無題165_2

見下しながら愛を請うあなたが知らないこと

彼は私に「大切だ、愛している」と何度も言った。
交際を始めて三ヶ月後には、彼から結婚の意思を伝えられた。

ドラマの中にいるような感覚だった。

あのとき私は、たった一人特別な存在として彼に選ばれた。
私は存在を許された。許されるどころか、必要とされているのだ。

こんな私なのに。

特別ではない私

美しさ・飛び抜けた才能・熱中できるもの・賢い頭脳。これらは、生きるうえで絶対に必要なものではない。でも、それに向かうための努力をしている人は素敵に見えるし、手に入れている人たちは輝いているように見える。なくても生きていけるのに、なぜあんなに夢中になれるのだろう。なぜ努力できるのだろう。熱中するものを、彼らはどうやって見つけたのだろう。

私もある日、熱中できるものが天から降ってくるんだろうか。そんなふうに生きていたら進路を決める年齢になっていた。

何にも熱中できない私には、思い描く夢もなかった。

手を動かすことが好きだけど、それを仕事にするほどの熱意ではない。絵を描くのが好きだけど、ノートの端にラクガキする程度だ。歌うのが好きだけど音符は読めないし音感もない。本を見たり触ったりするのは好きだけど、読むことは苦手。やりたいことも、逆にやりたくないこともはっきりしない。

でも幸い、私は不器用ではなかった。誰かに役割を与えられれば、責任を持ってこなすことが出来る。社会人に必要な最低限の能力は、私にも備えられていた。

夢も特技も才能も見つけられないまま、私は社会人になった。

はたらく幸せ

就職すると、仕事が毎日与えられた。教えられた仕事を一つひとつ終わらせて、認められて、また次の仕事を受け取る。特別に面白いことをしなくても、テストで良い点を取らなくても、会社に行けば私のロッカーがあり、私の机があった。いるだけでいい。それが心地良かった。

女性社員だけにあるショムニみたいな制服、女性社員だけがする勤務時間前の清掃、女性社員だけがするお茶汲み、女性社員だけがするお土産配り。女性社員だけがする電話とりつぎ。

仕事内容を自分で選ぶことは想像しなかった。求められる仕事を疑うことなくやり切る以外にどんな道があるのか、私は知らない。だから不満はない。これがきっと今の私の最上の場所。

男性社員と給料の差が大きくなっても当たり前だ。同期の男性社員は、入社早々現場に出向き、取引先の人に顔を覚えてもらい、会社を動かす側に回っている。きっと入社時の選考で優秀だったんだろう。会社が私をそこに配属しなかったのは、きっと理由があるはずだ。そもそも私の望みは上昇することではない。自ら勝ち取りたい仕事もない。この会社で、邪魔にならないこと、役に立つこと。それで十分だった。生きていくだけのお金と快適な人間関係があれば、定年まで働ける。私は自分の平和を守ることがなにより大切である。

そんな時に、出会ったのがミツキ君だった。

必要とされる幸せ

ミツキ君は、毎日電話をかけてきた。交際が始まり3ヶ月経った日に、結婚しようと言い始め、将来どんな暮らしをして何人子供がいてどんな家を建てるかを私にたびたび語るようになった。彼のイメージはとても具体的で、建てたい家の間取り図、子供、飼うペットまでイラストにするほどだった。

ミツキ君が求めている理想を、私なら簡単に叶えられる気がした。なぜなら、その未来予想図に描かれたものを私は全てできるし、彼に望まれないことを絶対にしないのも簡単だ。なにより私にとっての幸せは、平和。ミツキ君が描く未来と完全一致ではないか。

