているおかげで、彼女の世界にも少し本が進出をし始めている。

うん!いい傾向だ。

好きは人を雄弁にする。
あれこれ読んでほしいものが溢れ、とりあえず、きりがないので学校の図書室で借りてみてはとアドバイス。

長女の通う中学の図書室は別棟の最上階で少し奥まっているところにあるらしい。
「図書室な…行けるかな?」
「読書する人だけがたどり着ける遠い場所にあるねん」
なんてヘラヘラ自室に消えていく…

娘よ!たどりつくのだ!まずはその場所へ。

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