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【感想文】夜明け前(第二部・下巻)/島崎藤村

『若鮎はねる木曽の川』

本書『夜明け前(第二部・下巻)』読後の乃公だいこう、愚にもつかぬ雑考以下に捻出せり。

▼あらすじ:

〽︎ 若鮎はねる木曽の川 恵那えなの麓で産声あげた ご乱心の花嫁は 今年十八、名はおくめ 親孝行も水泡すいほうに かえす我が手の自分斬り ここは名代なだいの中山道 それにつけても半蔵は どこまで因果な身の上よ 神田橋を舞う扇 心静かに思いは深く 歌に託した憂いごと つぐみさえずる十曲じっきょくと 加子母峠かしもとうげの奥の奥 飛騨に繋がる天命は いつきの道のいばら道 後を見送る石地蔵 げに儚きは人の御世みよ 昔思えば懐かしや 昔思えば懐かしや。

▼雑考 ~ 半蔵の根本的な死の要因 ~:

第二部下巻は、まず明治二年より継続する山林事件に関する再度の嘆願(明治五年)に始まり、明治十九年、幹線鉄道の経路変更(中山道→東海道経由)の公布までに起きた青山家の出来事が描かれている。

ここでは半蔵の死因に関して取り上げる。まず直接の要因は精神異常であり、これは最終章より明白である。では根本の要因はというと、第二部第十三章第六節において半蔵は次の様に述懐している。

思いつづけて行くと、半蔵は大きな巌のような堅い扉に突き当たる。先師篤胤たりとも、西洋の方から起こって来た学風が物の理を考え究めるのに賢いことは充分に認めていた。その先師があれほどの博学でも、ついに西洋の学風を受けいれることはできなかった。彼はそう深く学問にもはいれない。これは宣長翁のようなまことの学者らしい学者にして初めて成しうることで、先師ですらそこへ行くとはたして学問に適した素質の人であったかどうかは疑問になって来た。まして後輩の彼のようなものだ。彼は五十年の生涯と、努力と、不断の思慕とをもってしても、力にも及ばないこの堅い扉をどうすることもできない。

岩波文庫,第二部下巻,P.293

上記の通り、半蔵は彼が五十年来信望してきた平田篤胤、その人がそもそも正しいのか疑問に感じている。その理由は直前のページに記載の、<<今また新しい「知識」としてこの国にはいって来た西洋思想をもその砥石として、さらに日本的なものを磨きあげられる>> としながらも、篤胤本人がそれを受け入れなかったという矛盾があるからであり、また、明治の時代にあっても平田国学だけが置き去りにされていくことも合わさって、上記引用の <<堅い扉>> をどうすることもできないままに、直後の第十四章第一節から彼の異常が始まるのである(同,P.302)。

▼余談 ~ といったことを考えながら ~:

本書の悲劇性について余談として挙げておく。まず第十四章第三節における、王政復古の際に夢見た <<一切は神の心であろうでござる>> という彼の信条は

かくよろずの物がしみとおるような力で彼の内部なかまでもはいって来るのに、彼は五十余年の生涯をかけても、何一つ本当につかむこともできないそのおのれの愚かさ拙さを思って、明るい月の前にしばらくしょんぼりと立ち尽くした。

同,P.357

と過去を省みながら衰退し、何もなし得なかった己の存在を恥じた彼は直後の第四節であっさり放火してしまう。終始傍観の地平に立ち続けた半蔵がようやくとった行動が、同門の暮田正香、香蔵、景蔵らのそれとは異なる「今更の放火」という現実離れした行動に、私なんかは狂気性というよりもまず悲劇性を感じたのである。

以上

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