ミツキ君は私を対等に見てくれている気がした。私たちはきっと良いパートナーになれるだろう。確信を持って、私たちは数年後に結婚をした。

結婚してから

金銭感覚も好みも価値観も全く違うけど、私たちは会話が多く、些細な行動のテンポが合っていた。だから、いろんな苦労もさまざまな理由で起きる喧嘩も、私は平気だった。

ミツキ君と意見が合わないとき、私は自分の気持ちをとことん話すけれど、ミツキ君はいつからか「こうであれ」「我こそがまとも」「行動を改めよ」と私をデザインするようになった。デザインされた『私』を心身にまとわなければ、ミツキ君は喜ばない。私はなんとなく居心地が悪かった。そして「そうか、私の平和はこのデザインの中にしかないんだ」と思うようになった。

ミツキ君は、私の身なりにもよく口出しをするようになった。ロングカールヘア・ミニスカート・パンプス・濃いめの化粧・アクセサリー・香水。ミツキ君はたびたび私に、そのような姿かたちになるよう勧めた。

ミツキ君の望む姿かたちにどうしても従えなかった私だが、良妻賢母には強い憧れがあった。良妻賢母は、夫のミツキ君が「良い妻だ、子供達の最高の母だ」と承認しなければ成立しない。器用な私は、妻として母として、家族の為に生きることこそ自分のためだと信じて、頑張り続けた。


良妻賢母を全力で続けているうちに、ミツキ君はなぜだかみるみる亭主関白へ向かっていった。出会った頃に語り合った理想の夫婦とはもうすっかり違う。なぜか私や子供たちは常に見下されている。気がついた時には、ミツキ君は男尊女卑の思想を堂々と私に語るようになっていた。こうなると、私と子供たちの我慢の上にしか平和は成り立たない。


ミツキ君は私にとって大切な存在だった。夫であり親友であり戦友だった。だけど今のミツキ君にとって、私はなんなのだろうか。わからなくなった私は、ミツキ君から離れた。

ミツキ君は「愛しているのに、愛しているからこそ」と私を引き止めたが、私は戻らなかった。


ミツキ君は数年後、ほかの女性と同棲を始めた。

ミツキ君はその女性のことを「お前と似てる馬鹿な子だよ、すごく扱いやすい。」と話し、嬉しそうに笑った。


結婚とは

さて、突然だが「結婚」に必要なものは一体なんだろう。私が一番に思うのは「基本的人権の尊重」である。日本国憲法の言葉だ。この憲法は、現代の女性に適用されているのだろうか、と考える。


もし結婚制度が「男性の幸福」を完成させるために創作されたものだとすれば、花嫁には「価値ある女性」が選ばれる。「価値ある女性」が男性と毎日一緒に暮らせば、男性のQOL(生活の質)は高くなる。すると男性は機嫌のよい時間が増えるから、自ずと家族も幸福そうに見える。機嫌の良い夫に守られる女性は、幸福にしか見えないだろう。

だけど、もっともっと幸福な女性を想像すると、女性たちの理想も男性のそれと大して変わらないことが分かる。女たちだって、好きなことだけをして、やりたくないことをせずに堂々と生きたい。男性も女性も同じ人間だもの。考えるに決まっている。

なぜ、女性だけが結婚に伴って、暮らし方・生き方・名前を変えたり、家庭内での仕事が多いのだろうか。

結婚制度のなかみ

男女は体のつくりが異なるが、同じ人間だと誰もが理解している。なのに、同じ次元から女性を排除し蹴落とす社会は今も続いている。

「美しいこと」「身の回りの世話をすること」「いうことを聞くこと」「癒すこと」など、条件に合う女性だけが、男性の住む次元にもっとも近い特別枠に引っ張りあげてもらえる。

その特別枠の代表が「結婚制度」であり「女の幸福」と呼ばれるものではないだろうか。

女たちにとってこの世は、簡単に自立できない世界、嫌でも男性を頼らなければ生き抜けない世界だ。親たちは、娘が特別枠に難なく入れるように育てることが役目だと信じている。我が子を「選ばれるために美しく」「どこにお出ししても恥ずかしくないように」と躾けて、娘の苦労の芽を一つでも多く摘み取りたい。


男性社会から一方的に蹴落とされただけで、女たちは馬鹿ではない。男性と同じ人間だし、男性と同じように考えることができる。だから自我を持つ多くの女たちは、自分で結婚相手を選ぼうとする。素敵な恋をして愛に生きるため結婚を目指す。

でも相手の男性は、果たして女たちと同じ感覚を持っているだろうか。


この構図は、コミュニティや企業を形作る時や、あらゆる目標を達成する工程の中にも類似したものが見られるように思う。

人は選ばれようと努力をし、選ぶ人の目に止まるようにする。
選ばれようとする側は内側まで美しく磨き上げ、役に立つことを主張する。
選ぶ人は、条件にあった存在をつまみ上げる。

熱量の違い、感覚の違いが明らかではないだろうか。


見下した関係性に、本当の愛はない

私が生まれる前に遡ると、かつては奴隷制度や奉公さんが普通だった時代があった。もし雇い主が労働者に愛着を持ち「愛している」といっても、その愛は対等ではない。それは「特定の労働者への贔屓(ひいき)」であり、主従関係に伴う承認と性愛を混同している。


ミツキ君、あなたは「ただ愛している」と言った。でも、パートナーを見下して便利に活用しながら「愛している」と言い続けることが何を意味するか、あなたは考えたことがあっただろうか。

そんな扱いを受けた私が、これまでと同じ温度の愛を持ち続けられると本気で思っていたのだろうか。

ああもしかして、そのことに気がつかないでいた私のことを「馬鹿だ」と笑っていたのだろうか。


若者たち

思うに、現代の若者達は少しずつ気付き始めているんじゃないだろうか。先人たちの結婚生活に疑問を持ち「人を本当に大切にするということがどういうことか」「愛するとはどういうことか」と考えはじめると、親たちの語る結婚幸福論のなかみや歪みに、嫌でも気がついてしまう。

もちろん昔からパートナーとの対等な暮らしを楽しんでいる人達もいる。尊重しあう両親を見て育ち、尊重されて育った子供だっている。彼らの世界は、きっと私たちと見えている世界が全く違う。羨ましい。許されるなら、その世界を私は生きたい。


この国の人々は、パートナー・家族間の「基本的人権の尊重」を本当に守ろうとしているだろうか。基本的人権が尊重された健全な家庭は、今の日本にどれだけあるだろうか。人々の意識が大きく覆り、愛を実感できる人が増える事を、私は祈るしかできない。男尊女卑は負の遺産。誰も愛を手に入れられない思想なのだ。はやく気がついて欲しい。

愛ってなんだ

とはいえ、そもそも愛ってなんだろう、と考えると、手が止まる。愛についての格言をきっと多くの著名人が記しているんだろう。でも私は、あいにくそれを知らない。現時点でまとまった自分の答えを書いてみる。

愛は何も奪わない。
愛は心の平穏を祈る。
愛は後方を援護する。


若い頃は、全く違った愛を見ていたのかもしれない。人は皆、その時々で異なる愛を持つのだろう。隣にいる人に尋ねても、全く異なる答えがあるということも充分に考えられる。さらに表現の仕方、受け止め方、関わり方が絡まれば、すぐにややこしい事になる。


自分以外の人から、欲しい形にぴったりの愛が与えられないのも納得だ。きっと心の隙間を支配で埋める人達は、寂しさに我慢ができなかったんだろう。


ミツキ君へ

ミツキ君は「お前も早く寄生先を見つけろよ」と言う。彼なりの応援なのかもしれない。

だけど今、私が願う愛は、必ずしも他者を必要としない。自分で言うのも変だが、まるで仙人のようだ。私が見ているものは、ミツキ君が決して見ることのない景色である。

いつからか私は、ミツキ君からとても遠い世界にいる。この安全な場所なら、ミツキ君の幸せを祈ることができる。どうかいつまでもお元気で。


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